第拾壱話「●Recちゃんねる配信します」

 川で溺れたのは九年前、自分がまだ『ききりん』だった頃の話だ。


 この頃はまだ虎子とともに子供らしいヤンチャさを持ち合わせていた。その二人にとってそこは格好の遊び場だった。ギャンブルで借金した神主が夜逃げしてから、そのお宮は本格的に秘密基地と化していた。台風が接近するということで、その日の天気予報は大雨と強風注意報が出ていた。子供には、大人になった今ではよく分からない考えがまかり通ることがある。その時は、強風でじゃらじゃらと鳴る鈴の緒を見に行こう、という流れになっていた。危ないからやめようと話したが、その神社には「由緒ある治水の神がいて、その神をみんなで祀ることにした日から洪水が無くなった」と虎子のお祖母さんからよく聞かされていたこともあり、結局決行することになった。小学校が終わってすぐ神社まで行った。しかし、神社に着いた時にはすでに問題が発生していた。鈴の緒に付いていた鈴が無くなっていたのである。どうやらこの強風で飛ばされたようだ。虎子は探そうとしたので、もう帰ろうと諭した時「あっ見つけた!」と虎子が叫んだ。止める間もなく虎子は走り出した。川の前で止まった彼女は、こちらに見せるように頭上の高さまで鈴を持ち上げる。その時、突風が吹いた。風に吹かれ、後ろの川へ。なんとか岸の端を必死に握り締め、川に落ちるのを踏みとどまる。既に足は流れに呑み込まれ、次は全身を喰らおうと口を開いている。すぐに小さな手の握力が激流に負け、岸から手が外れる。呑み込まれる前に彼女の手を掴む。しかし、こどもの力では到底及ばない。決死の覚悟して、勢いよく体を捻った。虎子の足は少し浮かび、その一瞬を見逃さず、岸に登った。しかし、代わりに体勢を崩した黄木凛は川に放り出されて―――。


 覚えている記憶はそこまでだ。次に目が覚めると、病院のベッドの上にいた。心配する虎子と家族たちが安堵の表情に変わって抱きしめてくる。溺れた日から二週間が経っていた。


 その時からだった。自分から自分の感覚がなくなったのは。


 しっかりと見えているはずなのに視界がぼやける。日光がくすんで見える。意味を持たない色の粒子に分解されていく。聞こえているのに音が遠い。まるで母胎のなかの胎児のように薄皮を被っている。触れているものがすべてふよふよする。その対象が、自分自身がこの世に存在しないかのように。どんな詩的な言葉で彩っても意味を持たない。すべてがゲシュタルト崩壊している。楽しいはずなのに楽しくない。悲しいはずなのに悲しくない。いつも意識だけ自分の体から離れ、遠くで操っているような、画質を低くした自分が映る動画を眺めているような、プレイヤーに操られるゲームの主人公のような、そんな感覚。その『黄木凛』という要素の塊を見つめれば見つめるほど、自分という全体像は失われ個々の構成物質に切り離されていく。


 ゲーム脳、バーチャル世代、医学から哲学書まで、さまざまな分野で探した。よく似た症例はあった。それを頼りに治療に務めたが、治ることはなかった。同時に、どんなことをすれば心が動くのか、【実験】をするようになった。自分のことを『黄木凛(俺)』と呼ぶようになったのも丁度その一環である。分かりやすかったし、むしろ具合が良かった。その後も、様々な【実験】を行った。しかし、意味はなかった。敢えて人の嫌がることをしても、親に勘当されても、異性の胸を揉んでも、神を脅しても、【実験】は一度も成功しなかった。

 溺れたあの日、確かになにか大切なものを失くした。しかし、“それ”が自分には理解できなかった。朧げなまま、ただ生きてきた。


 そんなことは知らず、溺れた日から毎日、白形虎子は神社にお参りするようになった。きっと、虎子のことだ。最初は『黄木凛が起きますように』と祈ったのだろう。それで目を覚ました。だから、目を覚ました今でもお参りするのは『黄木凛を起こしてくれてありがとう』と伝えているのだ。


 しかし、間近でその光景を見ても、何も思わなくなった。「お前はなにか大切なものを失くしたんだぞ」と見えないものの輪郭をなぞられるだけ。


 “それ”が何なのか、理解できたのは初めてネ申ネトに訪れたとき。エモーショナルメールで思念を飛ばしても、“それ”を送ることは叶わなかった。確信せざるをえなかった。

 それでも、【実験】をした。

 黄木凛には“それ”が本当にないのかを試した。床に伏せる幼馴染みに、『ききりん』が好きだったはずの初恋の相手に【実験】した。

 結果、確信は確証に変わった。親身に看病しているようで、自分と似た姿のだれかが、どんどんと衰弱していく彼女を非情に見下ろしていた。本人たちは気が付いてないかもしれないがコムライスや疫病神も協力してくれて、初めて【実験】は証明された。その末に浮かんだ言葉はたった数文字。


「ああ、やっぱり」


 それだけだった。


 表面に現れる前に宙に消える。どこかへ届く前に塵芥に変わる。残ったのは『理解』から遥かに遠い、“感情それ”の向きを予測する機械のような『判断』だけだった。


□□□□□


 あの日から三日が経った。

 コムライスは力無い様子で、ふらっと何処かへ消えて、もうずっと会えてない。脅迫されていることを忘れるほどのショックだったに違いない。その思いを推量しても、自分の心では遠く及ばなかった。


 そして、虎子とも会っていない。この三日間、週末の二日間をはさみ、週明けの今日は台風が近付いているとのことで自宅待機となった。虎子の方もまだ完治しておらず、学校に行ける状況でない。ただ熱などの症状は回復の兆候にある、と拙い操作の跡が見えるメールで経過を聞いた。見舞いに行こうにも、自分自身が病原菌と変わらないので、逆効果になる未来が目に見える。自然に回復するのを待ったほうが無難だ。メールの続きで、近頃は委員長が来てくれて嬉しい、とも書いてあったので、心配はいらないだろう。

 外では横殴りの風が吹きすさんで、ガタガタと窓枠が虎落笛のような音を立てて震えている。ノートパソコンを開けて自宅でネットサーフィンを決め込んでいた。とは言っても、ネットでは台風の話題で持ちきりだ。


 つぃ~たからダイレクトメールが着信する。


『●Recちゃんねる配信していないので最近寂しいです。一ファンとして応援して待っています。』


 そういえば最近、ネ申ネトを始めてからは、『神様革命の会』にパ・ブミヤ、虎子の看病にかかりっぱなしで自分の配信『●Recちゃんねる』を全くしていなかった。


「『今日の0:00に●Recちゃんねる配信しますよ。』っと」


 久しぶりに自分の配信をするのもいいだろう。丁度、配信に最高のネタもある。


「ヤクちゃーん」

 殺風景な自分の部屋で、小動物でも探しているかように疫病神を呼ぶ。しかし、反応はない。

「んー、出てこれないのかな?」

 この前はアンの能力で肉体から出すことが出来た。今はそういった外的圧力もなく、一方的に呼んでいるだけだ。本来は切っても切り離せない存在、それが肉体と魂なのかもしれない。

 足の裏を突かれる感覚がする。下を見ると、足元の影からぬぅと黒い頭部が出てくる。顔の上半分だけ出して、眉を八の字にひそめている。恨めしそうな、やるせないような、上目遣いでこちらを見る。しかし、敵意は感じない。

「ああ、そこにいたんだ」

 相手に合わせて目線を下げる。結果的に床に腹ばいの状態になっていた。疫病神は影の範囲に入ろうとして、必然的に顔との距離が近くなる。


「一人じゃ出てこれないのかと思った」

『繧?▲縺ヲ縺ソ縺溘i縺ァ縺阪◆(やってみたらできた)』

「そうなんだ」

『……縺ェ縺ォ?(……なに?)』

「ん、呼んでみただけ」

『……』


 部屋に早すぎる沈黙が訪れる。横殴りの風がツッコミを入れるかのように、ボロアパートをびゅんびゅんと叩く。委員長が言うようにこの天気もあながち悪くもない。


「いやぁ、疫病神っていうのもなんだし、ヤクちゃんの名前って本当にヤクちゃんでいいのかなって?」

『……縺雁・ス縺阪↓(……お好きに)』

「じゃあ『ヤクちゃん』で決定。後からやっぱり嫌だと思ったら、遠慮なく言ってね」


 疫病神は何も答えず明後日の方向を向く。

 部屋にもう一度沈黙が訪れる。しかし、その沈黙は一拍の間で、ぽつりと言葉を落とす。


『……縺斐a繧薙↑縺輔>(……ごめんなさい)』

「ん? お名前が気に入らなかった?」

『……縺昴l縺倥c縺ェ縺(……それじゃない)』

「じゃあ、なんで謝るの?」

 疫病神はバツが悪そうに視線をそらす。目線の高さを揃えたほうが話しやすいと思ったが、逆に居心地が悪いふうになってしまった。


『遘√′荳榊ョ悟?縺ェ蟄伜惠縺ァ縺ゅk縺ー縺九j縺ォ鮟?惠蜃幢シ郁イエ譁ケ?峨?蟷ク縺帙r螂ェ縺」縺ヲ縺励∪縺」縺(私が不完全な存在であるばかりに黄木凛(貴方)の幸せを奪ってしまった)』

「それは違うんじゃない?」

 その言葉に彼女は顔を上げる。

「そもそも、ヤクちゃんがあの時、自分の魂の代わりになってくれなければ死んでいたわけで。ヤクちゃんはヤクちゃんなりに必死だっただけだし。別に自分を卑下しなくてもいいと思うけど」

『……』


 疫病神の頭を撫でる。反応は変わらず、恨めしそうに見上げている。顔の下半分が影に隠れているので、もしかしたらその水面下で尻尾を振っているかもしれない。目に見えない部分は都合のいい解釈で補填する、というのが黄木凛(俺)の独自のルールだ。


「それに自分の幸運っていわゆる、ヤクちゃんのおかげなんでしょ?」

 疫病神は何も言わなかった。ただ何も言わず、小さく頷いた。

「やっぱり、そっかー。前々からおかしいとは思ってたんだけどね」

 自分の人生は幸運に恵まれていた。自他ともに認める、類まれな幸運だ。動画や生放送で奇跡的な展開が度々起こった。しかしそれは、疫病神のおかげで、他人に行くはずだった幸運を自分が奪い取っていただけだったのである。自分の動画は文字通り『神展開』だったわけだ。趣味で始めた『ゆぅちゅ場』で、驚くべき再生数を叩き出しここまで人気になれたのも納得できる。


『……縺斐a繧薙↑縺輔>(ごめんなさい)』

 疫病神はもう一度謝ってきた。


「今度はなんの謝罪?」

『遘√?鮟?惠蜃幢シ郁イエ譁ケ?峨?霑代@縺?ココ縲∽ク。隕ェ繧?區蠖「陌主ュ舌r荳榊ケク縺ォ縺励◆……縺斐a繧薙↑縺輔>(私は黄木凛(貴方)の近しい人、両親や白形虎子などを不幸にしてきた……ごめんなさい)』

「あー、それかー」

 疫病神は人間関係が近しい相手ほど不幸にしていく。親は借金で家計が火の車、虎子はドジや不運。この前のブミヤの一件も、虎子がオレオレ詐欺の標的になったことがきっかけ、いわゆる彼女の『ツキのなさ』が関係していた。それらは疫病神が起因したものだったとすると理屈が合う。


「でもそれも、どこまでがヤクちゃんのせいなのか、自分のツキのせいなのか、または自分の行いからの結果……つまり因果応報だったかもよく分からないじゃん? 卑下しても仕方ないよ」

『縺昴l縺ァ繧……縺斐a繧薙↑縺輔>(それでも、ごめんなさい)』

「……うん、本当なら本人たちに謝ればいいんだろうけど、自分に謝っても仕方ないと思うけど、繊細なことだからね。ヤクちゃんが謝りたいなら聞き届けるよ」


 疫病神は俯いて黙ってしまう。ただ、袖をぎゅっと握ってくる。

 そのまましばらく、時間が過ぎた。

 疫病神は何も言わず、すっと手を放す。きっと懺悔が済んだのだろう。


 黄木凛(俺)は上体を起こし、疫病神と向き合う。

「ひとつ質問なんだけど、俺の中に入った理由はなんとなく分かったんだけど、その後は動画配信とかで信仰が集まってたはずだから、どこかしら出ていくチャンスはあったわけじゃない? どうして留まってるのかな、って?」

『縺昴s縺ェ縺薙→縺励◆繧蛾サ?惠蜃幢シ郁イエ譁ケ?峨′豁サ縺ャ(そんなことしたら黄木凛(貴方)が死ぬ)』

「うん、そうだけど。ヤクちゃんには関係ないことじゃない?」

『……縺斐a繧薙↑縺輔>(……ごめんなさい)』

 そう言うと、疫病神は黙って影に潜ってしまう。


「……ヤクちゃんは優しいんだね」


 自分の影を指でなぞる。そのまま語りかける。


「最後にヤクちゃん。一つ頼みたい事があるんだ」


 そう言うと、影から視線を感じた。




 黄木凛(俺)は配信の準備に取りかかった。




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