第2話 二度目のコンタクト
そして、土曜日の朝を迎える。ゆりこはいつもの通り、部屋の掃除と洗濯を済ませ、トーストをつくり、コーヒーを沸かした。これが彼女の休日の日課になっている。1DKで狭いのは仕方ないが、まだ新しいアパートは運良く3階の角部屋が見つかった。何より広いベランダが気に入っている。夏はここに椅子を持ち込んでビールをグビっといったりする。ベランダの外は小さな通りと、その向こうは小学校のグラウンドになっているので、グラウンドの向こうに建つ2階建て住宅まで遮るものがないのだ。学校からは今日も子供たちの遊ぶ声や、野球をしている様子が聞こえる。
コーヒーが出来上がり、トーストにレタスとハムを挟み込んだところで、ゆりこはホッとして食事を始めた。朝の終わりに差し掛かっている、いつもの時間。窓の明かりを見つめながらパンをポチポチと食べ、今夜のことを考える。
佳菜子の言うお医者さんは彼女が守備良く話をつけ、今夜三人で食事をする。そこで症状を聞いてもらい、必要なら診察の予約を取ることになった。これならゆっくり話しを聞いてもらえるし、心配なければ受診しなくて良い。佳菜子の心遣いが嬉しくて『ありがとね』とつぶやく。
だが、そのお医者さんがどういった人物か知らない上に、自分の状態をうまく説明できるのか分からない。正直に言うと気が乗らないが、放っておく訳にもいかない。何しろ気を失ったのだから。
気を失ったあの日、帰宅したゆりこは浴槽に浸かりながら自分の身に起きたことことを考えた。佳菜子は英会話スクールの日で、そのお医者さんとの話は電話で知らせてくれることになっていた。
『9時前になっちゃうけど。ま、ゆっくり待っててよ』と。
半身浴の湯の中で顔にタオルを当てた後「ふう」と息を吐く。
「やっぱり、妄想かな」
でも、あの時の感じは忘れない。それまで全く体験したことのない不思議な感覚はどうやって起きたのか。
浴槽からあがり、パジャマ姿でいつものように小さな鏡で化粧水をパシパシと殴りつけているとき、キッチンに置いた電話が鳴った。小さなアパートを小走りで電話に出るゆりこ。手を延ばしたその時、あの空間の霞みを感じたが、そのままの勢いで電話に出た。
「もしもし」
「あ、ゆりこ? 気分はどう?」
佳菜子だった。静かな場所から掛けているようだ。
「うん。大丈夫。ちょっと霞んだりするけどね」
ゆりこの声は状態を告げる言葉と裏腹に明るかった。電話に出るとき、ゆりこは"応えるヒント"を掴んだ気がした。
「そう…。明日、休みにするならあたし、連絡してあげるよ。どうする?」
「うん。もう大丈夫。たぶんね」
「ん? そう…?」
佳奈子は『霞むけど、もう大丈夫』の意味がよく分からず、少し困惑した。
「お医者さんね、お名前は清水さんて言うんだけど、まずは会ってお話しを伺いましょう、てことになったの」
「うん。そうなんだ。ありがとう、佳菜子」
「はいはい。で、土曜日の夜、空いてる? ダメならわたしが電話することになってるの」
「うん。全然空いてる。大丈夫」
「それじゃ、えぇっとね…」
佳菜子が言いかけたとき、カチカチと音がした。ウィンカーの音。それに小さなエンジンの音。彼女が自動車の車内から電話を掛けていることに気がついた。しばらく沈黙した後、佳菜子が続ける。
「ごめん。じゃあ明日、詳しい話するね」
「うん…。ありがとう」
「ではでは。ゆっくりお休みくださいな。じゃあ、切るね」
「うん。本当にありがとう」
「はぁい。じゃね。お休み」
「お休みぃ」
ピッと電話を切った後、ゆりこは佳菜子のことを考えた。彼女は自動車を持っていないし、タクシーで帰るような時間でもない。そんな友達も聞いたことがない。誰かと一緒にいるのか。お医者さん? それとも…。
次の日、佳菜子はクライアントとの打ち合わせが長引き、昼も夜もその相手と食事を共にしていたのであまり時間が取れなかった。それでも給湯室の立ち話でなんとか話し合い、そのお医者さんが意外と乗り気でお店は彼が予約することを聞き、佳菜子と二人で待ち合わせる場所を決めた。車のことは結局聞けなかった。
そして今日、この日が来るまでに、ゆりこは"あの状態"になる感覚をつかんだ。どう表現すればいいのか解らないが、耳の後ろあたりをピクとさせ、瞬間的に集中するような気に追い込んだとき。
『君は応えたいときに応えればいい』
彼はそう言った。だから、後は彼が呼びかけて来るのを待つだけだ。ケンジと名乗る彼は、おそらく全てを知っている。
ぼけっと窓の明かりを見ていたゆりこは、思い出したようにキッチンの脇に置いてある時計に目を移した。可愛らしいハトの絵柄の時計は近くのスーパーで見つけた。部屋にあるのは何もかも、お金のかからないものばかり。手に取ったり、説明を読んだりして『これ』と思うものを買い揃えている。おかげで女の子の部屋にしてはあっさりしたものだ。
白いハトの長い針を、やはりぼけっと眺めていたかと思うと『さて』とばかりに椅子から立ち上がり、トイレで用を足し、その足でベランダの洗濯物を確認。その後、またキッチンに戻り、また腰掛けた。いつもなら本や雑誌やマンがを読む時間だが、落ち着かないのだ。『ふう』とため息を漏らし、コーヒーをひと口すすったところで、彼に呼びかけられた。
「僕だよ。ケンジ。何してるの?」
ドギマギしてコーヒーをこぼしかけた。
「ね、聞こえてる?」
何も、こちらが気を抜いている時でなくても。
心を落ち着けて、あの感じを思い出そうと必死になった。あせるな!、あせるな!。そう自分に言い聞かせる。
「君に会えるだけでいいんだ。気分が違うんだよ」
気持ちを落ち着かせ、ハトをめがけて意識を放出する -。
「…やっ、やあ。あはは。ビックリしたよ。やっと繋がったね」
「ど、どうも…こんにちは」
「この間はあまり話せなかったから」
「そうでしたね…。あの、すいません」
「なにも謝らなくてもいいよ。僕はケンジ。君の名前も聞いていい?」
「あぁぁ。あの、サユリです」
警戒が解ける訳がない!。思わず気に入っている芸能人の名前を名乗ってしまった。
「ふ〜ん、サユリ。可愛い名前だね」
「そうでしょうか」
「好きじゃないの? いいと思うけどな」
「いえ、そんなことは…」
ゆりこはこのちょっと軽い男は「年下かな?」と思いつつ、自分の疑問を聞いてみたくてうずうずし始めた。
「ねえ、君はどんな仕事してるの?」
「え?、わたし? どうして?」
「ちょっと聞いてみただけ。嫌いな食べ物って、なに?」
「ええっと…」
「そうだ、女の子は甘いものが好きなんだ。君もそうなの? ねえ、何か話してよ」
あんたが話しすぎなのよ!と心で思いつつ、間を空けると向こうが何か話しそうなのでとりあえず。
「あなたは、いったい何者?」
「僕? 僕はケンジ」
「まあ、それは知ってます。何故あなたと話せるのかしら」
「君が話せる人だからだよ。話せるだけじゃなくて、握手だって出来る。やってみようか?」
「はあ、握手…」
彼に手を伸ばす振りをすると、その手を確かめ合い握手を交わした。普通に彼の体温も感じ、ちょっとドキっとした。長い指先でゆりこの手は簡単に包まれてしまう。
「本当だわ」
「まだ何も知らないんだね。大丈夫だよ、僕はきっといい友達になれるから」
「あなたは、いくつ?」
「どうして? 僕は僕だよ。関係ないじゃない」
「ああ、そう? 聞いてみただけ。何処から来たの?」
「ははは。僕のこと、聞いてばかりだね。聞くのが好きなの? 自分のこと、おしゃべりしないの?」
何か深層を突かれたようで、イラッとした。
「だって。あなたと会うの初めてなのよ!。あなただって、わたしのこと聞いてたじゃない」
「怒ったの? ごめんね」
「いえ、そんなわけじゃ…」
「君ってほんとに面白いね。ねえ、また会いにきてもいい?」
「いいけど…。応答できるか分からないわ」
「分かった。じゃあ、またね」
「また…って?」
彼の気配が消えると、現実に目が覚めた。テーブルに突っ伏していた顔を上げると、寝起きのように少しぼうっとしている。むにゅむにゅと鳩の時計を見ると10分ほどが過ぎていた。
「寝てたの? ケンジ? また来る…。平日の昼間はダメ…」
腕に顔を埋め、交わした会話を少しずつ確かめた。
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