第2話

 轟音。

 私は、火炎と黒煙の中で気がつく。

 私の身体は、無惨な状態だった。胴や胸を金属の破片が貫き、手足の骨はへし折れ、あらぬほうへ曲がっている。幼児が弄んだ末、放り投げた玩具の人形。私の身体はそういう状態で炎の中にあった。

 意識は朦朧としている。

 時折、脳の中に断片的な映像が浮かび上がった。凄まじい轟音と光。全身を貫く衝撃。そして、全てを破壊する貪欲な火炎。それらの記憶が次々と浮かび上がっては、消えて行く。

 私は、それでもあたり前のように立ちあがった。

 ずたぼろになった服が纏わりつくのを毟り取る。炎の中から歩みでた。私の身体は10回くらい死んでも不思議はないくらいほど破壊されていたはず。

 私は夜の闇の中に、漆黒の裸体を晒した。私の身体は既に修復されつつある。焼け焦げた皮膚は剥がれ落ち、下から新しい皮膚が姿を現す。そして、破壊された骨は元通りに接続されてゆく。

 私の記憶が私に囁きかける。こんなことはあたりまえだと。

(私は夜の眷属なのだから)

 そう。

 私は夜を支配する者たちに属する。そして、人間たちに狩られるものでもあった。

 石で出来た道。その上を歩いてゆく。

 ここはどこだろうか。

 夜の中に浮かび上がる輝く塔が、見える。

 記憶が次第に形をなしてゆく。

 ここはデルファイ。死霊の都。そしてここには、もう一つの名がある。ここに住まう人間どもの呼び方。それは新宿という名。

 残骸と化している私の乗っていたアルファロメオは、高速道路の高架下で炎をあげ私の裸体を照らしている。私のアルファロメオを破壊したのは、人間の狩人。その狩人たちが、もうすぐここにもくるはず。

 しかし、私の目的地はもう目の前だ。ゾーンと呼ばれる場所。

 高圧電流の流れるフェンスによって囲われたその場所は、もう目の前に来ている。

 記憶が流れ込んでゆく。アルケミアでの私の記憶。そう、私の名はヌバーク。攫われた王を救うためにここへ来た。

 ようやく狩人たちの到着した気配がある。狩人たちは、ヘッドライトを消したワンボックスカーを私の後ろに止めた。

 十人近い男たちが私の後ろに展開してゆく。

 私は振り向く。レーザー照準機の発する光の点が、私の身体に灯る。それは夜の空に輝く星々のようだ。

『夜の眷属』

 そう、私は夜に属する。夜こそ私の時間だ。

 あるものは、「ヴァンパイア」という昔ながらの名で私たちを呼ぶ。私たちは日の光を浴びることを嫌い、人の血を啜って生きてゆくから。

 しかし、私たちはの存在の本当の意味は別のところにある。私たちはアルケミアの貴族たちに属したものであり、アルケミアの記憶を保ったままこのデルファイへ来ることができるものだ。

 凄まじい閃光と轟音。

 狩人たちが放ったグレネードランチャーだ。人間であればその轟音と閃光に五感を奪われ、一時的に行動不能となる。しかし、私にはなんの意味も無い。

 私は跳躍した。銃弾が私のいた場所を通過する。

 狩人たちは銀でコーティングされた銃弾を使用していた。それは、私たち夜の眷属に唯一傷をおわせることが可能な物質だからだ。

 けれども、愚鈍な人間の力で私たちに銃弾を命中させるのは容易なことでは無い。

私たちはあらゆる意味で人間どもよりも優れている。だからこそ、愚かで脆弱な人間たちは私たちを狩るのだ。

 かつて哲学者は弱者こそ闘争に勝利すると語った。確かにそうなのだろう。人間はあまりに脆弱でかつ醜すぎた。無様な存在として生れ落ちた憎しみを、私たち完全なる存在に向け、狩りたてる。私たちには、人間のように醜悪な憎しみを持つのは不可能だ。だから最後に勝利する弱者=人間というのは正解なのだろう。私たちは闘うには誇り高すぎる。

 私はフェンスの上に立つ。

 高圧電流が火花を散らし、私の身体を蒼白く燃え上がらせた。このフェンスの向こうは『ゾーン』だ。狩人たちもそこまでは追ってこない場所。

 私は夜の闇に向かって哄笑する。レーザーの光が、火花を散らし燃え上がる私を捕らえた。

 再び銃弾が放たれるが、それは虚空を貫いたに過ぎない。

 私はゾーンの中に降りる。

 夜の闇より尚昏いその場所。そこがゾーン。

 侵入した私に、ゾーンの内部からスポットライトが浴びせられる。私は素早く跳躍してゆき、廃墟と化した建物の中へと侵入した。

 ここは、脱出しようとするものに対しては厳しい対処が行われるが、内部に入りこむ者に対してはむしろ大雑把な対応しかされていない。しかし、現実には外の世界との出入りは黙認されている部分があった。

 ゾーンとはバイオ・ハサード・ゾーンの略称である。未知の生物兵器によって汚染された区域という名目で閉鎖されている地域のことだ。新宿の中心部、半径5キロメートルくらいの範囲。ただ実際のところの汚染状況は、よく判っていない。

 ゾーンは自衛隊の兵士たちが要所、要所を警備している。内部は生物兵器の汚染が残っているはずだが、その被害にあった者はほとんどいない。汚染されたものを外に出さないという名目で厳重な警備が敷かれているものの、実際には汚染物質など存在しないのではないかとすらいわれていた。

 私は廃墟となった建物の地下へと入りこんでゆく。地下は、完全な闇だ。夜の眷属である私にとってはむしろ親しみやすい空間といえる。

 私は冥界のように暗い闇に閉ざされた地下街へと下っていった。こんな場所でも人の気配がある。

 ゾーン内部には様々な人が生活していた。なぜ汚染区域に人が溢れているか。それは、この新宿のある国、日本が完全に破綻しているからだ。

 二十一世紀を越えてまもなく、経済的に破綻しきった日本の紙幣は紙屑同然まで価値を下げた。完全失業率は30%を超え、街は浮浪者と犯罪者に満ち溢れている。

 ゾーン内でおこるできごとに対して、警察や自衛隊は決して介入しない。あくまでも彼らは、そこから出るものを射殺するのみだ。それもあくまでも乏しい予算の範疇での話だが。よって、犯罪者にとってゾーンにさえ逃げ込めば、とりあえずの身の安全を確保できることになる。

 また、借金を抱えたものが逃げ込むこともあれば、テロ組織が拠点を持つために利用するケースもあった。ここはダークサイドを生きるものたちの楽園ともいえる。結果的にゾーン内には様々な人間で満ちていたが、自衛隊も警察もそこに介入する気は無い。彼らはフェンスの警備をするだけの予算しか与えられていないのだから。

 地下街には浮浪者が棲息しているポイントがいくつかある。彼らは群れて集落を作っていた。そうした場所は簡単なテントや、照明があるため見れば判る。そうした浮浪者たちが私に気づいたようだ。

 裸体で、ゾーンに迷い込んだ黒い肌の女。彼らから見れば私は、何かのトラブルでここに逃げ込んだ者なのだろう。

 浮浪者たちは私を遠巻きにしつつある。捉えれば、女である私を利用する術があるとでも思っているのか。彼らは手にした懐中電灯の光を私に浴びせる。

 私は立ち止まる。

 浮浪者たちも立ち止まった。

 半径10メートルくらいの円を描いて私をとりまく。

 彼らは手にナイフや棍棒、鉄パイプを持っていた。銃を向けてこないのは持っていないというよりは、私を殺したくないということなのだろう。

 私は獲物を見る獣の目で、彼らを眺める。

 円の向こうにリーダーらしい男がいた。少し小柄で、目つきの鋭い男だ。比較的程度のいいものを着ている。私の狙いが決まった。

 鉄パイプを持った男が一歩前に出る。

「おい」

 その男の言葉と同時に私は跳躍していた。浮浪者たちの頭上を越え、リーダーらしい男の前に立つ。その男が何かを叫ぼうとする前に、その顔を鷲掴みにする。

 軽く力をいれた。あっさりと首がねじ切れる。血が鈍い鉄色の光を放ち、しぶく。

私はその首をほうりなげた。

 円の中央に生首が落ちる。

 浮浪者たちは何が起こったのか一瞬、判らなかったようだ。私の動きが速すぎたせいだろう。生首は何も言わず、暗い虚空を睨んでいた。

 浮浪者たちはようやく事態を認識したらしく、一斉に私のほうを振り向く。私はリーダーの男のポケットにあった銃を取り出す。38口径の安物のリボルバーだ。中国製らしい。

 私は無造作にそれを撃つ。鉄パイプを持った男と、ナイフを持った男が倒れる。パニックが広がった。悲鳴をあげ浮浪者たちは、逃げ出してゆく。

 私は男の身体から衣服を奪う。銃は捨てた。私にとってはあまり意味が無い。財布にはUSドルが入っていたので、それは貰っておく。

 男の衣服を奪った私は、闇の中へと消える。その気になれば、闇の中で人間に気配を感じさせないまま移動することは可能だ。

 私は地上にでる。

 夜の街。

 そこは完全な廃墟だった。荒れ果てたビル街は半ば崩れ落ちている。路上には解体された車が瓦礫に埋もれた状態で放置されていた。

 それでも、そこは人に溢れている。

 簡易テントがそこここにあり、ちょっとした人だかりのあるところには、屋台の飲み屋があった。あるいは、ちょっとしたフリーマーケットがある。

 深夜を過ぎているとはいえ、人通りはけっこうあった。人種は様々。年齢も性別も様々だ。

 道端で子供たちが、派手な音楽をかけながら踊っている。ギターを抱えて轟音を奏でている者もいた。そうした風景は外とそう大差は無い。

 ただ、多くのものが麻薬に酔った目つきをしており、そうでないものは異様に鋭く危険な瞳をしているということ以外は。

 私は仲間を探さねばならない。

 白痴の王子、エリウス。

 彼の者こそ、我らが王ヴァルラ様を救うことができる。しかし、エリウスはただの人間だから、私のようにアルケミアでの記憶を保持していないはずだ。エリウスを探し出し、彼に真の記憶を取り戻させねばならない。

 私は、エリウスを探すため魔道を使う。

 ここでは、魔道はうまく作動しないといわれる。

 といっても完全に作動しないわけではなかった。精霊たちは風にのせて様々な音を運んでくる。

 その精霊たちの運んでくる音の中から、エリウスの気配を探す。容易ではない。私のやろうとしていることは、無数のささやき声の中からたった一人の人間の声を聞き分けようとするのと同じことになる。随分と時間がかかりそうだ。

 ふっ、と。

 私はその音に気づく。

 エリウスではない。

 しかし、別の世界を知る者。

 私と同じところから来た者がいる。

 音楽にのせられた声。それは間違い無く、私が知っている者の声だ。

 私はその音楽を求め、夜の街を彷徨う。

 夜の街。私は音楽に導かれるまま、そこを歩いてゆく。まるで深海のように暗く密度が濃いが、真夏のジャングルのように豊穣で鮮やかな空間。

 そこを歩く者たちは酒や麻薬に酔い、緋色や群青の原色をそのまま使った布切れに身を纏っている。目のうつろなものも、肉食獣の瞳をしたものも、あまり私に関心を持たない。私が気配を断ったせいだ。

 屋台が建ち並び、どぎつい色の食材や獣の頭、鈍く光る鋼鉄の武器や派手なパッケージの麻薬入り煙草や酒、そうしたものが無造作に売られている市を通りぬけてゆく。

暗く熱い空気がねっとりと淀んでいた。

 派手な格好をした人々が叫びあい、語り合い、楽器を奏で歌っているが、私の耳にはその音は入ってこない。私は遠くから聞こえるその音楽に集中し、引き寄せられていた。

 時折、道端に人間がころがっている。生死は不明だったり、あからさまに血を流していたりするが、どちらにせよ私には興味が無い。そのまま無視して通りすぎる。

 音楽は、アリアドネの糸のように私を導いていた。夜の闇。その闇の彼方から聞こえる呼び声のようだ。

 街の賑わっているところから少し外れる。すると音楽は強度を増した。

 立ち並ぶ廃墟と化したビルたち。鉄骨を剥き出しにし、瓦礫に埋もれたかのように見えるその建物たちは、現代芸術のオブジェのようでもあり、太古の王の墳墓のようでもあった。

 廃墟に漂う闇の中に、人間とも獣ともつかない薄汚れた姿の者たちが蠢いている。

しかし、気配を断った私には興味を示さないようだ。

 私は、さらに廃墟の奥へと入ってゆく。

 唐突に。

 その巨大な倉庫は姿を現した。大きな箱のように窓が無い建物。周りに、黒尽くめのファッションに身を包んだ若者たちがたむろしている。音楽は間違い無く、その巨大な倉庫の中から聞こえていた。

 私は、革の拘束衣を思わせるハーネスやベルトのやたらとついたファッションの若者たちの間を、通りぬける。何かに取り憑かれたような隈のある目をした若者たちは、私をじろりと見つめるが興味を持ったふうでもない。

 倉庫の壁には、派手な壁画が描かれている。自動ライフルで武装した天使、ドレスを来た死神、鋼鉄のバイクに跨る女神、廃墟に立つ巨神。そうした絵が派手な色で描かれていた。

 私は、その倉庫の扉を開く。

 くらい通路が真っ直ぐ伸びている。

 その通路の入り口に黒い革のロングコートを着た、体格のいい黒人の男が立っていた。目つきは危険なほど鋭いが、なぜか聖職者を思わせる静けさを身に纏っている。

「もうギグは始まっているぜ」

 黒い男はそういって私をじろりと見る。私はUSドルの札を差し出す。男は無造作に数枚取り上げると、道をあけた。

 私は通路を歩く。音楽が近づいている。私の胸は高まった。この高揚は、まるで恋人に会いにいくかのよう。

 私は、最後の扉を開く。

 轟音。

 想像を絶する大音響が私を包み込んだ。

 暗くて広いその場所は、いかれた格好をした若者たちで満ち溢れている。ハロウィンパーティーに迷い込んだようだ。広大な場所は妖魔や魔導師のスタイルをしたものたちで、隙間なく埋められている。

 轟音は凄まじい。

 音で床が振動しているのが足に伝わってくる。

 その振動で足が震えた。全身が音の圧力に握り締められるのが判った。

 リズムを刻む、凄まじいビート。巨大な龍の体内に入りこみ、その心音を聞いているようだ。

 倉庫を満たした若者たちは、海底で揺らぐ死体のように身体を動かしている。奥に設置されたステージの近くには、半裸の女の子たちが踊り狂っていた。闇の中で蠢く白い肌は、深海を遊弋する鮫の腹を思わせる。

 倉庫全体が振動し揺らいでいた。音がそこにいる者たちを結びつけシンクロさせている。

 不思議な一体感。魔法のような瞬間。

 ステージの上にはその男がいた。黒い髪をして嘲るような笑みを浮かべ、巨大なデジタル機器を身体の一部として操り音をコントロールしている男。獣の咆哮のような歌を歌い、音楽を操ってここにいる者たちを思いのままに動かしている。

 その男を。

 私は知っている。

 奇妙なことにステージの上には、デジタル機器の間に十字架の掲げられた祭壇があった。その上には大きな棺桶がおかれており、まるで祭儀上のようだ。このギグは誰かの葬儀だとでもいいたいのだろうか。

 ここに来て身体を揺らし、踊っている者たちはそんなことを気にしている様子はない。彼らはまるで死の天使に導かれ、地獄に向かう亡者の群れのようだ。

 海水のようにその倉庫を満たした轟音の他に、意識のチャネルを変えると様々なささやき声が入ってきた。私はその亀裂から染み出る清水のような囁きに、意識のチャネルを合わせてみる。

(あいつ、知ってるの?)

(ああ、ボーカルの? 有名じゃん。ブラックソウルっていう)

(ブラックソウル?)

(何それ、だっせえの)

(バカじゃん)

(しらねぇのかよ、あの伝説)

(伝説う?)

(黒人のさあ、元SEALSかなんかの兵士で、中東で何百人と人殺した男がやつの歌きいて、言ったんだってよ)

(なんて?)

(やつにはブラックのソウルがある)

(ぎゃっはっはっ)

(ひっでぇ、まじかよ)

(ひーっ、ひっひっ。腹いてえ)

(バカすぎ)

(なんかそれ聞いて本人よろこんでさ、おれのことはブラックソウルって呼べって)

(だっははははっ)

(げらげらげら)

(痛すぎだぜ、そりゃ)

(自称なの? 頭悪すぎじゃん)

(その黒人、麻薬でらりって死んだらしいけどね)

(あのへっぽこヒップホップがブラックのソウル?)

(あっははははは、死ね一度)

 ブラックソウル。

 その言葉が私を貫く。

 その言葉は私の心を甘やかに蹂躙している。

 私は気がつくとステージの前まで来ていた。周りには半裸の女たちが深海で歌う魔女のように身を揺るがせ踊っている。

 ブラックソウル。まぎれもなく我が女王、ヴェリンダ様の夫である家畜。この邪な家畜は私を呼んだのだ。

 ブラックソウルは私を見ていた。邪悪な瞳。唇にはりついた嘲笑。

 突然。

 音が死んだ。

 ブラックソウルは片手をあげる。

 全ての音が消えていた。まるで、時間が止まったようだ。私たちは突然、闇の中に裸でほうりだされたように不安になる。

 さっきまで踊り狂っていた若者たちも、不安げに立ち尽くしていた。ただ一人。嘲笑を口元に貼り付けたブラックソウルがマイクを手に取る。

「見ろ、狩人たちが来た」

 ブラックソウルが上を指差す。私ははっとなって見上げる。

 光と音が炸裂する。スタングレネードだ。

 パニックが起こった。

 皆、出口めがけて走り出す。何人かが押し倒され踏みつけられ、悲鳴があがった。

 高い所にある、窓が割れる。もう一度、スタングレネードが投下された。閃光と轟音が消えた後に、数人の男たちが倉庫の中に降りているのに気づく。

 三人一組らしい男たちは四箇所から侵入したようだ。男たちは暗視ゴーグルをつけ、都市迷彩ふうにグレーの彩色がされた戦闘服姿をしている。腰だめにした短機関銃を小刻みに撃ち、逃げ惑うものを巧みに誘導していた。

 その手際のよさ、場慣れた様子はどうやら狩人らしい。私はゾーン内部まで入りこんで来たことに軽い驚きを覚えるが、元々非合法機関である狩人たちの組織にとってゾーンの中であろうと関係無いということか。

 短時間で、その倉庫を満たしていた若者たちは駆逐された。この広い空間に残されたのは、狩人たちを除けば私とブラックソウルだけだ。

 私の身体にレーザーの光がポイントされる。気配を感じて、上を見上げると割れた窓から狙撃手が私に狙いを定めていた。どうやら、ここで決着をつけたいらしい。おそらくここの周囲は武装した狩人たちで固められているのだろう。

 ブラックソウルはただ一人、悠然と笑っている。死者の国の、王を思わせる表情で。

ブラックソウルはマイクをとった。

「ようこそ、おれのショウへ」

 ブラックソウルは妙に上機嫌だ。狩人たちは黙殺している。意識は私にのみ集中していた。

「といったものの、見てのとおりショウはまだ始まっていない。しかも主賓が登場していない。そろそろショウを始めようか」

 ブラックソウルの後ろで、設えられた祭壇の十字架がゆっくり倒れる。鈍い音をたてて十字架が地に落ちるとともに、棺桶の蓋が静かに動いた。

「紹介しよう。彼女こそ、ヴァンパイア・アルケー、ヴェリンダ・ヴェック」

 狩人たちに動揺が走るのが判った。ヴァンパイア・アルケー。それは、狩人たちの最大の宿敵であると同時に、最悪の強敵である。

 夜の眷属と呼ばれるものたちは私もふくめ、元は人間だった。私たちはヴァンパイア・アルケーと呼ばれる存在によって夜の眷属にされたのだ。私たち自身に新たに夜の眷属を創り出す力は無い。

 そして、棺桶の蓋が落ちた。

 闇の濃さが増す。

 瘴気が流れる水のように溢れ出し、倉庫を満たしてゆく。

 闇はまるで命を得たように、狂乱の気配を振り撒いていった。私は全身が総毛立つのを感じる。私は幻惑を感じた。この空間に漆黒のメエルシュトロオムが生じたかのようだ。そして、その中心に棺桶がある。

 ゆっくりと。

 闇色の太陽が昇るように、ヴァンパイア・アルケーが立ちあがった。

 闇が祝福するように膨れ上がる。

 漆黒の肌に黄金の髪。誇り高い闇色の野獣のような美しい裸体を晒しながら我が女王、ヴェリンダ様が静かにステージに降りた。

 私は跪いて、女王を迎える。

 狩人たちは一歩も動けなかった。予期せぬ事態に遭遇したのだから、撤退すべきなのだろうが、その判断力すら失っている。

 それほどに。

 ここの闇は深い。人間が原初の世界で出会ったであろう闇への恐怖。それがここにはリアルに渦巻いている。

 ただ一人。

 ブラックソウルだけは上機嫌に微笑んでいる。まさに自身の主催するショウを楽しむプロモーターとして。

 ヴァンパイア・アルケーは厳かに語る。

「さて、家畜ども。私のために自らの血を差し出しにきたか。それは重畳。しかし、おまえたちのように無様で醜い家畜の血を余は好まぬ。おまえたちは家畜の中でも特に醜く愚かで脆弱なものだ。そんなおまえたちの穢れた血はいらぬ」

 闇が微笑んだ。

 ぞくりと。

 戦慄が走り抜ける。

「それでも余のためにわざわざ血を差し出しに来たものを追い返すほど、冷酷ではないぞ。褒美をとらせる。喜ぶがよい。おまえたちに、より美しくより相応しい身体を与えてやろう」

 どさりと。

 上の窓から狙撃手たちが落ちてきた。

 まるで虫のように、そのものたちはぐねぐねとのたうちまわる。その身体は次第に膨張していった。その顔は数倍に膨れ上がる。巨大に広がった口から苦鳴がもれた。

「ぶひい」

 豚の叫びだ。戦闘服が破れ、豚の身体が顕わになる。手足は縮み胴だけが丸々と膨らんでいく。狙撃手は完全に豚へ姿を変え終わると、豚の声で悲鳴をあげながら倉庫の隅へ逃げ込んでいった。

 残りの狩人たちも、床へ崩れおちる。皆、うねうねとのたうちながら豚へと変化していった。豚たちは、怯えながら倉庫の隅へと逃げ込む。

 拍手の音が鳴り響く。

 ブラックソウルだ。

 ブラックソウルは満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくりと前へでる。

「いいショウだった。楽しんでもらえたかね」

 ブラックソウルは、私の前に立つ。狼の笑みを浮かべたブラックソウルは私の前を通りすぎ、床に落ちた短機関銃を拾う。

 そして、その銃をフルオートで撃った。金色に光るカートリッジが飛び散る。ブラックソウルは弾倉を次々と換えていった。銃弾を浴びた豚たちは、悲鳴をあげなが死んでゆく。

 豚たちが血臭を残し全滅した後に、ブラックソウルは銃を捨て再び私を見た。

「エリウスは見つかったかね」

 私は首を振る。

「おれは押さえているよ。エリウスの居場所も、ヴァルラの捕らえられている場所もね。おれとともにこい。ヌバーク。おまえの王を救ってやろう」

 私は頷く。

 ブラックソウルは信用できない。しかし、ブラックソウルはかつてこのデルファイで幽閉されていたヴェリンダ様を救ったのだ。そのことによって、ブラックソウルはヴェリンダ様の夫となった。ある意味、エリウスと同等の能力を持っているのだと思う。ブラックソウルに従わざるをえないだろう。

 そして何より、私はヴェリンダ様と行動を共にできることが嬉しかった。


 いつもの白昼夢が訪れる。

 夢に近いが、夢そのものではない。眠っている訳ではないのだが、イメージが心の中に満ち溢れてそれを明確に見ることができる。

 いつも繰り返し見るイメージ。

 それは、幼いころから何度も見たことがあるもののような気がする。ただ、ここゾーンに入って以来その頻度が増えていた。

 私は水の中を漂う。青い世界。それはどこか暗い海の底のような場所なのだが、水は薄ぼんやりと青い光を放っている。私は青い世界を漂っていた。

 そして、私はいつか光に向かって落ちてゆく。輝く光の中へと私は吸い込まれる。

その光の中に人影を見出す。

 その人影は。

 私の顔をしていた。

「おい、アリス」

 私は呼ばれて、白昼夢から目覚める。私の隣の運転席に座る男。私の雇い主。黒い髪のその男は、野性的な笑みを私に向けていた。

「ついたぞ。そこのビルだ」

 私たちは、ワゴン車を降りる。

 ゾーン。

 広大な廃墟。崩壊したビル群が、昼下がりの陽光に晒されている。私たちはビルのひとつに向かう。比較的にきちんとした状態を保っている、十階だて程度のビルだ。

 一階は何か店舗があったらしいが、今ではがらんとした空洞にすぎない。かつては何かの商品が並べられていたかもしれないその場所は、剥き出しのコンクリートを晒しているだけだ。そこに何人かの浮浪者が寝そべっているが、私たちに興味を示す様子はない。

 私たちはその空洞を横目で見ながら、階段を登る。目的地は、そこの二階だ。

 階段を登ったところのドアの前に立つ。私の雇い主は、そのドアをノックした。

「どうぞ」

 声に促される形で私たちはその部屋に入る。酷く無防備な気がした。

 おそらくこの街は噂に聞くとおり、そういう場所なのだろう。テロリストや犯罪者が、基本的に互いに干渉しあわないという暗黙の了解が存在する街。つまりゾーンの外で対立しあっていても、この中では攻撃しあわないという場所。

 そもそもここは無政府区域なのだからあらゆる公共機関が存在していない、よってここで生きていくには、なんらかの形で協力し合わなければならない。もしここで暗黙のルールを無視して戦闘を始めれば、ここのネットワークから締め出されることになる。それはこの街から排除されるのと同じことだ。よって相互不可侵の、暗黙の了解が成立する。

 だからこそ、非合法組織がビジネスのためのオフィスを構えるのにうってつけの場所ということになるわけだ。余計なコストをかけず、シンプルなオフィスを用意できる。それは全ての組織にとってメリットのあることだった。

 私たちの入ったその部屋は、思ったより広い。家具がほとんど存在しないためそう思うのかもしれない。

 剥き出しのコンクリートの床には、無造作にソファが向かい合う形で置かれている。

そのソファに腰をおろしている人物がこの部屋の主らしい。

 整った顔だちと肌の肌理から判断すると、女性のようだ。ただ、髪を短く刈りこんでおり、身につけているものもアーミーグリーンのTシャツにグレーの作業ズボンというスタイルなので、女性らしさは皆無であったが。

 その女性は引き締まった精悍な身体を持っている。そして、目をひくのは左手。漆黒の義手を装着しているらしく、黒い金属質の質感を持っていた。

 奥のほうにはOAデスクが置かれている。その周囲には数台のサーバーやルーターを格納しているらしいラックが数機設置されていた。

 OAデスクには液晶ディスプレイのデスクトップパソコンが置かれている。その前にもう一人座っていた。

 顔だちはとても美しい。はっ、と息をのむほど可憐で繊細な感じの美貌だ。黒い髪に、黒い瞳、そして黒い服を身につけている。なぜか黒い蝙蝠傘が傍らに置かれていた。性別はよく判らないが、体格はどうも男性のように見える。

 美少年、というほどには若くない。美青年といったところか。

「あんたが、三日月莫邪さんか?」

 私の雇い主の問いかけに、ソファに腰掛けた女性が答える。

「そうや」

「おれが連絡したブラックソウル。そして、こっちが」

 雇い主、ブラックソウルが私を指し示す。

「おれが雇っている傭兵のアリス・クォータームーン」

 三日月莫邪は、自分の前のソファを指し示す。

「まあ、座ってくれ。ミスタ・ブラックソウル」

 ブラックソウルは苦笑した。

「ミスタはいらない。ブラックソウルでいい」

「そうか、こっちも莫邪と呼んでくれればいい」

 私たちは、莫邪の前に腰を降ろす。

「しかし、思ったより若いな」

「これでも二十歳や。若いのはお互い様やろ、ブラックソウル」

『おーい』

 莫邪の後ろのOAテーブルから声がかかる。

『こっちは紹介なしですか?』

 ブラックソウルは困惑したように眉をあげる。

 何しろ、喋っているのが人形だからだ。

 OAテーブルの前に座っている美青年。その前には身長四十センチほどの着せ替え人形が座っている。その人形は金髪で可愛らしい笑みを浮かべているが、そのスタイルは黒尽くめに白レースフリルを多用したゴスロリふうだ。

 そのゴスロリ人形が喋っている。どう考えても、実際に喋っているのは美青年なのだろうが、腹話術とは少し違っていた。そのゴスロリ人形にはスピーカーが内蔵されているようだ。おそらく青年の喉に筋肉の動きを感知して声を組み立てるシステムが、埋めこまれているのだろう。

「あの、」

 青年がすまなそうに言った。

「すみません」

 莫邪は肩を竦める。

「あいつは、ほっといていい。ややこしいから」

『ややこしいって、ちゃんと説明しろよ』

 ゴスロリ人形は可憐な笑みを浮かべ、幼い少女の声でしゃべる。生きているようにすら思えた。

 莫邪は、青年のほうを見ずに言った。

「相棒の月影喜多郎。以上」

『以上、て。おれは月影愁太郎。よろしくね』

 人形が可愛らしく言う。青年はぺこりと頭をさげた。

「よろしくお願いします」

「って」

 ブラックソウルは珍しく困った顔をしていた。

「もう少し、説明が必要だと思わないか」

 莫邪はため息をつく。

「ややこしいんだよ、あいつは。あまり触れたくない」

『ややこしいとは、失礼だね』「すみません、説明します」

 喜多郎は、あまり感情を感じさせない、消え入りそうなか細い声で言った。

「あの、愁太郎は双子の兄なんです。昔、肉体を無くしたんですけど、精神は僕の心の中に残っているんです。精神だけになったんで喋れなかったんですけど、この人形を使ってしゃべれるようにしたんです」

「なるほど」

 ブラックソウルはため息をついた。

「ややこしいな」

「だからゆうたやろう。とにかくそっとしておいてくれ、あいつは。それはそれとして、外人さんの傭兵かい。しかも金髪で青い目とはな」

 莫邪は私を見つめる。私は苦笑した。

「珍しくないだろ、特にこの街では」

「アジア系、インド系、イスラム系というのは珍しくないけどな、純粋な白人というのは珍しい。むしろ黒人のほうが多い」

「へえ。初耳だ」

 私は肩を竦める。

「それで?白人はUSAのスパイにでも見える?人種差別は勘弁してくれ。ちなみに言っておくが私はアイリッシュだ」

 ふん、と莫邪は鼻をならす。

「それでや。あらかじめ言っておくけど、おれたちは月影盗賊団、ひらたく言えば泥棒や。殺しはおれたちの仕事やない。そういうのはクォータームーンさんにおまかせする」

「アリスでいいよ」

 私の言葉に莫邪は頷く。ブラックソウルが言った。

「人間だけが相手ならそもそもあんたらには頼んでいない」

「まず説明してもらおうか」

 莫邪はブラックソウルを真っ直ぐ見る。

「おれたちにどこから何を盗ませる気や」

「おれたちの行く先はグランドゼロ」

 ブラックソウルの言葉に莫邪がのけぞる。

『へえ、びっくりだね。バイオテロルで汚染された中心地かい。そんなところに何があるのかな?』

 ゴスロリ人形の言葉にブラックソウルが答える。

「グランドゼロ。つまりあんたが言うように生物兵器によるテロルの中心地のことだが、そもそもテロルが本当にあったと思うか?」

 莫邪が答える。

「そもそも生物兵器による汚染など存在しないという噂なら聞いたことあるが」

『汚染区域に入っても、いわれてるように発病して死んだ人なんていないよね』「そうだ。そもそもここを隔離することが目的で、テロルが演じられたんだ」

「まさか」

 莫邪の言葉に、ブラックソウルが答えた。

「まあ、信じなくてもかまわないがね。グランドゼロ。あそこにはバイオテクノロジーにより様々な医薬品を開発している多国籍企業メビウスの研究所があった。そこで開発された生物兵器の実験を行うためにここは隔離されたんだ」

「つまり今汚染されているわけではなく、今後汚染されたときのリスクを減らすために?」

「そうだ」

「あほな、それやったらそもそもこんな街中に研究所を造る必要が無い。どこか辺鄙なところでやれば」

 ブラックソウルはどこか邪悪な笑みを浮かべる。

「そうじゃない。ゾーン自体が大きな人体実験場だとしたらどうだい」

「まあそれなら理屈はあうかも。そやけど、それにしては隔離が中途半端や」

「まだ、実験がその段階に達していないのだろうな。それとおそらく最終的には実験範囲は日本全体に拡大される」

「なんやて」

 ブラックソウルは楽しげに言った。

「今の日本は世界のごみだめみたいなものだ。現代において、国際社会から消失しても一番誰も困らない国はおそらく日本だ。それは冷戦体制の崩壊、つまり日本が反共産主義の極東防衛ラインとしての意味づけを失った時点で決定付けられたことだがな」

『ごみだめねえ。言い得て妙だねえ』「あほ、何感心しとんねん」

 ゴスロリ人形のつぶやきに、莫邪がつっこむ。

「で、グランドゼロから何を盗むというのや」

「生物兵器の人体実験があそこでなされている。その検体だよ、おれの欲しいものは」

「つまり死体?」

「まあ、まるごとひとつはいらない。組織を一部切り取ることができれば、どんな実験が行われているのかは判る」

 ふん、と莫邪は鼻をならす。

「やっかいそうな仕事やな」

 ブラックソウルは優しげに言った。

「やめるかい?」

「あほいえ。ここまで聞いて断ったら、あんたに消されるやろ」

 あははは、とブラックソウルが笑う。

「そいつはどうも」

「で、どうするんや。計画から実行まで全部おれらに丸投げしたいんやったら、それでもいいで。ただ値段は高くなるけどな」

「いや、こちらの実行計画に従ってもらう。おれのチームのメンバとして動いて欲しい。まずおれのプロジェクトベースへ来てもらう。そこでシミュレータを使ったリハーサルを数回行う。実行は一週間後」

 莫邪は立ちあがった。

「OKや。それなら安くしとくで。基本料金だけやからな。とりあえず、行こうか。

あんたのプロジェクトベースへ」


 グランドゼロ。

 かつて製薬会社メビウスのビルであったが、今ではただの廃墟にすぎない。巨大な墓標のように暗黒の空に向かって聳えたっている。

 私たちの乗ったワゴン車はその聳え立つ漆黒の廃墟が間近に見える地点で止まった。

グランドゼロを監視している兵士たちに見つからない、ぎりぎりのポイントだ。私と莫邪、それに月影が車から降りる。

 車を運転していたプラックソウルは、少し笑みを見せるとその場から去っていった。

ブラックソウルは、別の場所から連携をとる。

 私たちは廃ビルのひとつに入りこむ。周縁部には溢れかえっている浮浪者たちも、さすがにこのグランドゼロの近くには見当たらない。生物兵器に汚染されているといわれる区域に、好き好んで入りこむようなものはいないということだ。

 暗視ゴーグルを装着し、私たちは廃ビルの地下へと入りこむ。そこは、なんらかのマシン設備が設置されていたところらしいが、今はがらんとした洞窟のようだ。

「やれやれ」

 莫邪がつぶやく。

「こんなくそ重たいものを装備するはめになるとは」

 確かに、私と莫邪の背負うバーレット・アンチマテリアル・ライフルは14キロ以上あり、実際長距離狙撃をするわけでもない今回の作戦にはやっかいなだけのしろものにも思える。

『んじゃ、おいていけば』

 月影のバックパックに固定されたゴスロリ人形の突っ込みに、莫邪がほやく。

「あほいえ、おれたちの相手は人間やないからなあ。おまえはいいよな」

 そういわれた月影の背にあるのは、蝙蝠傘だけである。ダークグレーのインバネスに蝙蝠傘とゴスロリ人形を装着したバックパックを背負っているという奇妙な風体なのだが、彼の奇天烈さには多少なれたせいかそれほど不自然に思わなくなった。

 ただ月影も軽装備というわけではなく、片手に端末をおさめたケース、そしてもう一方の手には地上においてきたアンテナに接続されたケーブルを持っている。

 私たちは洞窟のようなその地下室の最奥に辿り着いた。そこには頑丈そうな鉄の扉がある。両手の荷物を降ろした月影は、そのドアノブに手をかけた。

「あれ、開いてないよ」

 私は舌打ちする。あまりここで時間をとる予定ではなかった。

「斬ろうか」

 月影は、莫邪に問いかける。莫邪は首を振った。

「いや、おれがやっとこ」

 莫邪は気軽に言うと、左手のグローブをはずす。漆黒の義手が顕わになる。

 まるで、バターを斬るようだった。

 漆黒の義手はあっさりと鉄製のドアのノブを円形に切り取る。驚いた私に笑いかけると、ドアを開いた莫邪が私を招く。

「レディ・ファーストでいっとこか」

『あんたもレディだろ』「まあ、そうともいうが」

 私たちはその奥へ入りこむ。階段が下っている。酷く狭い。

 月影の持っていたケーブルはここまでだった。終端についた中継アンテナを立て、階段の上端に設置する。私たちは狭い階段を下ってゆく。薄暗い照明が入っており、ここから先は暗視ゴーグルは不要だ。

 やがて、地下の配管トンネルに辿り着いた。そこは巨大な獣の体内に入りこんだ気にさせられる場所だ。丁度人の背丈くらいの高さと幅を持ったトンネル。その壁は様々なケーブルやパイプによって覆い尽くされていた。

 ある意味それは、臓器的な形態を持っている。私たちは、そのトンネルを歩き出した。

 莫邪は私の左手への視線に、微笑みで答える。

「この手が気になる?」

「まあね」

「ま、いってみればある種の生物兵器なようなものでね。こいつは虫でてきている」

「虫?」

「ああ。人工的につくりあげられたナノサイズの虫。その虫が身体の表面に微細な黒鉄砂をつけて、おれの左手を擬態している」

「驚いたな、一体どこでそんなものを?」

「ま、色々あってな」

「あったよ」

 月影の声に、私たちは立ち止まる。そこから先はフェンスで閉ざされていた。フェンスの周りには様々な探知装置がついていて、その向こうへ入りこもうとすると警報装置が作動するしくみだ。そのフェンスの奥こそ、グランドゼロへと繋がる道があった。

 フェンスの奥へと続くケーブル群に、点検装置が装着されている。点検装置を通じて、光ファイバーケーブルから何本ものメタルの構内線へ分岐させる分岐装置を、コントロールすることができるらしい。その点検装置のパネルを月影は開いた。開かれてあらわになった点検装置のパネルに、ケースから取り出したノート型の端末を接続してゆく。

 ノート型端末の液晶ディスプレイにネットワークのイメージ図が表示された。二系統のラインが表示されている。片方はブルーに輝き、アクディブであることを示し、もう片方は灰色で待機系であることを示していた。

「OK、待機系に繋がったよ」

「よし、ブラックソウルに連絡や」

 莫邪の言葉に、月影はトランシーバーのスイッチを入れる。

「こっちはスタンバイOKだよ」

(判った)

 トランシーバーからブラックソウルの声が漏れる。そして爆発音。と同時に、液晶ディスプレイに表示されていたアクディブ側のラインが、ブルーからレッドに変わった。そして、灰色だった待機系のラインがブルー表示に変わる。ブラックソウルがアクディブ側の光ファイバーケーブルを増幅装置ごと爆破したためだ。

「ここのラインがアクティブになったよ」

「よしっ、ゴーだ」

 莫邪の声に、月影は端末を操作する。ディスプレイに表示されたラインが両方レッド表示になった。

「ウィルス注入完了、あと五秒でシステムダウン」

「5、4、3、2、いくぜ」

 莫邪は一呼吸おくと、漆黒の左手でフェンスを切り裂く。警報装置は沈黙したままだ。私たちはフェンスを乗り越え、ブラックソウルを待つ。

 ブラックソウルは十分ほどで現れた。

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