第3話 やさしいお医者さん

 その晩、待ち合わせの場所で佳菜子とゆりこは落ち合い、お医者さんが予約したという店に直行した。ちょっと洒落た外観の店は高級な感じではないのを見て二人はホッとした。何しろ予約したのはお医者さんだから、高い店でお金がかかるのを心配した。

「いいんじゃない?」

「うん。いいね」

 店に入り、カウンターのおしゃれな男性スタッフに"清水"の予約を告げると、奥の個室に通された。個室と言っても、格子状のガラス仕切りに囲まれたあっさりしたものだが、他の客席と比べれば落ち着いて話せる場所。清水はすでに到着しており、二人をにこやかに迎えた。

「どうも。今晩は」

「先生、よろしくお願いします」

 佳菜子は他の生徒と同様、英会話スクールでも彼を先生と呼んでおり、実際、英語が胆嚢な彼は初入校して来た生徒から講師と間違われたりしていた。

「島田ゆりこです。よろしくお願いします」

「清水守です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 清水に促され、二人は並んで着席した。彼は常にゆったりしており、頼れる存在に見えた。背が高く、スポーツをしていたのが一目で分かるような体つきをしている。

「ここはソフトドリンクもオリジナルが美味しいんですよ」

 テーブルに立てられたドリンクの写真には、果物で派手に飾り付けられたソーダやミルクティーもあった。単に三角に折ったようなメニューではなく、写真ごとにおしゃれに切り取られている。二人はゆっくり話が出来そうなホットティーとブレンドコーヒーをそれぞれ注文した。

「いい感じの店ですね」

「診察の方と場所を変えてお話したいとき、いろいろ店を探すのですが、ここが一番お気に入りなんです」

 しばらくして、注文した飲み物が運ばれて来ると、二人ともひと口飲み終えた。

「島田さん、体調はいかがですか?」

 まだ初対面のゆりこに、すこし遠慮がちに話しかける清水。

「はい、体調には問題ありません。ただ、気を失うというより、眠ってしまうという」

「心で会話をしているとき…でしたね?」

 朗らかな顔色で、清水は佳菜子のほうを伺った。

「そうなんです。こんな症状、よくあるんですか?」

「まあ、症状と原因は千差万別です。よくお聞きして、少しずつ確かめましょう。体調が悪くなければ焦ることはありません。体調面、身体面がわたしの専門分野ですが、お話を伺いましょう」

 清水が続ける。

「まず、声とはどのような? 例えば、天から響くような何処からともなく聞こえるのですか?」

「ええっと、そうではないです。はっきりと方向がありますし、人物がそこに居るように聞こえます」

「ふむふむ」

 清水はジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、両手でゆりこにかざした。

「内容をメモしますが…」

「はい、どうぞ結構です」

「ありがとうございます。それで、声を聞いてあなたは?」

「初めはただ聞いているだけでした。きっかけはこの間気を失ったとき、相手に応答することが出来ました…」

「ふむふむ」

「あのう…」

「はい?」

 ゆりこは清水を覗き込むように彼の顔色を伺った。

「これって、信じてもらえるんでしょうか?」

 佳菜子も清水の表情を注視した。

「もちろんです。これはあなたが実際に体験したことですから、疑うことはありません」

 正面の二人が自分に疑いの目を向けていることに、清水は動じることなく答えた。ゆりこはホッとするより、隠せないと逆に追い込まれた気分にはなったが、この男に相談する決心もついた。

「はい、疑ってすみません」

「いえいえ、気にすることはありません。どうぞ続けてください」

「ここに来る数時間前です。またその男性が呼びかけて来ました。もうその時には応答のやり方をつかんでいたので、呼びかけに応えました」

「そんなことがあったの!?」

 佳菜子は清水が前にいるせいか、店の雰囲気に気を遣ってか、もの静かに振る舞いながらも、ゆりこの変化に驚きを見せた。

「うん。あんたと待ち合わせる前に」

「それで、また気絶したんじゃ…」

「大丈夫よ。テーブルに眠るみたいにしてたから」

「そう」

 清水が割って入る。

「その相手はどのような? 例えば、あなたしか知らないようなことを知っていたとか…」

「いい…え、どちらかといえば、お互いに何も知らないので、探り合っていた感じで」

 ゆりこはケンジとの会話を思い出そうとカップから目を離し、天井の大きな扇風機を眺める。

「たわいないことを喋ったので、よく覚えていないんです。好きな食べ物は何? とか聞かれたり…握手も出来ると言われて、握手もしました」

「握手…。相手と接触したのですね」

「はい、大きな手で、間違いなく男性でした」

「呼びかけ…、応答、…接触。…交感…」

 顎に手をやり、清水は何やら考え始めた。やっぱり信じてもらえそうにない、とゆりこはコーヒーをひと口飲みながらそう思う。濃厚な苦味でちょっと渋い顔をするゆりこを、佳菜子は清水と対比しながら見つめていた。

「島田さん」

「はい…。あの、佳菜子にはいつも、ゆりこと呼ばれてますので」

 難しそうにしていた清水の顔が、その一言で晴れたように笑顔になった。

「では、ゆりこさん。今、問診票を出しますので、それに答えて頂けますか? あまり時間はかかりません」

「はい、判りました」

 清水は傍に置いてあった大きめのカバンからファイルフォルダーを取り出し、複数準備された中でも一番奥に入った一枚の問診票を取り出した。心なしか、その手は強張って見えた。

「あった。それでは、これから私が読み上げますので該当するものに"はい"で答えてください」

「はい」

 小さな咳払いの清水。

「では。え〜、今回、あなたが体験したことを除外してくださいね。では、1問目。あなたは現在、心身に関して医師の治療を受けていますか? また、最近そのような経験はありましたか?」

「いいえ」

「はい。では、次。あなたはこれまでに、幽霊やその他、怪奇現象に遭遇したことがありますか?」

「いいえ」

 その後も清水はゆっくり質問あげていき、そして徐々にまた難しい顔つきに入っていく。そして最後の質問を終え、難しい顔つきのままゆりこを見つめた。

「ゆりこさん。今日、あなたが会ったという男性は、どんな方でした? 知らないとはいえ、何処かで会ったような感じはしませんでしたか? テレビのタレントにそっくりだとか」

「…」

 ゆりこはしばらく考えたが、やはり知らないのだ。

「知らない人です。ちょっと小生意気でした」

 清水はまた、顎に手を当てて考えた始めた。佳菜子はちょっと退屈そうにホットティーをすすり、時計を見たりした。

「妄想的な事象ですと、何処かで会ったような。と、いうことが多いのですが。それと、不思議な体験をしている方が多いのです…。幻聴とも違う…」

 こちらに顔を向けてはいるが、清水はどこか独り言のように話し、聞いた。

「他に、何かお話しされましたか?」

「はあ…何故話せるのか聞きましたが…わたしが話せる人だからだと」

「そうですか…」

 清水は結論が見えたように何度か小さく頭を縦に振る。

「幻聴、幻覚であれば、場合によってはあなたに深刻な影響を与えます。今のお話では、あなたがそれをコントロールできているのが幸いです」

「ええ。応答しなければ無視すればいいので」

「それと…私自信の経験で、あなたに近い事例もありますが性急にそうだと言い切れるものではありませんので…。日を置いて、もう一度面談させて頂けませんか?」

 勿体ぶっているようにも思えたが、慎重になっているということだろう。

「ああ、そうですか…」

 少し気を落とすゆりこに、佳奈子が続ける。

「先生、早めに原因を知りたいんですけど」

「分かります。ただ、誤診しては元も子もありません。申し訳ないですが、ここは様子を見たほうが良さそうですので」

 優しく問いただす清水に、ゆりこも佳奈子も承諾するしかなかった。そこからおそらく数十秒。しばらく沈黙が流れた。

「で、ゆりこはどうすればいいのでしょう」

「はい。まず、一時的なものであればストレスや疲労から来るもので、徐々に改善します。思い悩まずにいること、気持ちを楽にすることが大切です」

「分かりました」

 清水は名刺の差し出しが遅れたことを詫び、カバンから取り出した名刺をゆりこに渡した。

「診療所はこの近くです、いつでもお寄りください。あ、休診日は名刺に書いてありますので」

「ありがとうござます」

 それから三人は、しばらく雑談した。清水は東京の下町出身で、学生時代は剣道をしていたこと。大学時代にアメリカに留学したことなどを聞いた。

「先生、英語がすごく上手なのに英会話スクールに通ってるのはなぜ?」

「実際に使っていないと忘れてしまうものです。教室の方と会えるのも楽しみで」

 佳奈子と清水がそのスクールで仲がいいのをゆりこは感じ取った。この場はゆりこも居るので敬語で話してはいるが。

「楽しそうですね。ちゃんと話せるかちょっと怖くて、なかなか…」

「へへ。あたしもね、最初は恥ずかしいこともあったけどね」

 三人で打ち解けてくると、ゆりこの不安も薄らいできた。そしてお互い礼を交わし、その日は別れた。

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