ゆりこinワンダーランド

@minoru-

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第1話 だれかの呼びかけ

「『年度の希望トレーニング』決まった?」

「わたしまだ。さっさとやろうと思うけど、なんだか面倒で」

 二人は笑い合った。ゴールデンウィークも過ぎた晩春のコーヒーショップ。軽く食事をとり、アイスコーヒーとアイスティーをそれぞれ飲みながらくつろいでいる。

 このあたりは日曜日にもなると人が多いので早めに店に入ったが、そろそろ食事客が多くなる時間に差し掛かっている。家族連れにも人気があるのでワイワイと楽しげな会話でいっぱいになるのだ。

「次の連休まで…まだ遠いよねぇ」

 佳奈子がふうという顔でつぶやく。先週も残業が多かった二人。土日の休みは出来るだけ休むことにしている。日曜の今日は佳奈子からゆりこに誘いの電話をかけた。『気晴らしに買い物しない?』というのが理由だ。ゆりこも快諾し、小一時間ほど歩き回った。

 ゆりこはアイス・ティーのカップに溜まる水滴が気になり、ポーチからポケットティッシュを取り出す。

「ねえ、この間の店、良かったよね。そこ行こか?」

 カップとテーブルの水を拭いながらゆりこが話しかける。

「ああ、あはは。そうだね」

 その店は、この場所から20分ほど歩いた川の向こうにある、若い女性に人気のアクセサリー・ショップ。海外のインポート・グッズが豊富なのだが『これ、何に使うの?』と首を傾げるものやら、とても身につけて歩けないような変わり種を扱っており、そこがまた人気を呼んでいる。

「そういえばさ"ソート・オブ・ザ・カインド"DVDで見たよ」

 全く関連のない話題を佳奈子が持ち出す。休みの日に交わす二人の会話は大抵こんなところ。まあ、これが楽しいのだから。

「ほう!。どうでっしゃろ?」

「うん。結構イイ!。泣けるわ。ラストがねぇ、たまらんのよ」

「お、ちょっと待って、言わないで!。アタシも見たいから!」

「えぇっとね、主人公の男がねー」

「ああ、ストーップ!。お願い!」

 そこで急に、笑顔でいたゆりこがびくっとして振り向いた。何かに頭を触られたように首を竦め、笑う仕草で口元にグーをしていた手を胸に縮めた。

「どうしたの!?」

 佳奈子も、ゆりこの背後を伺った。コーヒーショップのガラスを横に並んで座る二人は、ゆりこが入り口側に座っている。だが、入り口まで3〜4メートルは距離があり、ゆりこの背後にあるのは空席だけだ。

「誰かが呼んだような気がしたんだけどな〜。肩を突ついて…」

「またぁ?」

「うん…。また…」

 ゆりこは口元を一文字にして目の前のカップに手を伸ばすと、背筋をシャンとした。佳奈子の次の一言は注告だ。ゆりこの視線はカップのあるテーブルへ。

「あんたさぁ、ちょっと疲れてんじゃない? ここんとこ、残業続いてるからさぁ。気をつけなよぉ」

「はーい。お互い様です」

 二人は商品企画部に所属し、企画をいくつも掛け持ちしている。クライアントとの打ち合わせやら、材料や流通の手配やらをこなした後、報告資料をまとめる頃には夜遅くなっていることも日常的。ただ、様々な企画に関われることは結構やりがいもあり、楽しさを感じていない訳ではない。

「ねえ、あのさぁ、ちょっと休みが出来たらさ、ペンションか何処かに泊まり込みで旅行しようか?」

「うん! おお、いいわね。そーいえばこの間、京都に行って以来どこも行ってないもんね」

「じゃあねぇ。次の休みはねぇ…」

 スケジュール帳を開いて「ふぅ…』とため息を漏らす佳奈子。

「あはは。ダメだこりゃ」

 笑い出すゆりこにアピールするように、佳奈子はムフフという顔で髪をいじりながら、目を天井に向けて考えだした。彼女は静かな場所を訪れるのが好きだ。

「秋かな?」

「うん。どこか行こうね」

 佳奈子は目線を落とし、バッグからポーチを取り出す。

「ちょっとゴメンね」

「うん」

 佳奈子は席を外すと胸まである髪を直しながら化粧室へ歩いて行く。ゆりこは次第に増えてくる客の声の中に佳奈子が消えて行くのを見守った。


 先日、同僚の男性二人、女性一人と夕食を囲んだ。男性は同期の野口くんと後輩の酒見くん、女性は1つ後輩の江坂さん。この三人は所属する担当課も同じでよく食事や飲みに行ったりしている。ゆりこと佳奈子の課は年上の男性ばかりなので、この三人はよく二人を誘ってくれた。その日は用があると言って佳奈子は同席しなかった。

 野口くんは髪をツンと立て、お洒落で明るい男性。こざっぱりした部屋、大きくないスポーツカー、スポーツジム、整理整頓、そんなイメージ。片や、酒見くんはお世辞にもファッションに興味があるように見えず、メガネの形さえいつもニコニコとしている、ちょっと散らかった部屋を連想させる男性。そして女性の江坂さんは、清楚という言葉の似合うもの静かな印象…とは裏腹に、オシャベリが始まると止まらなくなるような娘。飲むと一番笑い転げている、なので女性にも男性にも可愛がられ、みんなに名前で早苗ちゃんと呼ばれる、そんな女性。三人とも屈託なくおしゃべりに興じるので、ゆりこと佳奈子は殆ど聞き役に廻ることになる。

 その日もその三人は、会社の上司が俳優の誰に似ているとか、あのタレントが今一番オモシロいとか、スポーツ選手は誰が好き、この間新しい店を見つけて入った体験、今の政府はなっていない、あの法案には反対だなど、よくもまあ次々と話題が飛び出してくる。

 ゆりこもそんな彼らと話すのは楽しい。相づちを打ちながら、時に知らないことを耳にし、時間を忘れて付き合った。

 ところがふと、その場にいない佳奈子の名前を一人が口にした途端、三人とも水を打ったように静かになった。ゆりこの顔色を伺っているのは明らかで、ゆりこは少し困惑ぎみに江坂や野口の顔をちょっと首を傾げるようにチラチラと見回すと、江坂が気を遣って口を開いた。

「ゆりこ先輩、もう聞いてます?」

 勿論、佳奈子のことだろう。なにも思い当たることのないゆりこは小さく首を振った。そこへ野口が続ける。

「最近、うちの社長といい仲だって、噂なんだよ」

「見た人がいるんすよ。一緒に車に乗ってるとこなんですけど」

「わたし、信じたくないです。先輩のこと好きだし。でも、スタイルいいし、美人だし。社長さんの目に留まるのは分かる気がするんですけど…」

 野口の後から、三人は次々と話し始める。ゆりこは髪をいじりながら、話す側に顔を向け、しかし頭が混乱したまま言葉が出ないでいた。

「まあね。恋愛は個人の自由だしさ」

「でも、不倫はよくないと思います、わたし。ちょとショックです」

「あ、社長って奥さん居ましたっけ?」

「居るに決まってんだろ。何言ってんだよ」

 軽く笑いが出たその後は話題も外れて行き、またいつもの三人+ゆりこに戻って行った。だがその日、佳奈子のことがゆりこの頭から離れることはなかった。


 それから今日で約二週間、ゆりこは三人に聞いた話しを佳菜子に言い出せずにいた。佳菜子が傷つきはしないか、ただの噂かも知れないのだから、ただ単に嫌な思いをさせるだけだ。髪をいじりながら、ぼうっと考えていると、また声がした。


「僕はケンジ。応答してくれる?」


 今度はハッキリと聞こえた。最初は何の音だかよくわからなかったが、日を追うごとに声だと気がつき、徐々に言葉として認識するようになっていた。だが、こんなにハッキリと聞き取れたのは初めてだ。

「これは何?」

 ゆりこは冷静に受け止めた。続きが来るのか?。そのままの姿勢で気持ちを持続させるようにぼうとした状態を保ってみた。

「なにぼうっとしてるのぉ?」

 いつの間に、佳菜子が戻っていた。

「ねぇ!。本当に大丈夫?」

「うん。何でもないよ。お帰りぃ」

 ゆりこはいじっていた髪を手ぐしで直すと、背筋を伸ばした。

「ね、あんたに聞いて欲しいだけどさぁ」

「何?」

 佳奈子の言葉に、ゆりこは『来たか!。話す気になったのね』と心の準備を整える。野口や江坂の顔や、社長の姿が頭によぎる。

 佳菜子は一度、アイスコーヒーのストローをチュっと吸って話し出した。

「あのね、あたし、英会話スクールに通ってるじゃない。そこで知り合ったんだけどぉ、お医者さんがいるのよ。心療内科の。一度、相談してみない? 話しやすい人だし、あたしも一緒に行ったっていいからさ」

「あ?、え、はぁ。そう?」

「ね。ほっといたって原因がわかんないし、ちゃんとした診断書があれば休みも取れるし。どう?」

「そうねぇ。気は進まないなぁ」

「疲れてるんだと思うよぉ。何時でもいいよ、毎週会える人だからね」

「うん。ありがとう、佳菜子。心配してくれて」

 準備の当てが外れたゆりこは彼女の告白を待っていたはずなのに、妙にホッとしたような、複雑な気持ちになってしまった。「わたしにも話があるんだけど』その一言がなんだか言い出せず、二人は店を後にし、川にかかった小さな橋の向こうにある例の店をひやかし、その後は「また明日ね」と言って別れた。相変わらず心地よい曇り空の午後だった。


 そして、三日が過ぎた。その日は朝から二人の先輩社員がなにやら部長席で話し込み、腕組みをしたかと思えば机に手をついて顔を寄せ合い、難しい相談をしているようだった。

「高槻さん、あれ、何かありました?」

 ゆりこは隣に座る主任の高槻に聞いてみた。高槻はメガネに手をやり、見ていた資料を捲りながら答える。

「ああ、良く知らん」

「そうですか」

 と、一度会話が途切れたところで、高槻が続けた。

「良くは知らんが、どうやら新薬の輸入先が急に変更になったそうだ」

「ずっと企画会議に上がっていた…ですね」

「そうだな」

 高槻は資料をまとめて立ち上がる前、といった感じの状態で、ゆりこに改めて顔を向けた。

「ま、今のところお前に関係はないが、念のため話しておこうか」

「はい!」

 ゆりこはノートを開きかけたが、高槻は手を振った。

「いやいや、そんな話じゃない。あの状態な…」

 高槻はアゴで部長席の三人を指した。

「どうやら、社長か上層部の意向らしいんだよな。フェザー製薬からノース薬剤に、という」

「そうですか」

「吉野はどうも、一人で抱え込んでしまったらしい。その結果大慌てになってるワケさ。お前は優秀だ。でも、一人で頑張りすぎるんじゃないぞ。お互いにな」

「はい」

 ゆりこは笑顔を作って見せた。この高槻という上司は無愛想だが、時々こんな気を利かせてくる。

「じゃ。俺はまた、Aノンに行って来るぞ」

「はい。行ってらっしゃい」

 高槻は書類をバッグに詰めると大股で入口に向かい、行き先ボードに立ち寄り先を書き込むと一礼してフロアを出て行った。

 ゆりこは企画書の続きを書くためパソコンに向かい、お茶のカップを手にした。そしてチラと、部長席で小さくなっている先輩の吉野を見た。彼の頭の中は、取引先への詫び状の書き方やら、今後の立て直しなどが浮かんでいるだろう。

「待てよ…」

 パソコンの画面に取引先情報を表示させ、ノース薬剤を選び出した。セキュリティの関係で詳しい情報は隠蔽されているが、担当は…。

「佳菜子だ。あらまぁ」

 普通ならここで「彼女も忙しくなるな』と気を回すところだが。

「社長の意向…」

 高槻の言葉を思い出し、考えを巡らせる。いや、何かの偶然に違いない。佳菜子にとって、何の得にもならないのだから。

「お昼に…」

 何か聞いてみようかと思ったが「社長に何か口添えさせたの?」などと言える筈もない。増してや不倫の事実さえ真偽は不明なのだ。

「ああ、そうなのよ。また忙しくなっちゃった」

 案の定、お昼休みに佳菜子は担当替えをあっけらかんと答えた。晴れた日は会社が入居するビル屋上のベンチで、いつも手作り弁当を二人で食べる。

「あれ、社長か上層部からお達しが出たようなこと、高槻さんが」

「ふぅん。そう」

 そっけない返事。やはり佳菜子は何かを言わずにいる。それは、ゆりこだから分かった。ひょっとすると、それを伝えたいかのような素振り。

「人生いろいろ〜♪ってね」

「うふふ」

 ちょっと口ずさんで箸を持ったまま『ウ〜ん』と背伸びする佳菜子に、ゆりこは釣られて微笑んだ。そして彼女も同じように背伸びをする。

 その時、横においてあったボトルを倒してしまうゆりこ。追いかけるように手を延ばすと、その先が異空間のように霞んだ。

「何っ!?」

 ボトルがベンチから転げる様を、ゆりこは見た。まるでスローモーションのように回転しながら床に落ちるその瞬間、目の前がスッと暗くなった。

「僕はケンジ。応答してくれる?」

 彼の声はふわふわと浮かんでいるようにも聞こえた。不思議と怖くないし、むしろ居心地の良ささえ感じる。

「やあ、初めまして」

「ええ?っと、こちらこそ」

「やっと応えてくれたね。僕に」

「方法が分からなかったの」

「そう。でも、もう大丈夫。君は応えたい時に応えればいい」

 自分の中にモジモジとしたものを感じ、言い訳して隠れたくなった。

「今、友達と一緒なの…」

「そう。じゃあ、またね」

「…」

 目を覚ますとベンチで横になっている。佳菜子が揺すりながら名前を読んでいた。

「あんた、ちょっと! どうしたの?」

 なにが起きたのか分からず、顔を近づける佳菜子をぼうっと見つめた。

「あれ? ごめん」

 佳奈子は『はあ』と吐息を漏らし、地べたにペタンとなった。むくりと起き上がるゆりこの肩を支えながら、佳菜子もベンチに座り直す。

「何? 何か感じた?」

 佳奈子も薄々、ゆりこが何か妙な感じに囚われていることに気がついている。

「う〜ん。それが…」

 普通に考えれば、自分の心身を疑われる妄想だろう。言っても無駄だと思えるような話だが、話す相手は佳菜子だ。

「この間から、ハッキリ声が聞こえるんだわ。『僕はケンジ』って」

 佳菜子はまた、はあ、と息をつき、空を見上げた。そして空を見ながらゆりこにささやく。

「今日、あのお医者さんに相談する。一緒に診てもらお。ね」

 まるで母親のように語りかける佳菜子に、ゆりこは頷いて答えた。

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