1-1 揺籃なる世界


「世界」とは何だろう。


 磁気浮上式鉄道マグレブの座席に腰を落としながら、ゼノ・シルバーは黙考した。思春期をこじらせたような考えがその頭を廻るのは、彼の所属する組織のモットーに「世界の保全」という文言が記されていたからに違いない。組織の掲げるスローガン。もしくは大義名分。あるいは、社訓とでも呼ぶのだろうか。その意味を、彼は勤続八年目にして初めて理解しようとした。彼の両手には、フィルム状の電子機器が握られていて、視線はそのディスプレイに注がれている。反射光を利用したディスプレイは、一見すると上質紙のようにも見えるが、両端に備わるプラスチックを軽く撫でるだけで、映し出されている文字が上下にスクロールされる。ホームサーバへ毎朝届けられるニュースコンテンツ、そのおまけで付いてくる編集者コラムを味読することが、彼の帰路における楽しみの一つだった。

 コラム曰く「形而上けいじじょう的な存在であるはずの国家、いて国際社会は、数値で示される資本の取引と、形を備えた物品の交易を加速させることで、まるで神経伝達を司る脳幹や血脈流れる臓器をその内に孕むかの如く、その存在を人々に誇示している」

 ゼノは思う。国家の存在が認められ、国と国が関わり合うこと。組織の掲げる「世界」というものが、そういった相互関係の成立を指すのであれば、今ある社会は「保全すべき世界」に足り得るのだろうと。


《 お疲レレ様でシシた 》


 ゼノの帰宅と同時に、自動音声が玄関に鳴り響く。スピーカーが故障しているのか、左側の音が割れて聴こえる。何ヵ月も前からの症状だったが、ここ半年は働き詰めで修理に出す暇も無かった。

「労いの言葉はいらないよ。今日はほとんど働いてないからね」

 そうやって自動音声に応じる彼をあざける者はいない。


 日暮れ前の帰宅は久しいはずなのに、リビングには今朝と変わらない静けさが漂っていた。室内の景色が代わり映えしないのは、外光を遮断しているせいだと思い至り、壁一面のスモークを解除してみる。マンションの上層から眺める街並み。同僚たちは今も勤務中だろう。自身もつい昨日までその渦中にいたことを考えると、なぜか罪悪感が胸に湧き出た。戻る頃には、もう自分の居場所は無いかもしれない。そんな不安も頭をぎる。

 彼はその日の午後から、二ヶ月ほどの休みを取得していた。ここまで長期にわたる休暇は、学生時分以来だった。消化しきれない休暇の残高から、規定で許されるだけの日数をまとめて申請したのだ。そうしようと思い立ったことに、特筆すべき理由など無い。何のために休むのか、休暇中に何をするのかと、周囲からは矢継ぎ早に質問されたが、そんなことは彼自身にもわからなかった。しかし、何かしらの理由付けは必要だと感じ、スキルアップのために留学をしてみたいとだけ告げてきた。それは実際に「いつかしたいこと」の一つとして存在していたため、あながち嘘でもない。ただ、そうするとはまだ決まっていないというだけで。

 仕事の引継ぎを済ませることと、内耳ないじに埋め込まれた通信機器がいつでも繋がるようにしておくことを条件に、ゼノの上司は問いただすこともせず、その申し出を承諾した。そして本日午後、彼は晴れて自由の身になったというわけだ。


 ゼノはソファに横たわり、クッションにその身体をゆっくりと沈めていく。やがて、硝子ガラス越しに眺めていた外の景色は、海中の擬似映像へと切り替わり、立体音響で泡音が流れ始めた。魚の泳ぐ姿を眺めていると、自身も水中に漂っているような気分になれる。このまま何も考えず、時を過ごそうとした矢先。耳元で電子音がささやかに鳴り響いた。プライベートチャットの招待状が届いたようだ。テーブルに敷かれたパッドに手を伸ばし、人差し指でそれを二度叩く。すると招待状の開かれる効果音とともに、壁の映像がチャット画面に切り替わった。相手側は送受信ともに、テキスト表示のみにしているようだ。こちら側は逆に、音声入力と自動読み上げ設定にしている。彼の音声は自動的に文字へと変換され、相手の文章もソフトウェアが音声を付加して読み上げてくれるのだ。わざわざキーパッドを使う必要がなく、画面を注視せずに済むのが、彼には楽だった。


Date: O.C.8 - Feb - 30

Time: 15:58:32 - UTC+1

Member: JOE07 - Voiceless mode, 5i1ver - Hands free mode


JOE07 >よう、今日は休みか?


 オンライン上のアカウント名を現実世界の通り名にすることは、「私が誰かWho am I」を伝える手段として、最もシンプルな方法の一つだろう。けれど、ネットコミュニケーションと現実世界とを適度に切り離しておきたいゼノにとって、それは理解に苦しむ行為だった。つまるところ、今回のチャットの主催者は、現実世界でも「JOE07ジョー・セブン」と呼ばれる男であり、その一方で、ゼノは「5i1ver」という、読み方もわからないようなアカウント名を自身に付けているのだった。


5i1ver >まあね


 ゼノは横になったまま、応じる。


5i1ver >ところでなぜ君は無声モードなの?

JOE07 >目の前に客人がいるんだ

5i1ver >じゃあその人とおしゃべりしなよ

JOE07 >どうも嫌われているらしい

5i1ver >もっと嫌われると思うけど

JOE07 >もう手遅れだな

   > 相手はずっと外を眺めている

5i1ver >それ大丈夫なの?

JOE07 >ああ、あと五時間は一緒だけど

5i1ver >それを大丈夫とは言わないよ

JOE07 >相変わらず冷静な奴だな

5i1ver >暇つぶしなら切っていい?

JOE07 >>相変わらず冷静な奴だな←訂正する

   >お前は冷 静coolなんじゃなくて

   >ただの冷てぇcold奴だ


 JOE07の表示させたキャラクターは、悲しそうな表情をしている。


5i1ver >さすがに五時間は付き合いきれない

JOE07 >なら、今のうちに休むが良いさ

5i1ver >許されるならそうさせてもらうよ

JOE07 >きっとこれから忙しくなるぞ

5i1ver >なんで?

JOE07 >心の準備しとけ


 JOE07のキャラクターは、舌を出す仕草をして消えた。


「何がしたかったんだ」と、ゼノは静かに呟き、そのまま瞼を閉じる。「忙しくなる」という彼の予言が当たったとしても、休暇中の自分には関係ないことだと、そう考えながら。

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