冥界のワルキューレ

憑木影

第1話

 そこは、闇の中だった。

 その闇は下方へ向かうにつれ、次第に濃くそして深くなってゆき、上方へ向かうと次第に明るく薄暮の世界になってゆく。そこは巨大な筒の内側のような場所だ。

 円筒形の長い空間である。広さは直径1キロといったところであろうか。どのくらいの深さがあるのかは、見当もつかない。そして、高さも果てしなく見える。

 その果てしない空間を覆っている円筒形をした壁に、一つの横穴があった。壁に穿たれた横穴から下に向かって、階段が伸びている。

 その階段は、螺旋状に壁にそって造られていた。壁に刻まれた階段を降りてゆけば、長大な円筒形の空間の最下部へ辿り着くことができるようだ。

 横穴から、影が現れる。その影は黒衣を纏った男だった。漆黒のマントに身を包んだ男は、目深に鍔広の帽子を被っている。黒衣の男は、静かに呟いた。

「思ったとおりだな」

 その男の後ろから、白い巨人が現れる。白衣を纏った巨人族の女戦士だった。巨人の四肢には特に奇形的なところはなく、見事にバランスのとれた姿形の巨人である。

むしろ、その巨人は通常の人間以上に美しいといえた。

「何が思ったとおりなのだ、ロキ」

 ロキと呼ばれた黒衣の男が答える。

「これを見ろ、フレヤ」

 フレヤと呼ばれた純白の鎧を身につけた巨人戦士は、ロキの指差す先の壁を見る。

そこには、古代語でこう刻まれている。


『ここより、はじまる』


 フレヤは女神の美貌に苦笑を浮かべる。

「さっきおまえが書いたしるしだな」

「そうだ。我々はここから下りはじめ、半時は下りつづけたはずだ。しかし、またここへ戻ってしまっている」

 ロキは何の感情も感じられぬ声で淡々と語った。フレヤは少し嘲るような口調で言った。

「つまり、我々に対しては、冥界への扉は閉ざされているということだな」

「今はまだな」

 ロキはじっとその冷徹な瞳で深い地下の果てを見つめている。

「しかし、我々がそこに行く必要がある以上、その扉は必ず開かれる」

 闇は深く静まり返っていた。


 砂塵の彼方に太陽が沈んでゆく。地獄の業火のような真紅に、砂漠の空を染めながら。

 その紅い太陽の光で身体を染めながら、砂漠を進む人影が三つ。皆、フードつきのマントに身を覆っているため、表情は見えない。

 そして彼らに従う三頭の獣がいた。獣は荷を背負い、黙々と後ろを歩いている。

「それにしてもや、」

 一人が愚痴り出す。

「なんで、こんなくそ熱いところをだらだら旅せなあかんのや、ヌバーク、こらっ。

魔道でなんとかせんかい」

 ヌバークと呼ばれた人影が、フードをとり顔をだす。ヌバークは漆黒の肌に、黒い髪の少女だ。

 この時間は、夜の激しい寒さもなく、昼間の灼熱もなく、かろうじて人間が外気に耐えれるときだった。

「言っただろう、バクヤ。魔道でアルケミアへゆく道は全て封鎖されている。今のアルケミアは狂王ガルンの支配下にあるのだ。魔道を使わずにゆくしかない」

「そやけれどもや」

 バクヤと呼ばれたその人も、フードをとる。その顔はとても端正な女性のものだったが、髪を短く切りこんで鋭い瞳を持ったその姿はむしろ、精悍というべきだろうか。

「ロキとフレヤは、魔道の道を通っていったんとちゃうんかい」

「だからだ」

 ヌバークは、だんだん子供をなだめる母親の口調になってくる。しかしどう見ても、ヌバークのほうが、バクヤよりずっと若そうに見えた。

「ロキとフレヤのゆく道は、人では通れぬものだ。彼らは人では無い存在だから、その道をゆける。それも、説明したと思うが」

「うぬう」

 バクヤ自身、そんなことはよくわかっていた。

「せやけどや、もう三日やで。三日。こんなくそ熱いところを三日も旅して、いつになったらアルケミアが見えてくるんや」

「七日かかるといっただろう。まだ半分も来てないぞ。ねをあげるにしても早すぎる。

それとも今からおまえだけ退き返すか? バクヤ」

「あほいえ」

 バクヤはただ単に、不機嫌なだけだった。苛酷な旅にという訳ではない。苛酷というのであれば、もう少し酷い状況も経験してきたことはある。むしろ、この旅は楽といってもいい。

 例えば、水は魔道を通じて取り出すことができるため、その心配をしなくてもよかった。食料にしても、ヌバークが調達してきた三頭のカメロプスという獣が十分な量を運んでくれている。

 バクヤにしてみれば、むしろこの旅は単調なのだった。最初のうちは日中を支配する凄まじい灼熱や、夜を覆う極寒に心を奪われたが、三日目となると同じことの繰り返しになってくる。

 バクヤは後ろに従うカメロプスを見た。見た目は東方にいるラマという獣と似ているのだが、砂塵に対応した瞼や鼻を持っており、背中な脂肪の塊があって苛酷な環境であっても耐えてゆける獣だ。

 その獣たちを引いて歩いている人影に、バクヤは声をかけた。

「おい、エリウス」

「なあに」

 エリウスと呼ばれたその人影は、フードをとる。そこに現れたのは、美しい黒髪の青年だ。

「おまえもなあ、もうちょっと、しゃきっとせんかい、こら」

「しゃきっとって、」

「んだから、こう、似合いすぎるんや、その姿が。なんつうか、おまえ一応、王子やろうが」

「んなこと言われてもなあ」

 突然、前をゆくヌバークが歩みを止めた。バクヤたちも思わず足をとめる。

「見ろ」

 彼らは、小高い砂丘の頂に差し掛かっていた。見晴らしの好い場所だ。ヌバークは行く手を指差す。陽はすでに地平線のあたりまで沈んでいたが、空は残照でまだ明るい。

 砂漠は広大な灰色の海のように風で刻まれた波紋をさらし、眼前に広がっている。

 その無限にも見える砂の世界の、ずっと向こう。

 そこには砂塵が蠢いておりその中に、何か影のようなものが時折映る。

 その幻影の彼方に、巨大な城塞のような山が見えた。

 その姿は薄暮に立ち尽くす、世界を背負った巨人を思わせる。

 それは、人工物のように見事な円形状に聳えていたが、しかしスケールから考えると人工物であるとは考えられない。おそらくトラウスにある聖なる樹、ユグドラシルなみのスケールがありそうだ。つまり、広大な山脈に匹敵する規模である。

「あれがアルケミアか」

 バクヤの問いに、ヌバークは無言で頷く。

 それは、暮れ行く太陽の下で陽炎のように揺らめいて見えていたが、確かに実在のものとしての存在感がある。

 ある種見るものに畏怖を感じさせるような、そんな存在感であったが。

 三人は、再び砂漠の海を歩み出した。

 その果てしなく広大な砂の海へゆっくりと三人は飲み込まれる。

 風が渦巻き、灰色の巨大な並となって通りすぎていく。

 夜の闇が静かに近づいていた。


 それから四日間、バクヤたちは歩き続けた。そして、その奇妙な風景の場所へと辿り着く。

「なんや、ここは」

 バクヤは思わず呟いた。

 砂漠は唐突に終わる。その砂漠の終わりには小さな集落があり、ヌバークはそこでカメロプスや砂漠の装備を売り払うと、新しい装備を購入した。

 そして、砂漠の終わった地点。そこは、切り立った断崖だった。断崖は巨大な円を描いて窪地を囲っている。そして、その断崖に囲まれた土地、そこは緑の密林だった。

 遥か地面の下にはぎっしりと緑の木々が茂っている。その密度は、とても高い。上からみると濃緑のカーペットを敷き詰めたようだ。

 密林の向こう側に巨大な円筒形の山が聳えている。その山は完全に垂直に切り立っているように見えた。まるで、空に向かってそそりたつ巨大な砲身のようだ。

 それは濃緑の湖に聳え立つ、巨大な塔のようにも見える。自然に形成された地形とは思いがたいが、人工にしてはスケールが大きすぎた。幅にしろ高さにしろ、中原の山脈を遥かにこえる規模に見える。上方は雲や霞に隠れはっきりと見えない。

「知らなかったのか?」

 ヌバークが冷然と言い放つ。

「アルケミアは、グーヌ神が地上に降り立った時に作り上げた山の上に存在する。そんなことも知らずに、アルケミアに行くつもりだったのか」

 ぬう、とバクヤは唸る。気がつくと、バクヤはエリウスの頭を叩いていた。

「痛いなあ、もう」

 ぼやくエリウスを、バクヤは叱り付ける。

「おまえもなあ、なんでこういうことをおれに説明しとかんのや」

「だって」

 エリウスは中原で最も古い王国の王子に相応しい美貌に、無邪気な笑みを浮かべる。

「聞かなかったじゃん」

 うぬう、とバクヤはうめくと、エリウスの頭を叩く。

「痛いよう」

「うるさい、つべこべいわんと、行くぞ、こら」

「こらって」

 エリウスは先に立って歩き出したバクヤの後を追いかける。

 断崖には下へ降りてゆくための隘路があった。隘路を下るとそこは密林である。蒸し暑く薄暗いその世界は、毒蛇に毒虫、猛獣に奇妙な姿をした猿たち、そして極彩色の鳥たちが乱舞し、天上世界の色彩を持った花の咲き乱れる空間だった。

 生きるものに容赦がない灼熱の砂漠と違い、絡まりついてくるような熱気と豊穣な生命の気配に満ち溢れた空間である。バクヤたちは、その過剰な闇の中を、肌に粘りつく熱気の中を歩んでゆく。

 そこを抜けるのに、三日かかった。

 そしてついたのは、聳え立つ山。

 そこには、垂直に広がる森林があった。円筒形の山は目の前に聳え立ち、その垂直に広がる山稜には木がぎっしりと生えている。壮大にそそり立つ緑の壁のようだ。そのあまりのスケールに、眩暈すら感じさせられた。

 ところどころに、巨大な滝が垂直の河となって、地上へ水を落としている。その水の量は莫大で、巨大な透明の柱が聳え立っているように見えた。水飛沫が霧のようになって、その水の柱を覆っている。

 上方は雲に隠れてよく判らないが、雪に覆われているようだ。上のほうはあまりに高すぎて、ぼんやりとしか見ることができない。

 バクヤたちはその神が創り出した空間へと、足を踏み入れた。

 そのとてつもない山へ登りだし、四日が過ぎる。


「それにしてもや、」

 バクヤは一人愚痴る。その巨大な山を四日登り続けた。雲に近づくにつれ、極寒の世界になってくる。

 バクヤは、左手を刃が鋭く尖った斧のような形に変形させていた。その左手を岩盤に叩きこむ。メタルギミックスライムという、金属生命体から出来たバクヤの左手は雪氷に覆われた岩盤にくいこみ突き刺さった。バクヤは身体を押し上げる。

「いつまで、このくそ寒いところを登り続けなあかんのや」

「だからさあ」

 バクヤの隣でエリウスが涼しい顔をして答える。エリウスは、垂直に切り立った山を平地を歩くように平然と歩いていた。

 魔操糸術。

 エリウスはその技の使い手である。

 エルフの紡いだ糸を、魔道で作り上げた極小の穴を通して彼方に放つ。その糸は、ずっと上方の岩に結わいつけられており、エリウスの身体を支えていた。

 エルフの糸は、目に見えぬほど細いがエリウスの身体を支えるのには十分な強度がある。

「ヌバークが言ってたじゃん。七日かかるって。あと三日でしょ」

 うぬう、とバクヤは唸る。

 そんなことは判っていた。ただたんに、単調なこの作業に飽きてきただけである。

しかも、肉体的にかなり疲労していた。しかし、涼しい顔をしているエリウスにそれを悟られるのは、物凄く腹立たしい気がする。

 バクヤは、身体を右手と両足で支えると左手を引き抜く。ぶん、と細長くした左手を上方に放り上げた。それはまた岩盤に叩きこまれる。バクヤは左手を支点に身体を押し上げてゆく。

「ヌバークのやつは、また一人で先にいっとんのか」

「うん、次の野営地を設営してるよ」

 ヌバークは風の精霊を使って体を押し上げていくので、バクヤやエリウスと比べて早く移動できる。その代わり野営の荷物を引きうけ、いつも野営地の設営を一人で行う。

「ま、しかしおまえらはや、なんかこう」

「え、なに?」

 バクヤは無邪気に笑いながら問いかけるエリウスの顔を見て、なんとなく愚痴る気を無くした。

 神の造った山。

 そこに登るのであれば、自身の精神と肉体をぎりぎりまで酷使し、苛酷な極寒の地で魂をすり減らしながら登ってゆくのが礼儀のような気がする。つまり、登山は山との格闘だと思っていた。

 しかし、エリウスはまるで野原を散歩するようなペースでバクヤについてくる。これでは、一人体力をすり減らしながら登っている自分がただの馬鹿のように思えた。

(ま、ええか)

 自分は自分のやり方に満足している。

 エリウスたちをとやかく言ってもはじまらない。そうも思えた。


 そして、三日が過ぎた。

 真っ白い吹雪の世界を通りぬけ、バクヤは極限状態に達している。予想以上に体力を消耗しているのは寒さのためというよりも、空気の薄さのせいのようだ。ヌバークが魔道の力で空気の密度をあげてくれていなければ、バクヤは動くことすらできなくなっていただろう。

 それでも、ほとんど意識を失う寸前まできていた。

 白い雪とも氷片ともつかぬものが無数に乱舞するその空間。バクヤはその世界で自分の小ささを痛感していた。

 そこは、まさに神の力が猛威を振るっている世界とも思える。メタルギミックスライムの左手で辛うじて岩盤に張り付いてはいるが、吹き荒れる暴風は一瞬でも気をぬけばバクヤを彼方まで吹き飛ばすであろう。

 それは真白き巨大な怪物である。

 その力はとてつもなさすぎて、バクヤには全貌を感じ取ることすらできない。ただ、果てしなく巨大な力が、あたりを支配していた。

 ほとんど無意識の中でバクヤは登り続ける。

 何も考えず、ただ機械的に身体を動かし、しかし着実にバクヤは登って行った。

 やがて時間が消えてゆき。

 空間も消えてゆく。

 肉体も感じられなくなり。

 ただ純粋な意思だけが。

 上へ向かおうという意思だけが真っ白な世界に残った。

 それは白い闇の中を漂い続けるようなものだ。

 無限に続く白い闇の中を。

 ただ微小な点と化して漂い続ける。

 何も考えず。

 何も見ずに。

 ただひたすら。

 ただひたすらに。


 唐突に、頂上は現れる。

 嘘のように吹き荒れていた吹雪が消えた。

 バクヤはある意味、あっけにとられる。

 純白の暴風が支配する空間を抜けたところは、濃紺の空がひろがる世界だった。

 ふらふらになりながらも、バクヤは頂上に手をかける。先に着いていたエリウスが助けあげようとして手を出した。バクヤはその手を払いのけ、ふらつきながら立ちあがる。

 そこで見た景色に、バクヤはため息をついた。

「これは…」

 そこには、壮麗な景色が広がっていた。

 ある意味、ヌース神を奉る地であるトラウスと似た佇まいを持つ場所である。

 山上は広大な円形の窪地であった。常緑の森林に覆われたその土地は、どこか静謐な空気を纏っている。

 その中心には深みのある青色の水を湛えた湖があった。その湖の中心部に島がある。

その島は小高い丘となっており、その丘の頂に城塞があった。それがアルケミアの中心地のようだ。

 バクヤは疲れを忘れてその景色に見入っている。濃紺の空が頭上に広がる、美しく神秘的な世界。それがアルケミアであった。とても邪悪とされる神の造った地だとは思えない。

「想像していたものと違うか?バクヤ」

 ヌバークの言葉に、バクヤは頷く。

「まあ、中身をみてみんと判らんけどな」

 ヌバークは薄く笑う。

「その通りだな。まず、入りこまなければならないが」

 バクヤたちのいる地は、巨大な天然の城壁の頂である。その巨大な岩盤がアルケミアを円形に囲んでいた。アルケミアへ入りこむにはその切り立った断崖を、今度は下ってゆく必要がある。

「ここを降りるわけ?」

 エリウスの問いかけに、ヌバークは空の一点を指差して答える。

「どうやら、出迎えが来たようだ」

 空に金色の輝きが現れる。宵の明星のように輝く金色の光は、次第に大きくなり形をはっきりとりはじめた。それは、巨大な金色の鷲である。

 金色の鷲は、バクヤたちの上空をゆっくり一回旋回すると急降下してきた。そして、バクヤたちの目の前で一度大きく羽ばたく。その姿は、月の光のような黄金の光につつまれている。そして、その光は一瞬直視できないほど強力なものに高まった。

 光はすぐに消える。そして、光の後にバクヤたちの前に立っていたのは、灰色のフードつきのマントに身を包んだ男だった。

 その男は、ヌバークと同様に黒い肌に黒い髪、そして琥珀色の瞳をしている。その姿は魔導師のようだが、顔つきの精悍さや身体の逞しさはむしろ戦士を思わせた。

「よくぞ戻られた、ヌバーク殿。そして、助け手をつれてこられたらしい」

 ヌバークは頷く。

「出迎え御苦労、ウルラ殿」

 バクヤは、ウルラと呼ばれた男と、ヌバークを見比べ言った。

「ええとや、こちらはなんつうか、おまえの友達なんか?」

 ヌバークは頷く。

「ウルラ殿、紹介しておこう」

 ヌバークは、エリウスを指し示す。

「中原で最も古い国の王子、エリウス殿だ。ガルンを倒すのに力を貸してくださる」

「おおっ」

 ウルラの琥珀色の瞳が鋭い光を放ち、エリウスを射抜く。エリウスはぽよん、とした笑みでその眼差しに答えた。

「いやあ、王子といっても国は無くなっちゃったんだけどねえ」

「あなたが、あの、エリウス王子か」

「おいっ」

 バクヤが割って入る。

「おれもいるんやけど」

「エリウス殿の友人、バクヤ殿だ。同様に力を貸してくださる」

「うむ」

 ウルラはちらりとバクヤを見ると頷く。

「急ごう、我々にはあまり時間は無い」

 ウルラはそういうと、先に立って歩きだす。

 ウルラの行く先の地面に突然、地下へ下る穴が現れた。その穴の中にウルラは踏みこんで行く。バクヤたちも続いて、その穴の中にある地下へ続く階段へ踏みこんだ。


 バクヤたちはウルラに導かれて暗い階段を下ってゆく。ウルラは狭くて暗い階段を魔道の光で照らしながらバクヤたちの先を行った。

 ヌバークはウルラに問いかける。

「状況はどうなのだ、ウルラ殿」

「よくない」

 ウルラは、冷然と言った。

「ガルン様が黄金の林檎を持って戻られてから、状況は一変した。それまで二派に分裂していた貴族たちは、今はガルン様の元にまとまっている」

 ヌバークはため息をつく。

「それでは、ガルンが王に?」

「いや、ガルン様はまだヴァルラ様を王としておられる。多分待っておられるのだ」

「おい」

 後ろからバクヤが声をかける。

「貴族っていうのはあれか、つまり」

「おまえたちのいう魔族のことだよ」

 ウルラが答える。ヌバークは苛立たしげにウルラに問いかける。

「ガルンは一体何を待っているというのだ」

「決まっている。ヴェリンダ様をだ」

「では」

「そうだ。ヴェリンダ様を支配下におき婚礼の儀式を執り行った上で、王位を継承するつもりなのだ」

 ヌバークはため息をつく。

「では人間も」

「うむ。もうヴァルラ王の帰還が可能だと信じている者は殆どいない。我々のように地下へ潜伏しているごく僅かな者だけが、ヴァルラ王の救出に向かうつもりなのだ。

とりあえず、我らの仲間が地下でヌバーク殿、そなたの帰りを待ち望んでいる。早くそこへ行こう」

 そして、バクヤたちは地下の底へついた。かなりの距離を下ったはずである。そこには、巨大な鉄の扉があった。

 ウルラは小声で呪文を唱えながら、その鉄の扉を押す。扉は開かれた。

 そこは、薄明の世界だ。

 天井は高く、幅の広い通路が真っ直ぐ伸びている。

 薄く光が天井から差し込んでいた。朧げにものの形を判別することができるが、色はすべて灰色にしか見えない。

 壁は、何か得体のしれない蔦のような植物によって覆われており、材質がよく判らない。床にも洋歯植物のようなものが生い茂っていた。道の両側には水の流れる河のようなものがある。そして、所々天井から小さな滝のように水が流れ落ちていた。

 ウルラはその真っ直ぐな道を先に立って歩き出す。バクヤたちもそれに続いた。ヌバークはバクヤとエリウスに声をかける。

「ここは迷宮だ。気をつけろ」

「なにいうとるんや、道は真っ直ぐやないけ」

 突っ込むバクヤにヌバークは首を振って答える。

「真っ直ぐに見えているだけだ。空間そのものが歪曲している。うかつに道をはずれると、どこか得体のしれない世界へ飛ばされることになる」

「おっかないねえ」

 と暢気な声でエリウスは言った。

 薄明の空間は、ヌバークにいわれて改めて見なおしてみると何か不思議な力に満ちているような気がする。差し込んでいる薄い光にしても、流れる水にしても、生い茂る植物もどこかこの世のものとは思われない気がした。

 バクヤはとりあえずはぐれないように、ヌバークのすぐ後ろを歩くようにする。その迷宮も随分長い道のりだった。

 自分がどのくらい歩いていたのかよく判らない。風景は変わることが無かったため、ずっと同じ所を歩いているような気もするし、随分遠いところまで来たような気もする。

 道の終わりは唐突にきた。バクヤにはその扉が突然出現したように思える。

 それは巨大な鉄の扉だった。黒く塗られており、むしろ行く手を塞ぐ闇のように見える。

 ウルラは小声で呪文を唱えながら、その扉に手をかけた。扉は少しため息のような音を立てて、そっと開く。

 ウルラはその中に入っていった。バクヤたちも、その後に続く。

「おい」

 扉の中は、広々とした部屋である。殺風景といってもいい。剥き出しの石の壁と天井、床があるばかりだ。そして向こう側には鉄格子が嵌っている。

「ここは牢獄とちゃうんか」

 バクヤは思わず呟いた。あたりを見まわす。ウルラの姿が見えない。ヌバークが蒼ざめる。

「馬鹿な」

 ヌバークは数歩前にでる。鉄格子の向こうは闇だ。しかし、その奥には何か不気味な気配がある。

「この扉開かなくなっちゃった」

 エリウスが閉まった扉を押しながら、のんびりとした声で言った。バクヤは野獣のような唸り声をあげる。

 ヌバークが絶叫した。

「ウルラァァーーッ!」

『そう怒らないでくれ、ヌバーク殿』

 どこかから、ウルラの声が聞こえてくる。

「この裏切り者!」

『冷静になりたまえ。まさに状況は変わったのだよ。考えてもみたまえ。ガルン様は黄金の林檎を持っている。そしてかつて裏切ったラフレールも今はウロボロスの輪の彼方だ。後はエリウスさえ死ねば、我々に敵対するものはいなくなるのだよ』「おまえは」

 ヌバークは、血を吐くように叫ぶ。

「ヴァルラ様を裏切るというのか!」

『いいではないか、大した問題ではない。いいかね。中原に満ち溢れるあの無様な家畜どもを駆逐し、再び貴族たちと王が全てを支配する世の中になるのだよ。ヴァルラ様が消えるくらい大したことではないよ』

「ふざけるな!」

 ヌバークは叫ぶ。しかし、もうウルラの答えはなかった。代わりに、鉄格子の向こうに明かりが灯る。

 薄明かりの中で何か蠢く無数のものが浮かびあがった。獣のようである。四足で歩き回っていた。

 しかし、それらは人である。白い肌の人間たちであった。

「おい、なんやあれは」

 バクヤはヌバークに問いかける。ヌバークはうめいた。

「家畜だよ。白い肌の」

「いや、あれは人間やろう」

 その人間たちは、足を膝の下で切断されているため、二足で歩くことができず手をつき這い回っている。髪は伸び放題で、顔は髭だらけだ。身体は汚れているが白い肌であることは判る。

 その人間たちは獣のような声をあげるばかりで、言葉を持っている様子は無い。こちらの言っていることも理解していないようだ。

 服は身につけていないが、その両手には鉄の爪が装着されており、口には鉄の牙が埋めこまれている。白い肌のその者たちは鉄格子のところまできて、こちらを見て唸り声をあげていた。

 飢えた獣のように見える。狂った野獣にしか見えなかった。

「なぜ人間をあんなふうに」

 バクヤの呟きに、ヌバークは冷たく笑って答える。

「神はそもそも黒い肌の人間と貴族しか造らなかった。白い肌のものは、奇形として生まれてきたのだ。知能も低ければ、生命力も低かった。それでも人の形をしていたから殺すわけにもいかず、我らは飼い続けた。するとその数はどんどん増えていった。何しろ知能が低くて一日中交わい続けるしか能のない連中だったからな。しかたが無いので、一部をアルケミアの外へ放逐した。それがいつの間にか中原に流れつき増えていった。おまえたち白い肌の人間とはそういう存在なのだ」

「馬鹿言え、人間は人間やぞ」

 バクヤはうんざりしたように答える。

「今はそんな議論してるときじゃないと思うけど」

 エリウスが、ぼんやりと言って鉄格子を指差す。それは、動いていた。ゆっくりと下へ降りていく。白い肌の者たちは、上のほうに生じた隙間を越えようと飛びはね出す。

「くそっ」

 バクヤはメタルギミックスライムの左手を動かそうとする。ぴくりとも動かない。

バクヤの体力は底をついていた。とても戦える状態ではなかった。

 バクヤはヌバークを見る。ヌバークも蒼ざめた顔で立ち尽くしているだけだ。ヌバークにしても、ここまで来るのに魔力を使い切っているのだろう。精霊を呼び出して白い肌の者を蹴散らすだけの力は残っていないようだ。

「しょうがないなあ、もう」

 エリウスは、うんざりしたようにつぶやく。そして、背中に背負っていた剣を降ろすと手に持った。

 黒い鞘に収まった剣。その少しそりのある片刃の剣を、エリウスは抜いた。

 ノウトゥング。

 刀身を半ばで立ちきられた剣である。その本当の刃、金剛石で造られたノウトゥングの刃は刀身の中に収められていた。

 その刃は剣を振るうことによってノウトゥングの外へ飛び出し、ワイアーによってコントロールされる。エリウスは、数歩前へ出た。

 バクヤとヌバークは無意識のうちに、その後ろへ入る。

 鉄格子はついに、白い肌の獣たちが超えられるところまで降りてきた。

 白い肌の獣は、鉄格子を乗り越えると鉄の牙をがちがち鳴らし、獣の咆哮をあげながらこちらへ向かってくる。バクヤは動かぬ左手を下げたまま、それでも右手で構えをとった。

 唐突に。

 白い肌の獣の首が落ちる。

 首の無い死体が、床に落ちて跳ねた。

 次々と。

 胴を両断され。

 頭を割られ。

 両手を切り飛ばされ。

 身体を縦に切り裂かれ。

 白い肌の獣たちは、切り刻まれてゆく。丁度エリウスの前に目に見えない壁があり、その壁に触れたものが裁断されていくように見えた。

 瞬く間に。

 身体を切り刻まれた白い肌の獣たちの死体が積み上げられてゆく。

 それは障壁となって白い肌の獣たちの行く手を阻んでいるようだ。しかし、白い肌の獣たちはその死体の山を乗り越えて近づこうとする。

 そしてまた、切り刻まれた。

 バクヤはエリウスを見る。

 殆どその剣は動いているように見えなかったが、まちがいなく白い肌の獣たちを斬っているのはノウトゥングだ。

 バクヤはエリウスの瞳の奥に、黄金の光が灯っているのを見た。バクヤはそれに魔道の力を感じる。

 バクヤはうめいた。

 エリウスに畏怖を感じてしまったためだ。

 いや、それはエリウスでは無かった。エリウスは既に心の奥へ引きこもってしまっている。今目の前にいるのはもっと恐ろしく、邪悪な存在。

 そう、おそらくエリウスが指輪の王と呼んでいた者。

 中原の最も古き王国にふさわしい、冷酷にして邪悪な存在。その者が今エリウスの身体とその力を操っている。

 死体の山が築き上げられ、ついに白い肌の獣たちは全て死んだようだ。

「おい」

 バクヤは、エリウスの肩に手をおく。

 ぞくりと。

 バクヤの背筋が凍る。

 そのあまりの美しさに。

 その瞳に宿った黄金の光の邪悪さに。

 バクヤは恐怖を感じた。

「エリウス、お前…」

 唐突に、瞳に宿った黄金の光が消える。春の日差しを浴びながらまどろんでいるような、表情がもどってきた。

「なあに、バクヤ」

 バクヤは言葉につまる。どう声をかければいいのか判らなかった。

 今のエリウスを支えているのは、とてつもなく邪悪な力だ。しかし、それを捨て去るのはエリウスにとって死を意味している。それがどのようなものであろうと、エリウスは乗り越えていかねばならない。

 バクヤには何も言えなかった。

 ただ、エリウスの肩に手を置いたままじっと見つめるだけだ。

 エリウスは無邪気な笑みを返している。

「おまえ、なんともないのか?」

 バクヤはかろうじて、それだけ言った。

「うん」

 エリウスはにこにこと笑う。

「多分、僕にはねえ、もう感情というものが」

「おい、バクヤ、エリウス何している」

 ヌバークが声をかけてくる。扉が開いていた。

「迷宮に戻るのか?」

 バクヤの問いかけにヌバークは頷く。

「それしかない。ここにいても仕方が無い。とにかくヴァルラ王を救うために、デルファイへ行かなくてはならない。デルファイへの入り口はこの迷宮の中にある」

 バクヤはうんざりした顔で言った。

「扉を開けたのは、ウルラだろう。迷宮に戻ったらウルラの罠の中に入るだけやないけ」

「では」

 ヌバークは冷たい声で言った。

「おまえはこのまま、ここに残っていろ」

 バクヤは死体の山を見て肩を竦める。

「選ぶほど道が無いということやな」

 せめて肉体が回復するまで休息をとりたい。しかし、ここで休ませてもらえるとも思えない。

「まえに進んだほうがまし、てことだよね」

 エリウスがみょうに明るく言った。バクヤはため息をつく。

「ま、そういうこっちゃ」


 ただひたすら真っ直ぐ続く迷宮。

 その薄明の世界をバクヤたちはヌバークに導かれるまま、進んで行った。

 そこは太古の、古きものたちの支配する世界である。時の流れが存在しない世界。

 その幽冥の世界を進んでゆく。

『さすが、エリウスというべきかな』

 再び、ウルラの声が聞こえてくる。ヌバークは唇を噛んだ。

『やっぱりエリウスという名のものは、殺しておくべきだということを理解したよ。

魔道が通用せず、剣でも殺すことができない』

 バクヤは、左手を動かそうとする。メタルギミックスライムはバクヤの生命力を餌として活動する存在だ。バクヤの体力が底をついた今では、ただの鉄の塊と変わらない。

『しかし、魔道が通じないと一口にいっても魔道というものには、色々な種類がある。

ヌバーク殿、君も理解しているだろう』

 ウルラの声は、むしろ優しげといってもいい。

『ヌバーク殿、投降したまえ。ヴァルラ王に忠誠をつくして何になるというのだ。君とてガルン様とともに中原を蹂躙することを夢想したことがあるだろう』

 ヌバークは空を睨みながら言い放つ。

「私を従えたいのならば、まずおまえの心臓をさしだせ、ウルラ」

 ウルラは暫く沈黙する。そして、残念げなため息をついた。

『ではこれでお別れだ、ヌバーク殿。共に戦えないというのはとても残念だ』

 ヌバークは立ち止まる。そして、ぽつりと言った。

「すまなかった、エリウス、バクヤ」

「あほいえ、まだこれからや」

 バクヤが叫ぶが、ヌバークは首を振る。

「いかにエリウス殿が優れた剣士であったとしても」

 ヌバークの言葉と同時に、前方に影の塊が現れる。数は七つほど。子牛ほどの大きさがあるだろうか。四足で立つ獣の姿をしている。

「闇の生き物を斬ることはできない」

 エリウスは、ノウトゥングを抜く。

 闇の生き物。そう呼ばれた影たちは近づくにつれ、その形がはっきりしてくる。影たちは巨大な狼の姿をしていた。

 その頭部と見られるところに、二つの紅い光が灯る。どうやら、瞳らしい。

 その姿は狼のように見えるが、朧げであった。ただはっきりと見えるのは、黒い牙である。漆黒の短刀に見えるその牙だけは、リアルで冷たい存在感を放っていた。

 バクヤは唸る。

 確かに、斬れそうに無い。魔法的生き物は、存在の位相をずらしその身体を異なる次元界におくと聞く。魔導師によって召喚されたその闇の生き物たちは、この次元界に身を置いていない。これでは、斬りようが無かった。

 エリウスは、剣を振る。

 ひゅう、と風が走った。影は一瞬揺らいだように見えたが、何も感じていないようだ。

「へえ、こりゃ難しいなあ」

 エリウスはのほほんと呟く。

 突然、一頭の闇の獣が跳躍した。人の頭を呑み込めそうな口を開かれている。

「くそっ」

 バクヤは前に飛び出すと、動かない左手を右手で掴み、無理やり闇の獣へ叩きつけた。闇の獣は、その左手に食いつく。しかし、メタルギミックスライムの左手を噛みきることは、当然できない。

 左手に食いついた状態で、真紅の瞳がバクヤを見る。

 その光の中には飢えがあった。

 魂を食らおうとする生き物特有の、飢え。

「このやろ」

 バクヤは無理やり左手を動かそうとする。

 突然。

 ばさり、と闇の獣の首が落ちた。

 くらいついていたバクヤの左手を離す。闇の本体は消えてゆく。切り落とされた頭だけが、地に落ちた影のように残っている。

「なるほどねえ」

 エリウスが、のんびり呟く。

「攻撃してくる時には、転移している次元界が安定するみたいだねえ。それならなんとかなるけれど」

 獣たちは、頭がよさそうだ。一頭殺されたことによって、警戒しはじめている。ゆっくりと左右に展開していく。どうやらバクヤたちを取り囲むつもりらしい。

「六頭同時っていうのはちょっと多いなあ。困ったねえ」

 あまり困っていなさそうに、エリウスはぼやく。

 迷宮の通路は広い。その通路一杯に使って、獣たちは左右へ回りこんでゆく。

 しかし、獣たちの目的が果たされることはなかった。

 唐突に獣たちは動きを止めると、身を翻し自分たちが現れたところへと戻ってゆく。

 獣はバクヤたちに背を向け遠ざかって行った。

「助かったみたいだねえ」

 エリウスの言葉にヌバークが答える。

「そんなはずは無い、召喚された闇の生き物がなぜ」

 獣たちの行く先に白い影が現れた。

 次第にその姿ははっきりしてくる。

 それは、白き巨人。

 女神の美貌を持つ、殺戮の大天使を越える戦闘機械。

 獣たちは、一斉に跳躍した。

 真冬の日差しを思わせる閃光が、一瞬走る。

 容赦のない殺戮の輝き。

 それはほんの僅かな時間でしかない。しかし、影は切り裂かれていた。

 攻撃の為に位相を固定されるほんの一瞬。

 その瞬間に闇の獣たちは切り裂かれた。胴体を両断された獣たちは地に落ちる。断片となった獣の頭、胴体、刻まれた足があたりにばら撒かれた。そしてその断片は黒い影となって消えてゆく。

 全ての影が消失した後、純白の鎧に身を包んだ巨人がバクヤたちの前に立つ。その後ろには影のように黒衣のロキが続く。

 エリウスは無邪気に手を振る。

「あはは、助かったよ、フレヤ」

 フレヤは苦笑を浮かべる。

「おまえなら斬れたはずだ、エリウス」

「いやあ、でも面倒そうじゃん」

「面倒って」

 バクヤが目を剥く。それを無視してヌバークはロキの前に立つ。

「礼をいいます、ロキ殿」

 ロキは、無表情に答える。

「ガルンは冥界に下った。黄金の林檎をいだいたまま」

「冥界?」

 バクヤの問いに、ヌバークが答える。

「冥界とは、アルケミアの地下最も奥深い場所。そこにグーヌ神が眠っている」

「我々では冥界に下ることはできない」

 ロキの言葉にヌバークは頷いた。

「そこに下ることができるのは、本来王族だけです。ガルンは元はセルジュ王の近習でした。セルジュ王から冥界に下りる呪文を学んだのです。あそこにいけるのは、後はヴァルラ様だけでしょう」

 ロキはヌバークを見つめる。

「まずは、デルファイに幽閉されているヴァルラ殿を救出せねばなるまい」

「では、ロキ殿。ヴァルラ様を助けるために御助力いただけるのですか?」

「いや」

 ロキは首を振る。

「おれがデルファイに行くのは不可能だ。しかし、フレヤならいける」

「それでは」

 ロキは頷いた。

「デルファイへ行こう」


 迷宮の通路の果て。

 そこは、巨大な地下ドームがあった。

 球形の天蓋に覆われた、広大な薄明の世界。岩盤で造られているらしい球形の天井は、闇に覆われ夜の空のように見える。

 地上付近は、薄っすらとして光があり、かろうじてあたりを見ることができた。足元には真っ直ぐ道が伸びており、その先には円形の祭儀場のような場所がある。その道と祭儀場の周りには水で満たされていた。

 湖、というほどには深くなさそうだが、池というには広大すぎる。広大な湿地帯というべきだろうか。そこには、あまり地上ではみたことのないような、水棲植物が満ち溢れていた。

 人間の身体くらいあるであろう巨大な花びらを持った異形の花や、透明の覆いに囲われた銀色で複雑な形態を持つ植物。そうしたものが暗い水の上に、微かな光を放ちながらぼんやり浮かびあがっている。

 そこはこの世のものとはとうてい思われないような、幻想的な空間であった。バクヤはその静寂さに、死の世界を感じ取る。実際、その湿地帯には墓碑のような石柱が無数に並んでいた。おそらくここは、アルケミアの墓地なのだろうとかってに思う。

 ヌバークは先頭に立ってその湿地帯の中心にある祭儀場に向かった。生きて動くものの気配は存在しないが、バクヤはなぜか見つめられているような気配を感じる。おそらく無数の墓碑が無言の気配を発しているのだろう。ある意味、バクヤはここへ侵入してきた存在だ。何かその異質な存在に対して静寂の抗議を行っているような気がする。

「判っているとは思うが」

 前をいくヌバークが、唐突に言った。

「ここは、アルケミアの墓地だ。我々の始祖の霊が眠っている。彼らはここにバクヤ、おまえが来たことを快くは思わないだろう。だが、恐れることは無い。彼らには何かをするような力は無いから」

 バクヤは憤然と言った。

「恐れるやて、そんなことはない」

 けど、と思わずバクヤは言葉を続ける。

「しんきくさい場所やな、しかし。まあ、墓地ゆうのやったら、しゃあないやろうけど」

 ヌバークはくすりと笑って頷く。

「確かにそうだが、しかたあるまい」

 そして祭儀場につく。

 円形の祭儀場の中心には、祭壇が設えてある。おそらく、葬儀を行うときに使用するのだろう、とバクヤは思う。

 祭壇。

 黒曜石のように黒い石でできている円形の舞台のようなものだ。人間の腰くらいの高さであり、四、五人の人間が上に乗るのが精一杯の広さというところだろうか。

 ヌバークはひらりと軽い身のこなしで、祭壇にのる。そして、儀式をとり行う司祭のように、バクヤたちを見渡す。

 ヌバークは、厳かに口を開いた。

「知っているとは思うが、私たちがこれからゆくデルファイとは死霊の都とよばれる場所。つまり、死者たちが集い作り上げた世界」

 聞いてないで、と思ったがバクヤはとりあえず黙って聞いておくことにした。

「本来でデルファイへ行くには、死ななければならない。ただ、一つだけ生者としてデルファイへ行く方法がある。それが、この場所より入りこむやり方だ。ヴァルラ様はここよりデルファイへ向かわれた。つまり、生者として死霊の都へ入られた」

 とん、とヌバークは祭壇を蹴る。

「ここへ乗ってください。デルファイへの道を開きます」

 バクヤとエリウス、そしてフレヤが祭壇にのった。ヌバークは呪文の詠唱を始める。

 ぞくり、とする感触が足元に走った。バクヤは足元を見る。黒曜石と思っていた祭壇が揺らいでいた。それはゼリー状のものの上に乗った感触というべきだろうか。

 一人祭壇の外に残ったロキが手を振る。

「幸運を祈る」

 ロキがそういった瞬間、突然足元の感覚が消えた。

 落ちる、と一瞬バクヤは思う。それは水に呑みこまれてゆく感触に似ていた。ただし、満ち溢れてきたのが水では無く闇だ。

 闇に。

 呑まれる。

 バクヤの意識は墜ちていった。

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