第12話 訪れた難局
それから3ヶ月近く過ぎた。ゆりこの加わる企画は難局に合っている。社内で初の業界と企画だったので経験者もなく、クライアントのサポート不足も重なってズルズルと計画が伸びている。水曜の定時退社も足枷になった。いくつもの修羅場を潜り抜けた高槻らにとっても、これは流石にまずいとの認識で一致している。そして今日は水曜だ。
「おい、ゆりこ。大丈夫か? 今日は早めに帰ってきちんと休め」
彼女は昨日まで、終電近くまで頑張っていた。彼女意外のメンバーも最近は徹夜になったりしている。
「はい、えへへ。ありがとうございます。そうさせて頂きます」
実は、水曜も実際は残業している者はいる。それらは申告せずにいわゆるサービス残業になっている。
「ゆりこ、今日は早く帰るんでしょ?」
佳菜子が気にして帰宅を誘いに来た。
「うん。ごめんね、ちょっと待ってて。この書類があと5分」
「はいはい」
ゆりこはせっせとパソコンを入力し、保存し終えると辺りを見回した。高槻は席を外しているが、他のメンバーは応援も含めてまだ黙々と作業している。ちょっと申し訳なさそうにパソコンを切った。
「すみません。お先に失礼します」
すぐ年上の加納がゆりこを見上げた。
「お、ゆりこさんお疲れ。頑張ったね」
「ゆりこさん、お疲れさま。ゆっくり休んでくださいね」
次々と声を掛けてきたので笑顔を返し、佳菜子の待つエレベーターまで小走りした。
「お待たせ」
「はいよ〜。お疲れさま!」
表に出ると、久しぶりに早く帰宅についたので明るすぎるように感じ、ちょっと奇妙だった。この時間の駅の様子も、忘れていたように感じる。
「あんたのとこ、ヤバそうじゃない?」
「うん、ほんと。お客さんから、なかなか資料が出てこなくて困っちゃう」
「出し惜しみ?」
「多分。手の内を見せたがらないの」
佳菜子が最寄り駅で降りた後、ゆりこはプロジェクトに関係する書物を買うため、途中駅で下車して大きめの書店に寄った。クライアントから新しい用語やら何やらが出てくるとその度に会社の書籍を捜すので、勉強を兼ねて自分のものを準備しておきたかった。
「えーっと…」
書棚を順に見ているところで、ケンジが呼びかける。
「うわ…。ごめんね、あとで」
今週に入って、ケンジの呼びかけに応えていない。正確には応えようにも応えられずにいる。先週は土曜日で休日出社しているとき、それから月曜の夜、残業中に呼ばれてどうしようもなく、昨日の真夜中は疲れて眠りこけ、そして今は大勢の客がいる書店の中だ。
「すぐに帰るからね〜、待っててね〜」
独り言をしながら似たような本を何冊か探し当て、あれこれ思いつく言葉から役に立ちそうなものを選んだ。本屋を出る頃には外はすっかり暗くなっている。アパートに到着するとすぐにシャワーで汗を流し、今日はビールも飲まずにキッチンで勉強を始めた。少なからず、今のプロジェクトに関連する知識に興味が湧いているのは確かだが、それ以上にいつまでもクライアントに対して知らないでは通用しないという思いがある。そこへ再びケンジが呼びかけた。今では目を閉じてすぐに応答できるほど交感にも慣れている。本を少し寄せて、テーブルに眠り込むように応答する。
「サユリ、どうしたの?」
「さっきはごめんね。本屋にいたの」
「そう」
ケンジは少し、ご機嫌ななめのようだ。
「昨日も、この間だって。どうして返事してくれなかったの」
「ごめん。昨日は仕事で疲れて起きられなかったの。あなただって楽しくないでしょうから…」
言い終わって、ゆりこはちょっと心配になった。本当に機嫌を損ねたのかと気が気でない。
「そう…。今日は大丈夫なのかい?」
「仕事がなかなかうまくいってなくて。今も勉強してるとこ」
「そう、僕じゃどうしようもないな。そんなに難しいのかい?」
「うん…自信なくしそうよ」
「そう…。そんなに忙しいなんて」
彼がいつもの感じに戻ってきたので、安心した。だけど、今日はさすがに遊ぶ気にはなれない。
「ねえ?」
「ん? なに?」
「次は私が会いに行ってもいいかしら」
「僕に?」
ケンジはちょっとギョッとしたように返事を返した。彼はときどきふざけて大げさに振舞うことがあるので、ゆりこは気ならずにいる。
「いつもあなたが会いに来るのを待ってるんだもの、会い方を教えて欲しいの。そうすれば、あなたに迷惑かけないし」
「そうだね…。今夜は忙しそうだし、また来るよ。その時教えてあげるから」
「そう…。わかったわ。お願いね」
これで何回目か。この頼みごとは叶えられたことがない。いい加減、ゆりこの訪問を避けているのは既に承知だが、待っているだけでは困ることもある。
「じゃあまた、勉強がんばってね」
「ありがとう」
「じゃあね」
ケンジだけが気分を取り直したようで、なんともモヤモヤの残る夜になった。
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