1-2 アウトサイダー

 ゼノが自宅から数千マイルも離れたラフサという国に訪れたのは、JOE07とのチャットから三日後のことだった。彼は過去の事件を思い返しながら、総合病院の前で停まるタクシーから降り立った。


 かつて「土地に依存せず、どの国にも属さない」と主張する集団が、独自に設けたネットワークを介して「世界」を壊そうとしたことがあった。無政府主義アナキズム完全自由主義リバタリアニズムの一つと見られていたその活動は、初期こそ小さなデモを引き起こす程度のものだったが、やがて、先進国への政治的な介入やテロの扇動を行うまでに拡大し、ついには一つの民主国家の法治機能を損失させるまでに至った。

 組織のモチーフをトランプカードで描いた彼らは【み札】と呼ばれ、今もこの「世界」から忌み嫌われている。多くの人々が法治国家の崩壊を目の当たりにしたことで、国というものの曖昧さや脆弱さを知り、暗澹あんたんとした時を過ごすこととなった。しかし、その事態を重く見た世の首脳らは、現存する主要国の代表者を集めると、新たな国際公法を定め、「世界の保全」を目的とした組織を立ち上げた。それが、ゼノ・シルバーの属する組織にあたる。

 国際刑事警察機構ICPOを基盤にしているが、大きな違いは加盟国内での捜査権限、そして逮捕権限が与えられていることだろう。組織には長ったらしいフルネームがあるのだが、その特性からか、もっぱら「世界警察」と揶揄やゆされた。今ではその呼び名が代名詞として浸透しているどころか、そちらが正式名称だと勘違いされることも少なくない。そのため、ゼノ自身も自己紹介では、デフォルトで「世界警察」を枕詞にしている。そのほうがスムーズに、彼が何者であるかを相手に理解してもらえるからだ。そういった意味では、人類はようやく、この「世界足るもの」に馴染んできたのかもしれないと、ゼノは考えていた。


「世界警察の者です」

 そう言ってゼノが身分証を見せると、受付の看護師は検案室まで彼を案内した。開かれた扉の中は涼しく、仄暗い。室内はさらに一枚の壁で仕切られており、その壁に設けられた窓から、剖検ぼうけん室と呼ばれる奥の部屋を覗き見ることができた。解剖台が照らされて、その上には被害者の遺体が寝かされている。それは、彼が休暇前に会議室で見せられたものと同じ光景だった。

 本部の中でもとりわけ大きな会議室に招集がかけられ、休暇前にも関わらず足を運んでまで見せられた映像。普段はいたずらに広い会議室も、その日は集められたメンバーで十二分に満たされていた。鬱陶うっとうしいほどの熱気。その中に埋もれるようにして席に着いたことを覚えている。長期休暇を申請中の自分には、全く関係のない事件だと肘をついて待っていると、前面のスクリーンに映し出されたのは、女性の遺体だった。切り裂かれた下腹部から臓物の覗く様が、なかなかに衝撃的だったのか、彼の中でそれは鮮明な記憶として刻まれていた。画面の右下には日付が記されており、死体はその未明に発見されたのだと、壇上の男がマイクを通して説明していたのを思い出す。


 ──連続殺人

              ──身元不明

       ──子宮の欠損


 そんなキーワードだけが、辛うじて頭の片隅に残っているものの、内容の詳細までは覚えていない。ただ、犯人の遺留品がトランプカードだったことは印象に残っている。そして今現在、彼の眼前にある四角い窓枠内にも、会議室で流れていた映像と同じ光景が広がっていた。薄暗い剖検室の中で照らされた遺体は、映像の女とは別人のはずだが、体つきはどことなく似ている。硝子越しでなければ死臭がするのだろうか。そんなくだらないことを考えてしまうのは、無意識に気を紛らわそうとしているからかもしれない。そうやって眺めているうちに、裂かれた下腹部の中からビニール袋に入ったトランプカードが一枚見つかったと、マイクを通して剖検室で解剖をしている医師から報告を受けた。クラブの十一。それは、会議室で見せられた映像と同じものだった。


「死後経過時間は、二日程度と思われます。臓器の損傷もあるため、詳細な結果が出るまでには、少し時間がかかるでしょう」

 解剖を担当した医師は、大きく息を吐きながらゼノにそう告げた。

「あの、先生」ゼノは手元の資料を眺めながら尋ねる。「被害者の体内に犯人の遺留物、まあ、体液というか……つまり、遺伝子情報の手がかりになるようなものは残っていませんでしたか?」

「ああ……残念ですが、精液であったり皮脂であったり、そういったものの収穫は望めないでしょう。暴行を加えられた痕跡も見当たりませんでした。確かに子宮はありませんでしたが、事件の起こる前に取り出されていたようですね」

「えっと、つまり、犯人が腹を裂いたことと、子宮の欠損に関連性はないと?」

「関連の有無はわかりませんが、彼女の子宮自体は的確な手術を経て、摘出されていたということです。縫合の痕もありましたが吸収糸は完全に溶けていたので、少なくとも一ヶ月、おそらく三ヶ月以上前に手術されたと推察します」

 ゼノは唸りながら、手元の資料に目を向ける。

「えっと、死因は失血死ではない、と?」

 ゼノの問いかけに、医師は首肯した。

「心臓発作、という表現がわかりやすいですかね」

 そう言って医師は、自分の胸を軽く叩いてみせた。

「心臓発作……ですか」

「ええ。おそらく薬物摂取によるものです。高カリウム血症により不整脈が起き、そして心停止に至ったと考えられます」

「えっと、専門的なことはわかりませんが……つまり絶命した後に、下腹部を裂かれたってことですか?」

「そうなるでしょうね」

「勢い余っての犯行、というわけではなさそうですね」

 ゼノは犯人の意図を計りかねていた。

「その、薬物って、どういったものなんですか?」ゼノは頭を掻きながら尋ねる。「あー例えば、その、コカインとか覚醒剤だとか」

「いえ。そういった類のものではなく、具体的に挙げるなら、塩化カリウムである可能性が高い。それを注射器か何かで、静脈内に投与されたのだと思います」

「静脈内、ねえ……」ゼノは再び頭を掻く。「何だか病院で行う処置のような言い回しですね」

 ゼノは明るい声色で話すように努めたが、もっとわかりやすく説明してほしいとアピールしたつもりだった。

「家畜やペットの安楽死の手段としても、よく使われるんです。ちなみに、この国の薬殺刑も同じ方法で行われているんですよ」

 残念ながらあまり意図が伝わらなかったようだ。細かなことは後にでも調べようと、ゼノは頭を切り替えて質問を続けた。

「えっと、例えば投与が注射器か何かで行われたとなると、自殺の可能性も考えられませんかね。腹が裂かれたのは別にしても」

「無いとは言い切れませんが、可能性は低いと思いますよ。分析結果はまだ出ていませんが、事前に睡眠導入剤を投与していた可能性が高いですから。睡眠導入剤として使用されたのは所謂いわゆる、バルビツール酸系と呼ばれるもののうちのいずれかでしょう。そうなると塩化カリウムは、彼女が昏睡状態のときに投与されたと推測できます。でないと、あまりの苦しさに普通は暴れてしまうので、その痕跡が身体のどこかに残るはずですから」

 所謂、が全くいわゆっていない。ゼノは手にしている『スティック』と呼ばれるフィルム状の電子機器に、小さく「バルビツール」とメモを残した。録音も行っているが、念のために。

「そうですか……それで、その塩化カリウムというのは、比較的簡単に手に入るものなんですか?」

「ええ、すぐそこの薬局でも販売されていますよ。もちろん、命を絶たせるために売っているわけではありませんがね」

 そう言って、医師は大声で笑った。ジョークのつもりのようだが、ゼノには何が面白いのかがわからない。

 と、彼がそうやって医師から説明を受けていたところで、恰幅の良い中年男がどかどかと足音を立てながら、断りもなく部屋に入ってきた。後ろからついてきた病院のスタッフから、地元警察の担当者だと紹介を受ける。

「いやあ、急に来ていただくことになって、すみませんねえ」

 中年男がゼノに声をかけた。

「いえ、構いませんよ」そう答えて、ゼノは右手を差し出す。「はじめまして、世界警察国際捜査班のゼノ・シルバーと申します」

 中年男はその手を軽く握り返して応じた。

「あなたのことは聞いていますよ。年齢のわりに、経験豊富な方だと」

 男の口ぶりはどこか厭味っぽく聞こえたが、ゼノは気にせず笑顔で返した。男は目をぎろりとさせて手を離すと、続けて語りかける。

「いやあ、それにしても死体なんて、数年前まではそこら中に転がっていたもんですが、今では見つかりゃ大騒ぎですからねえ。シルバーさんも急に呼び出されて大変だったでしょう。ああところで、この国は初めてですか?来てみた感想はいかがです?私は贔屓目ひいきめなしに旅行するには最適な場所だと思いますよ。世界遺産だって八つもありますからね。それに夜の街はきっと貴方を満足させるでしょう。なんと言っても、酒が旨い。最近ではブランデー造りが流行りでして、地域ごとのオリジナルボトルが存在するんですよ。それを巡ってみるのもいいかもしれません」

 中年男の一方的な会話は、途切れることなく続く。それは外部の人間に対する不信感を隠そうとしているようにも見えた。

「そうそう。それでシルバーさん。どうされます?」

 男の不意な問いかけに、ゼノは戸惑いながら尋ね返した。

「あの、何を、でしょう?」

「その、つまり、ですね」男は少し言いづらそうに咳払いしながらも、耳元で囁くように語りかける。「捜査に加わるんですか?」

「えっ、加わらなくてもいいんですか?」

 ゼノは声を張り上げ、驚いたような表情を向ける。それに対して、中年男はウィンクで返した。

「報告書だけで済むのであれば、全てこちらで用意しますよ。休暇中だったのでしょう?ホテルもこちらで準備してありますから。現場は我々に任せて、この国でゆっくり観光でもなさってはいかがですか」

 中年男の提案にゼノは、それも良いですねえ、などと言っては頭を掻いた。この中年男の云わんとすることは明快だ。


 『邪魔をするな』


 南アジアに位置するラフサという小さな内陸国。その国にゼノが滞在していたのは偶然に近かった。長期休暇を取得していた彼もその仕事柄、居場所は常に管理されているものの、そんなことも忘れるほど奔放に世界各地を渡り歩こうと目論んでいた。その一番初めの渡航先が、ラフサだったのだ。しかし、まさかの旅行初日。旅客機から降り立った途端、内耳に埋め込まれたレシーバーが遠慮無しに鳴り響き、続けて申し訳なさそうな声色の上司から、休暇の取り消しを言い渡されたのだった。本来であれば死体などではなく、優雅な街並みを眺めて散歩を嗜んでいただろうと、思いを巡らせる。

「あーでも、嬉しい提案ではあるんですが、そのー……サボるわけにもいかないんですよね。私にも評価ってのがありますから、あははははは……すみません」

 ゼノが抑揚のない笑い声を出しながらそう答えると、中年男は苦々しい笑みを浮かべた。

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