第6話 キッチンで

 その日、ゆりこはケンジと約束していたので、残る仕事の目処を翌日に持ち越し、早めに帰宅した。佳奈子は取引先との新しい企画資料を作らなければならないというので、ねぎらいの言葉とともに彼女を後にした。アパートに到着すると、もう7時を回っていたのですぐシャワーに入る。いつものように化粧を落としながら湯船に少しだけお湯を張り、髪を洗い身体を流すと、そこに腰を下ろした。ふうっと息をつき、ケンジの事を考えた。何故か心待ちにしている自分がいる。ゆりこは風呂から上がると、パジャマ姿と頭にバスタオルを巻いたまま、キッチンのテーブルでケンジを待った。

「今晩は、サユリ」

もう、難なく応答できるし、自身もついてきた。テーブルに腕を組み、横目で時計のハトを見つめてケンジに応える。

「いらっしゃい。時間通りね」

「そう! もっと早く会いたかったよ!」

 彼の嬉しげな声がその言葉を裏付けている。

「さっきお風呂から上がったとこよ。もっと早いと、お風呂からこんにちは、て事になっちゃうわ」

「ははは。そんなとこで眠っちゃまずいね。今は?」

「キッチンのテーブルで。昨日あなたと会ったのもここよ」

「キッチンで? 料理が好きなのかい?」

「そうじゃないけど。ここに置いてある時計がないと、あなたに会えないから…」

「時計で?」

「そうなの。針に着いてるハトの絵がないと、あなたに会うときの集中ができないのよ」

「それ、面白いね。僕は初めの頃、空に浮かぶ雲だったよ。夜も昼も」

「初めの頃って、今は?」

「今は何も要らない。空に雲がないと困っちゃうからさ、ははは」

「へへへ、そうね」

「それで、空だけで出来るようになって、だんだん何も要らなくなった」

「ふ〜ん。わたしも今度、試してみようかな」

 そうは言ってみたが、そんな機会があるのだろうか? 第一、この男と既に友人のように話しているが、彼のことを何も知らない。

「君とはずっと前から知り合っている気がする」

 それはゆりこにしても、不思議に思っていること。

「あなたの声はずっと前から聞こえていたから。声だと解ったのは最近だけど…」

「君が他の人と違うのはすぐに分かったよ。とても素直な反応だった。どうしても話したくて何度もノックしたんだ。時間を変えて」

「わたし、そんな体験初めてだったから。少しずつ声だと分かって」

「君が言ってたね、僕は寂しかったのかも知れない。でも、君に会えて何か変われそうな気がするんだ。ありがとうサユリ」

「そんな…」

「君の好きな食べ物、まだ聞いてないね」

「そうね。うふふ。あなたは?」

「僕かい? はは。僕はチーズが好きなんだ。ビールとね、合うのさ」

「あら、わたしもよ。ビールと」

「意外だね、甘いものだと思ってたよ。酒も?、意外だなぁ」

「あなただって。お酒も飲むのね」

「カクテルだって得意さ。自分で試して飲んじゃうから、新作が出来上がる頃にはフラフラだけどね。ははは」

「ああ、あなた結構飲むのね。えへへ。わたしもお酒は好きよ」

「よかった」

「あなたの友達は?」

「うん…。君だけさ」

 急に黙ってしまったケンジに、申し訳なく思った。前に会ったときのことを、うっかり忘れていた。

「ごめんなさい…」

「はは。違うよ。僕が友達を作る努力をしていないだけ」

「どうして?」

「どうしても。いつか話せるからね。それより、君の友達は?」

「そうね。あなたと出会った事を一人だけ知ってるわ。美人で頭が良くて、いい友達よ」

「君の友達なら、きっとモテるだろうね」

「えへへっ。どうして?」

「そう思うんだよ。そうだろうなってさ」

「彼女、男の子みたいで女の子にもモテちゃうの。あなたの言う通りだわ」

「君には信頼できる友達がいるんだね」

「そうね」

 それまで、軽快に話していたケンジが、急に小声になる。

「あのさ、残念だけど僕、そろそろ行かなきゃ。はは、野暮用でさ」

「え? そう…」

「ごめんね。また来るから」

「うん。待ってるわ」

「じゃあ、また」

 今度は約束をしなかった。笑顔で緩んだまま目を覚ましたゆりこは、野暮用ってなんだろう?などと考えながら頭のタオルを直し、またむにゃむにゃと腕を枕にキッチンのテーブルに頭を落とした。

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