第17話 ラストコンタクト
「えーっと『15時頃、強風のため羽田空港が一時閉鎖、その影響で機体のやり繰りがつかず、福岡発羽田行きの一部が欠航』!?」
「わたしたちの飛行機がピンチです」
「わかりました。空港に問い合わせてみましょう」
清水は土産物コーナーの隅で邪魔にならないように隠れ、福岡空港に問い合わせる。なかなか繋がらないようだが、ゆりこはその横で心配そうに清水を見ては、チラチラと辺りに気を遣った。やがて電話を終えた清水がゆりこの目線に屈んで結果を告げる。
「やはり、欠航のようです。別の便に振り替えやキャンセル待ちで対応しているようですが、今から空港に向かっても搭乗にはかなり時間がかかるでしょう」
「そうですかぁ、困りましたね〜」
ゆりこは何かを思いついた訳でもなく携帯電話をいじりだす。清水は天井を見上げながら、何故か落ち着き払っていた。
「ええ。そこで、ゆりこさん。提案なのですが」
「はい」
ゆりこは清水になにかアイデアがあるのを期待して、彼の顔を見上げる。
「新幹線だと、恐らく空いてます」
「はあ!。電車で…」
「ただ… ここから東京まで、5時間以上かかります。ですが、これから空港に向かうと同じ程度かかる可能性もありますし… 空港から電車への乗り換えで、ヘトヘトになって帰るより、ゆっくり座って帰れることを考えれば…」
「航空券は無駄になりませんか?」
「確か、悪天候による欠航の場合、払い戻しが可能です」
5時間以上というのを聞いてゆりこはちょっと気が引けたが、明日は休みの身。ここは清水が楽な方向を考えるべきだと思った。
「わたしはそれでOKです。わたしは明日、休みですから楽しい新幹線の旅になるだけなので」
「では一応、東京で終電に間に合うか調べましょう。それで問題なければ、新幹線で。お土産もちゃんと買えますよ」
清水の言葉に、ニコッと笑みを返すゆりこだが、気になることがある。
「あのう、先生。自分のチケットは、ちゃんと自分で買いますから…」
今度は清水のほうがニコッと笑って答えた。
「いえいえ、いけません。これは私の仕事です。まあ、心配なさらないでください」
「そうですか…。ありがとうございます」
「では、新幹線のキップ売り場に行ってみましょう」
「はい。それに、佳奈子にお礼しなきゃ」
「本当ですね!」
清水の後を着いていきながら、ゆりこは佳菜子にお礼メールを返信した。
「『佳菜子、ありがとうv(^^)v。おかげで助かったよ!!。たぶん新幹線で帰ります。』と」
二人は博多駅のチケット売り場に出向き、時間を確認した。東京駅到着は23時30分頃。終電に何とか間に合うので、チケットを購入した。清水によると平日のこの時間は空いているが、出来るだけ疲れを残したくないという。彼の希望でグリーン車にした。佳菜子からまたメールが入る。
「『オッケー。良かったね。帰りは夜中になるね。気をつけて帰りな。』か。へへ、佳奈子らしいな」
お土産は新幹線改札の中で買った。佳奈子には彼女が喜びそうなキャラクタのキーホルダーとクッキーを、江坂と野口と酒見にも佳奈子と同じクッキーを購入。清水は大きな箱詰めの定番お菓子を買っていた。それを持ってホームに昇ると電車の到着10分前となっており、それほど多い人数ではないものの、自由席の車両では既に乗客が列を作って待っている。清水の出来るだけ疲れたくないという意味はこういうことだと改めて気づいた。その列をよそに、二人はベンチで電車の到着を待つ。
「先生」
「はい?」
「彼女はいないんですか?」
「ええ。そうですね」
清水は笑顔で答える。
ゆりこの疑問はまったく自然。背が高く、剣道をしていたという体は逞しく、その上ハンサムで職業はやさしいお医者さん。モテない要素なんて何もない。
「どうして?」
今度はちょっと困った笑顔でゆりこに答えた。
「まあ、そのうちご縁でもあれば。ははは」
やがて遠くに電車の明かりが見え、先頭車両が目の前の通過し、やがて停車した。
「よっこらしょ。では、行きますか」
清水がゆりこを先に行かせてくれた。予約した座席に、ゆりこが窓側に座れるように。
「初めはトンネルが多いですし、もうすぐ暗くなるのであまり景色は見られないとおもいますが」
九州は初めてだというゆりこに配慮して、彼は通路側を選んだようだ。発射のチャイムの後ドアが閉じられ電車が走りだす。これで帰るのだという実感が湧いて来ると同時に、こんな短時間に起きた様々な光景を思い出し、達成感にも似た心地よい疲労を感じた。
「改めて、如何でした? 今回は」
清水も同じ気持ちになったのだろう。こんなことを聞いてくるなんて。
「ええ。貴重なお話しが聞けました。先生、本当にありがとうございます」
「いえ、お礼はまだです。あなたがこの先、平穏に暮らせるように、これからも応援しますよ」
「えへへ。ありがとうございます。ですけど、十分平穏です。ちょっと変わっているだけで、私は不幸なわけじゃありませんから」
「失礼。そうですね。それを聞いて、安心しました」
そして新幹線は徐々に速度を上げ、夜に差しかかった夕暮れの街を滑っていく。
「サユリ、やっぱり会いたいんだ。僕に返事してくれるかい?」
ケンジが呼びかけて来た。ゆりこは外の景色を見ながら彼の声を聞く。もうすぐ小倉駅に到着する。こんなところで呼びかけられたのに不思議と冷静に受け止められたのは、彼の存在が彼女の中で変化しているからだろうか。
だが、ゆりこは迷った。恐らく、これがケンジと交わす最後の接触になるだろう。別れを決意している。ただ、彼は最後にゆりこの身体を求めて来る。それはゆりこも許せない訳ではないが、この場所で彼に身を任せれば、恥ずかしい姿を清水や乗客に見られてしまう。でも、東京に到着する数時間後では遅い気がする。それと…。
これまで清水に接触状態になった自分の姿を見せていない。ケンジとはこれが最後なら、この先も清水に見せることなく終わる。こんなに手を尽くしてくれる彼に、何の研究成果も上げさせないのは申し訳ないのでは?
ケンジがまた呼びかける。小倉駅発射のチャイムは鳴り止むところだ。
「サユリ、君に会いたいんだ。これが最後でもいい。お願いだ、もう一度だけ」
ゆりこは意を決した。ケンジと清水と自身のため。
「あの、先生。すみません、今、彼がわたしに呼びかけています」
清水は少し驚いたようにも見えたが、すぐに微笑みを繕って見せた。
「あ、そうですか。ここで?」
「はい。それで、その間、わたし、意識がなくなります」
清水は、なにか思い詰めたような顔で話しかけるゆりこに対し、優しく接することを心掛けた。
「そうですか。意識がなくなるのは理解しています。まだ目の当たりしたことはありませんが」
「彼とはこれで本当にお別れにしようと思います」
彼女の悲壮感はそこから来ているのかと、清水は受け取った。
「そうですか…。分かりました。その彼がヤケになって粗暴な行動に出ないか、それが心配ですが」
「大丈夫です。それより、その…。先生。わたしのわがままを聞いて頂きたいんです」
「いいですよ。協力します。何でもおっしゃってください」
「はい…。多分、最後に彼は求めてきます。わたしには何となく分かります…。わたし、彼を拒めそうにありません。というより、わたしから別れたいと言い出したので、言う事を聞いてあげたいと…」
清水は彼女の意図が読み取れず、小首を傾げた。
「わたしの身体が動くはずです…。無意識に…。その…、彼によって…彼に…触られたりして。それで、他の人に見られても恥ずかしくないように、私を抱いていて頂けませんか。恋人のように」
そう言うと、ゆりこはスカートの裾を握り、肩をすくめて恥ずかしそうに訴える。
「こんなお願い、間違ってますね。すみません。それにわたし、先生の前で接触状態になったことがありません。なにか先生にお礼がしたいんです。わたしの身体を調べて頂いて結構です。わたしに何をしても構いませんから。いけませんか…」
それは以前、清水から"交感能力"を告げられたときに『こんな風に調べられることになると困るな』などと考えたこと。でも、今や清水に対する信頼は揺るぎない。
「う〜む…」
清水は即答できずにいた。彼女の希望に応えるべきか。だが、医者とはいえ治療でもなく研究のため彼女に触れるとは、恋人のように抱き合うとは、どうだろうか。自分の心情が許しがたい。
「先生」
「ええ…う〜ん…。分かりました。あなたの申し出に感謝します。設備はないが、確かバッグに入れっぱなしの聴診器があります。あとは触診で脈を診る程度でしょう…」
思い詰めた眼のまま、ゆりこは口元だけを緩めた。
「安心して会いに行ってください」
「はい。よろしくお願いします」
清水は『これは医療行為だ』と自分に言い聞かせ、網棚からバッグを下ろすと足下で開き、革のポーチを出した。
「すみません。あと少しだけ」
ポーチから体温計を取り出すとポケットに入れ、次に聴診器を取り出し、手元でくるくると巻き付ける。
「よろしい。さて、どうしましょうか」
「はい」
ゆりこは窓のブラインドを下ろした。清水はその姿がまるで本物のカップルが及ぶ行為を準備しているかのようで、不覚にも高鳴る鼓動を感じた。そしてゆりこは肘掛けを取り払うと背中から寄り添い、清水の胸に身を任せた。
「あのう… 先生…」
「はい?」
「恋人に見えません…」
「ああ、ええ、そうですね。では、失礼します」
清水は両腕でゆりこを包み、頬を寄せると、聴診器をゆりこのお腹のあたりに忍ばせる。
聴診器がすぐに使えるよう、ゆりこは胸元のボタンを外し、花柄のブラを清水の視線に晒した。ふと下ろした手が清水の手と重なり、ひと呼吸置いたところでゆりこは思い立ったように彼の手を取り、自らの胸の膨らみに押し当てた。意識のない間、清水が遠慮しないよう、言葉に偽りのない証として。
トンネルを抜けると薄暗らかったブラインドの向こうが少し明るくなり、通過駅の明かりが過ぎ去った。荷物を引いた乗客とカートの乗務員が横を通り、緊張したゆりこが清水の手を胸元で握り、彼女の身体を庇うように清水はより一層ゆりこを包み込んだ。幸い、前後の座席に座る乗客はいない。ホッとしたゆりこと清水に、小さな笑いが起きた。
「サユリ。僕が嫌いになったのかい…? それでもいい。もう一度会いたい」
再びケンジが呼びかける。ゆりこは頬を寄せる清水に少し振り返り、会いに行く事を告げた。
「先生。よろしくお願いします」
ささやくような声を残し、ゆりこは目を閉じる。
「分かりました」
清水が応えると、ゆりこの身体は静かに脱力した。
「サユリ。ありがとう。応えてくれたんだね。僕は君が応えてくれることに慣れてしまって、君がいる素晴らしさを忘れていたんだ。ごめん」
「ケンジ。わたしも、あなたに会えてよかった。あなたがいなければ、同じ毎日を送るだけだったから…。ねえ、ケンジ。あなたにもっといい娘を見つけてちょうだい。あなたがいる街で現実の娘を」
「サユリ、君は僕がいなくても平気なの?」
「違うわ。ただ、あなたと私、私たちに未来を感じないの。ごめんなさい。お互いの幸せのために」
「僕とじゃ幸せになれない…。僕とじゃ」
ケンジのすすり泣く声が、ゆりこの耳に響いた。
「…あなたにもっと、相応しい人がいるわ」
「僕はまだ好きだ」
「私も…。だけど…」
ゆりこの気持ちが変わらないのをケンジは読み取った。涙が止まるのを待って、ケンジは男らしい声に戻る。
「分かったよ、サユリ。僕は諦める…。君のためなら、僕は諦めるしかないよな…」
ううっとうめき、また少し、涙声が聞こえる。
「ケンジ…。楽しかったわ。本当に」
「サユリ…」
ケンジはゆりこの身体を抱きしめ、これまでしたことのないような熱いキスを交わした。彼はいつも、唇を重ねるだけのキザなキスしかくれなかった。最後に求められる予感はここにあるのかも知れない。
「最後にもう一度だけ、君を抱かせてくれないか」
「…」
「僕は君に… 君は僕のもの…。もう一度だけ、僕に君をくれないか…それで諦めるから」
「辛くなるだけよ、ケンジ…」
ゆりこが意識をなくしてすぐ、清水はバッグから取り出したビデオカメラをトレーにのせ、ゆりこの表情を撮影していた。後の資料になると考えたからだ。自分の顔が映り込まないよう向きを調整した。
それからしばらく。清水はその時間を長く感じていた。力のないゆりこの手をとり、彼女の腹部で重ね合わせている。
ゆりこの温もりに触れるうち、彼女の白い胸の膨らみが清水の目を誘惑し、そこに手を伸ばす衝動に駆り立てられてしまう。彼女は何をしてもいいと言ったのだし、彼女の方から誘ったのだ。だが、それは彼の理性が許さない。それでなくとも彼女の吐息と香りに心を乱されてしまいそうなのだが。
「やれやれ、参ったな」
誘惑をかき消すように「ふう」と息を吐く。戻って来たカートの乗務員がまた横を通り、こちらを覗き込んだように感じた。
「知り合いに会うと大変だ」
独り言をしながらカメラの液晶を確認する。ゆりこに変化はみられない…と、ビクっとした動きをゆりこの指から感じ、ドキッとした。何かあったのか。清水はゆりこの顔を覗き込む。そこでまた、少し大きくビクっとした。
「彼に抱かれるところなのか…」
そしてゆりこは、周期的にビクッビクッという反応を見せ始める。表情に変化はないが、少し上がった呼吸が清水の頬に注がれた。
「やはり、抱かれているんだね」
清水は聴診器を当てようとしたが、ゆりこの頭で耳が塞がっているため諦めた。替わりに触診で首筋の脈や胸元の呼吸を診たりしたが、これといって睡眠時と大差ないように思えた。
「ふぅ…。これが接触中の状態…」
聴診器を探ったとき、少し乱れたゆりこの髪を直してやると、ゆりこはまたビクッとした。触診で開いた胸元は彼女の首筋から稜線を露にし、呼吸のたびに広がるブラの隙間が彼の指の侵入を誘う。
清水はたまらず、自らの理性を放棄する衝動に堕ちてしまう。彼女の髪に顔を埋め、目をとじて視界から彼女の姿を消した。それは彼の呵責を消し去る行為に他ならない。
目を閉じたまま、そっと彼女の胸をその手で弄る。そして思い切り息を吸い込むと、その香りが脳内いっぱいに広がり、自分の身体が誘惑を強め、正直になってしまえとけしかける。
ゆりこのブラウスを握り、肩を剥く。細い腕まで剥きあげると、緩く掛かった肩ひもを絡め取った。そして髪を掻き揚げ、肩からうなじを大きく露出させ、喰い込むように唇を沈めた。
「ああ、いかん。何をやってるんだ…」
我に帰った清水はゆりこに犯した欲情の跡を眺めた。肩口から耳元に至る柔らかな白い肌、鎖骨の先にある胸の膨らみはかろうじてその先端だけ服に隠れている。妄想を振り払い、何も知らずに眠るゆりこの髪を直し、紐を掛け直し、ブラウスを整え、自らの行為で淫れた彼女の姿を元に戻した。はあ、と息をつくと少し笑みが零れ「私としたことが…」もう一度ため息をついた。
時折ビクビクと震えるゆりこの身体を、今度は欲情ではなく娘のような愛おしさで包み込む。
「そいつが今、あなたに何を…。あなたは何をされているのか…」
ケンジはゆりこの胸に力の限り頬を押し当て、彼女の胸を潰し、吸い付いていた。獣のように貪るケンジの頭部をゆりこは両腕に抱きかかえ、胸の敏感な先から波を打って押し寄せる官能に耐えている。クールに過ごして来たケンジがその皮を破り捨て、本性をさらけ出すように彼女を抱いている。ゾクゾクと止まらない震えがゆりこの全身に達し身悶えた。
「サユリ。好きだ」
「だめ…ケンジ…」
呼吸が止まるほど唇を重ね合い、制御を失ったゆりこの身体は彼によって追い打ちをかけられた。達しながら悶え淫れるゆりこに満足したのか、ケンジは最後の行為に差し掛かる。太腿を抱え、ひと息に押し入るとしばらく身動きせずに、ゆりこの体内に浸った。
「これが最後だね…」
「これが最後なのね…」
二人の思いが一致する。ケンジは荒々しく動き始めた。ゆりこは感覚世界で甘い声を上げる。それは清水が抱きしめるゆりこの肉体にもわずかな変化となった。少し顔を曇らせ、反応は背中に現れ、仰け反る。その反応は前戯が終わり、その次へ進んだこと。それは清水の目にも明らかだった。意識のないまま弓なりに清水に寄りかかり、ふっとゆりこの身体は吐息を漏らす。
「ゆりこさん、申し訳ない」
清水は花柄のブラの間に指を潜らせ、先端の様子を目視した。興奮した様子はない、普通の状態。そして首筋の脈を見ると、やはりそれほど上がった状態ではない。ゆりこの身体は夢を見ている子供のように、頭を向こうにしたかと思うと今度はこちらにすり寄せ、また少し仰け反る。
こちらに顔を向けると、唇が触れ合わんばかりに清水に接近した。
「これは我々男性にとって至極残酷なことだと思う…」
表情がまた曇り、ゆりこがあの世界で昇りつめようとしているのは清水にもよく分かった。清水は再びブラウスの襟元を合わせ、身体の動きで開いたゆりこの胸を覆い隠す。にも関わらず、この寝相の悪い可愛い子供のようなゆりこが別の世界で他の男の自由にされている。清水は深いため息をついた。
「…」
そしてケンジとゆりこはいよいよ最後の時を迎えようとしていた。息を詰めるように一気に動きを加速するケンジに、ゆりこもその時を知る。彼にとって最後の自分となるのだから、彼に全てを任せた。そしてケンジはそのまま止まることなく動き続ける。と同時に、彼はゆりこの敏感な部分をも指で撹乱し、彼女の到達も求めた。彼に激しく追い立てられ爪先まで淫れるゆりこが頂点に達したのと同時にそれは終焉を迎える。その時ゆりこは、薄れた意識で"ピッ"という電子音を聞いた。
「サユリ…。サユリ」
「ケンジ…」
乱れた呼吸と様々な声にならない言葉の綴りが二人の情愛を駆け巡る。
「どうだった?…。わたし…」
「ああ…。君は最高だったよ。ずっと忘れない…。もう、君の元に二度と来ないけど、君を愛してる。さようなら」
最後のケンジは元の彼らしく、クールに接続を切った。ゆりこは疲れ果て、切断した後も眼を覚ます事ができなかった。
最後の瞬間は身体の反応として清水にも伝えられた。ゆりこの身体は少しの硬直を見せ、息をひとつ吐いて収まった。
「終わった…」
そしてまた、ゆりこは静かな寝息を取り戻した。清水はすっかり忘れていたビデオカメラに目を留めたが見る気にはなれず、恥ずかしがるような姿をゆりこに見せるのも何なので、そのままバッグに片付けた。
「さて、と」
あとはゆりこが目を覚ますのを待つだけだ。彼女を起こさぬよう役に立たなかった聴診器と体温計をバッグに収めるとゴソゴソと中を漁り、取り出した本を片手で読み始めた。もう片方の手はずっと、彼女の肩を抱いたまま。
「あ…。先生」
ゆりこが静かに目を覚ましたのは、それから5分ほど経った頃。清水の胸元から上目遣いで彼を見つめると申し訳なさそうに身体を外した。
「気がつきましたね。気分は、どうですか?」
「ありがとうございます。お体、きつくないですか?」
ゆりこは清水の顔を伺いながら、ブラウスのボタンを留めた。丁度、広島駅到着のチャイムが鳴り、タイミングの良さに清水とゆりこは顔を見合わせ、声に出して笑った。
「本当にすみませんでした…。ちょっと…。恥ずかしいです」
「聴診器は無理でした。耳元に当てられなくて。体温計も当てられず。ただ、触診で脈と呼吸は確認しました。それから…、あなたの身体に触りました…申し訳ありません」
「いいんです。何をしても先生なら。気にしないでください」
「はあ…。そう言われると…」
清水は益々罪悪感に包まれた。
「それで私…動いてました?」
「ええ。そう、寝相の悪い子供みたいでしたね。はは」
「やだなぁ、へへ。恥ずかしいです」
ゆりこは髪を直すとシートに座り直し、肘掛けを元に戻した。駅で乗客が乗ってきたが、やはり二人の前後に客はいなかった。
「わたし…、お役に立ちそうですか?」
うつむき加減で訪ねるゆりこに、清水は静かに笑顔を繕って見みせた。
「はい。確かに身体が動きました。でも、寝ている状態そのもので。多少心拍が上がっていたとしても、それほどではないでしょう。落ち着いた状態…。と言えるのではないでしょうか。恥ずかしがるようなことは、何も起こりません」
「そうですか…」
清水が穏やかに聞くよう努めていたので、それに誘われるように話した。
「先生。先生には全部お話します。彼とはやっぱり、別れました。もう私の元に訪ねてこない、彼はそう言いました」
「そうですか」
「最後にやっぱり…。彼に許してしまいました…」
うなずく清水にゆりこは次の言葉が思い当たらず、微笑み返して外を見つめた。清水はまた本を読み始める。ケンジが訪ねてこなければゆりこの能力は再現されない。それを詮索するようなことを清水は敢えて避けているようだった。
それから、ゆりこはずっと外を眺め続ける。今はまだ山の多い辺りを走っているのだろう。窓の外は真っ暗で、遠くにぽつぽつと工場らしき明かりが見えた。ずっと同じような景色が続き、ぼうっと眺めているうち、ケンジの声が浮かんで来た。
それは最初の出会い、彼の呼びかけ
『僕はケンジ。応答してくれる?』
そして、涙がこみ上げた。ショルダーからハンカチを取り出し、こらえようとしたが溢れ出て止まらなくなり、やがて嗚咽に変わった。
風景がそのうち街明かりに変わり、岡山駅に近づいたとき清水がブラインドを下げようとしたが、ゆりこは再び肘掛けを取払い、彼の胸で泣いた。清水は困った顔をしながらもゆりこを人目から守り、包み込んだ。ひとしきり泣き終わると、清水が肩を叩いてくれた。
「先生…。本当にありがとうございます」
涙でボロボロのまま、うなずく清水に精一杯の笑顔を返した。
「本当に感謝してます」
「その言葉で私は報われます」
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