大いなるテッド・チャンの息吹


     1


 ステンドグラスからの光が礼拝堂を陰影によって対角線で分割している。

 壇上からシスターは聴衆に向かって、鷹揚に語りかけた。

「この世界について私達にわかっていることで、最も重要な二つの事柄から始めましょう。


 ・この宇宙はテキストベースである

 ・この宇宙はテッド・チャン的宇宙である


 この宇宙がテキストベース、文字で書かれていることは見ての通りですが、二つ目は長らく議論の的となってきました。

 単に文章中でテッド・チャンという名前が連呼されているだけでは、作者がテッド・チャンであることの証明には一切ならない。それどころかむしろ、作者は普通、作品内に自分の名前を出さない。だからこの世界を書いたのはテッド・チャンではありえないのだ。そう反対派は主張してきました。

 それに対して、教会は一貫してこう反論してきました。

 この宇宙そのものがテッド・チャン的であるかどうかが問題であって、作者がテッド・チャン的かどうかは関係ない。作者は誰でもあり得るし、ランダムな文字列かもしれない。

 作品外の語りえない形而上学的対象に意味はない。その文字列の中の我々が、その文字列自体の中に、テッド・チャンを見出すかどうかが重要なのだ。

 しかし、そういった議論も過去のものです。

 今や、この宇宙がテッド・チャン的なものであることは疑いの余地がないと言ってよいでしょう。

 地質学者達は、各時代の地層からテッド・チャンの本の化石を大量に発掘し始めています。それも全てが新作です。それらは、今まで見つけずにいることがどうして可能だったのかという頻度で地層に出現するのです。およそ生命が存在しなかった時代の岩盤からでさえ。

 そのような〈祖先以前的〉物証は、相関主義的なテッド・チャン論を否定するものでした。それら現化石は、テッド・チャンとその言葉が、人間の認識とは無関係に存在していることを証明するものだったのです」


 七本脚(ヘプタポッド)ニイルは、長椅子に座る他の聴衆と一緒に、恍惚とした表情でシスターの講説を聞いていた。

 あらゆるものにテッド・チャンの不在を見出して涙していたここ数年のニイルだったが、今では満ち足りている。

 なにしろ、テッド・チャンの新作が出たのだ。新作が出た瞬間にこの世のあらゆる場所からテッド・チャンの痕跡が遡及的に発見され始め、いまや世界はテッド・チャンのメッセージであふれている。

 シスターの言う、〝我々がいる文字列の中にテッド・チャンを見出す〟という行為は、具体的に言うと、テッド・チャン的物語の類型パターンを発見することだ。

 テッド・チャン的物語の類型パターンを満たしていれば、その物語内の人物は誰でもテッド・チャン的カタルシスを得ることができる。

 典型的なテッド・チャン的物語の展開は、次のような段階に分けられる。


 1.登場人物は世界についてある信念を抱いている

 2.その信念をゆるがすかもしれない噂がもたらされる

 3.その噂の真相を確かめるため、自ら冒険あるいは探求に乗り出す

 4.献身的でファナティックな研究の後、自分の当初の信念が間違っていたことに気付かされる。(その結論は、世界は人格的ではない原理によって支配されていることを示すものが多い)

 5.主人公はショックを受けるが、やがてそれを受容する


 この物語類型について、ニイルは演説が終わるのを待って、シスターに個人的に質問をしにいった。

「質問よろしいですか?テッド・チャン的物語であることの最初の条件に、〝登場人物は世界についてある信念を抱いている〟とありますが……。例えば僕の場合、その信念とは、僕がテッド・チャン的物語宇宙にいるはずだと信じている、まさにこの確信のことですね?」

 シスターは答えた。

「そうです。そして、それに疑念が挟まれるのです。この宇宙が実はテッド・チャン的ではないかもしれないという。あなたは宇宙がテッド・チャン的であることを証明するために奔走し、ときには内側に向けて自己解体する。その偏執的な真理の追跡の果てにやがて、自らの手によって、自らの誤りを証明してしまいます。自らの宇宙論の決定的な誤謬を」

「う~ん、そのあたりのカタルシスがテッド・チャン的ですね。僕も早く自分の間違いを証明したいです」

 ニイルは浮足立つように言った。

「そんな風に信念が軽薄では、良質なテッド・チャン的カタルシスが得られませんよ」

「わかっています、シスター。お導きを感謝します」

「そうです。その礼儀正しさもテッド・チャン値を高めますよ。イーガンで言うとゼンデギの主人公くらい寛容になりなさい。そして、同様に裏切られ、打ちひしがれなさい。私がこうやって先の展開をあなたに告げることも、決定論的な未来を描くことに繋がり、テッド・チャンみが出るのですから」

 ニイルは思った。そう、僕はテッド・チャン的宇宙論を信じながら、おそらく物語後半でそれを裏切られることになる。それは予め決定された明日であり、僕が何をしようとも変えることはできない。

 しかし、僕はその絶望を乗り越えるだろう。ここがテッド・チャン的宇宙である限り。



     2


 ニイルは宮殿を後にして、市場に向かった。

 極度に単純化されたテッド・チャン宇宙において、教会か宮殿かの区別はさほど重要ではない。

 砂塵と喧騒にまみれた市場には、雑多な香辛料の匂いが漂っている。 

「OSTオブジェクトはいらんかね」

 屋根付き屋台の商人がニイルを呼び止めた。

「OSTオブジェクト?映画のオリジナル・サウンドトラックのことですか?海賊版ですか?」

「違うよ、お客さん。OSTとは、Obsolete Scientific Theoryの略さ。Obsoleteとは、時代遅れとか、すでに古くなって廃れたものということだ。つまりOSTとは、〝すでに否定された科学理論〟を意味する」

「すでに否定された科学理論。有名なところで言えば、天動説や錬金術ですね」

「そうだ。飲み込みが早いね、お客さん。そして、そのような否定された物理法則に基礎づけられた宇宙のことを、OST-based Universeと呼ぶ。私が勝手に呼んでいるんだがな。

 今では間違っていたり迷信とされる理論や学説が、実際に真実だったらどうなる?わくわくしないかい?OSTオブジェクトとは、そういう世界であることを示す証拠品のことさ」

 ニイルは興味を引かれた。

「おお、それは涎が出るほどテッド・チャン的――いや、テッド・チャンそのものですね」

「そうだろう。テッド・チャンの作品にはOST-based Universeが舞台であるものが多いからな」

 ニイルは薄暗い店内に入って言った。

「どういったOSTオブジェクトがあるのですか?」

「なんでもさ。賢者の石。永久機関。熱素で動く蒸気機関。地球を支える象と亀の下の蛇の鱗。

 そうだな、お客さんみたいな人にお勧めなのは……地球平面説とかどうだい?これは、世界の縁の壁で取れる花崗岩さ」

「古代ギリシャ人はすでに地球が球体だと知っていたらしいのでちょっと」

「フロギストンの詰まった瓶とかは?」

「それ系の作品はすでにあるので」

「じゃあ骨相学を証明する頭蓋骨とかは?」

「そういう差別的なのもちょっと」

「地平線方向に重力が働く惑星なんてのはどうだ」

「それはイーガンがやってたのでちょっと」

「ふうむ」商人はターバン越しに頭をさわって言った。

「じゃあ、これなんかどうだい。最近入荷したOSTオブジェクト。古代中国の王朝の、王の墓。兵馬俑だ。これが実は自動兵器だったというOSTで、普通の宇宙なら一瞬で否定される説だろうが、この宇宙ではその説が採用されている」

「兵馬俑ですか」

 ニイルは少しがっかりした。

 壮大な宇宙論的OSTではなく、オカルト雑誌に載っていそうなオーパーツ伝説に過ぎない。それも、アンティキティラ島の機械のように数少ない本物のオーパーツではなく、一回聞いたら馬鹿げているとわかるような与太話。

「う~ん、そういう胡散臭いオーパーツ伝説じゃなくて、もっとスケールの大きい、世界観をひっくり返すようなものがいいです。生気論とか、前成説とか、斉一説とか、パンスペルミア説とか、地向斜説とか、エーテル説とか。すべて、昔の人や科学者が大真面目に信じていたところに魅力がある。兵馬俑がドローン?そんなの聞いたことがありません」

「まあ、やってみなよ。テッド・チャンの『七十二文字』のゴーレムみたいなもんだ」

「ふうむ」

 たしかに、現象としてはこじんまりしているが、粘土から出来た焼物が動くのであれば、その背後に何か現実とは違う原理があるのだろう。それを解明するのもテッド・チャンの醍醐味というものだ。

「わかりました。ダイヴするので機材を貸してください」

 そういってニイルは、商人が用意した普通のVRゴーグルをかけた。テキスト宇宙においては別の物語階層も同じ位相にあるので、機材にこだわることはない。



     3


 ニイルは古代中国のいずれかの皇帝の前に伏していた。

「そなたか。朕の陵を飾る〈俑〉を上手く制御できると申す、異国の陶工とは」

 ニイルは適当に話をあわせることにした。

「そのとおりです。誰よりも精密に〈俑〉を動かせると自負しております」

「では、〈俑〉にどのような命令文を与えればよいか当然わかっておるのだな?」

「え?」

「ん?」

 高さがおよそ1.8メートルのテラコッタの人形が佇んでいる。これが陵墓の陪葬坑に無数に並ぶことになるという。

 おそらくこれを動かせない場合、ニイルの命はないだろう。こういった古代王朝で、家臣の生命は王の反掌一つでかき消える燭火でしかない。

 しかしニイルには全く手がかりさえなかった。

 命令の書かれた紙を差し込むのか?それとも、直接額に彫り込む?しかし、どんな言語で書けばいい?そもそも、ただ粘土を焼いただけのものがなぜ動くのか考察する時間さえなかった。

 本来テッド・チャン的物語は、こういった中心的ギミックを考えてから始まるものだが、この物語はおそらく行き当たりばったりでこうなった。

 おそらくこの物語は、すでにやりたいことを終えている。

 テッド・チャン的物語の類型を提示し、それを物語自体がなぞるという構造を体現した後は惰性であり、これから新しい展開は何もない。

 宇宙はエントロピーが最小の状態から始まり、熱的死まで、最初に吹き込まれた秩序を消費し続けるのみなのだ。

「陶工よ。そなたは今、朕の時間を無駄にしておるぞ」

「あわわ……ん?」

 ニイルが自分の横を見やると、華流風の赤い豪奢な衣装を着た女性が、拱手の姿勢でひざまずき、皇帝に拝礼していた。急に現れたオブジェクトなので、長い袖が落下する途中だ。

「お困りのようね、七本脚ニイルくん」

「暮継伊我乃さん。ここで何をしているのですか?」

「前回と同じよ。円城塔病のお兄ちゃんを探しに物語階層を下降しているの。『文字渦』的状況を検知したからここに入ってみたけれど、いたのはまた、あなただけだったというわけ」

「円城塔病は難解なので、そう簡単には発見できませんよ。もっと文字重力の強い深層ではないですか」

「そのようね。でも寄ったからには、この物語を消費しなくては」


 イガノは陶俑のなめらかな表面をなでて言った。

「古代中国風の見た目に囚われては駄目。これはゴーレム伝説ベースのOSTオブジェクトだわ」

「やはりですか。では、伝説通り、額にEMETH(真理)と彫り込めば動き、一文字消してMETH(死)にすれば停止するとかそういうやつですね」

「そうよ。でも、文字はヘブライ語ではなく漢字が必要みたい」

「大変ですね。漢字は多いし、組み合わせは無数にあります」

「漢字は表意文字だから、一つだけで無限に意味を詰め込めるわ。あとは、このテキスト時空が漢字という量子で出来ていることを忘れなければ大丈夫。今回は、時空の最小単位である漢字を扱う理論の中でも、永字八法という書論を使うわ」

 そう言って暮継イガノは硯で墨をすった。

「永字八法とは、陳から隋の時代(六~七世紀)の間に、智栄という名前の僧によって提唱された、量子重力書論の一つよ。一九七一年にロジャー・ペンローズというイギリスの書家によって間架結構法(スピンネットワーク)として精緻化され、三一〇〇年代に王羲之という書聖によって完成された」

「なるほど。いや、ペンローズは書家じゃないですよ」

 ニイルはつっこんだ。他にも色々おかしいところはあったが、そこだけは訂正する必要があるだろう。

 イガノはそれを無視して、宣紙を広げて、筆を構えた。皇帝も興味深そうに見ている中、筆が一つの点を打った。

「こういった大きさを持たない点を、量子重力書論では点画と呼び、線である筆画と区別する。それぞれグラフ理論における節(ノード)と枝(リンク)に相当する用語」

 おそらく基本とされる事柄を説明しながら書き進めていく。途中までだと、小文字の〝i〟のような状態だ。

「次に書く〝><〟のような形は、電子2つが出会って相互作用し別れる様子。つまりこの文字の形自体は、ファインマン・ダイアグラムを表しているの」

〝永〟という文字が完成した。

「永字八法は、漢字の〝永〟という文字には、書道に必要な技法八種がすべて含まれていると主張する。

 八つの技法とは、側(ソク、点)、勒(ロク、横画)、努(ド、縦画)、?(テキ、はね)、策(サク、右上がりの横画)、掠(リャク、左はらい)、啄(タク、短い左はらい)、磔(タク、右はらい)。

 スピンネットワークでは一つの面積に一本の外向きの線を対応させるから、永字八法における八つの技法はその線の引き方、つまり正八面体のそれぞれの面積の取り方に相当する。そのような多面体である漢字で充填されたのが我々のテキスト時空。

 注意すべきは、漢字で出来た座標に物体があるのではなく、漢字の泡状構造が時空間そのものであり、有限の大きさを持った空間の最小単位であること。

 そこに時間という変数はなく、我々が感じる時間の流れとは、書体の変化が簡易化される方向に進む確率が高いことの当然の帰結でしかない」

「なるほどわからん」

 ニイルが言った前で、イガノが書いた永の字のフォントは、甲骨文字から隷書を経て、楷書に変形していった。このバリエーションの順序が、あたかも時間の流れのように見えるということだろうか。

「エクリチュールは時間を持たないが、音韻変化や字体の変化が歴史を内包するということかな」皇帝が合いの手を入れた。

「そのとおりです」イガノは恭しく肯定した。

「……?」

 ニイルはついていけなかったが、「それで、どうやって兵馬俑を動かすんですか?」

「簡単よ。間架結構法を使えばこの宇宙のマークアップ言語を編集できる。例えば、この〈俑〉だけど」

 イガノは背丈より高い陶器の立像である〈俑〉の傍らに立ち、筆を振るった。

〈俑〉は〈イ〉〈甬〉に分解されていた。

「ええ?」

「今は人型だけど、こうすれば」

 イガノは〈イ〉を〈土〉に書き換え、また結合した。その結果、〈埇〉となってしまった立像は、人型を保てなくなり、土塊となって崩れ落ちた。

「ほう」皇帝は身を乗り出した。「伝説通りだな」

「いや、崩壊したら駄目では?」ニイルがつっこんだ。

「いいや、これでよい」皇帝が遮って、「明確な形で、二つの異なる状態を取ることができれば十分なのだ。そして、否定論理積の論理ゲートさえあればな。よくやったぞ、異国の陶工と書家よ。これで朕の軍隊は完成した」

 皇帝はおもむろに立ち上がると、きらびやかな簾を押しのけて、二人の肩を激励の意味叩きながら宮殿の外へと向かった。気づけば外は暗雲が立ち込め、霧がかかっている。

 皇帝は指示用の長剣を抜き放ち、天高く掲げると、猛々しく叫んだ。

「計算陣形!」

 その号令を合図として、霧の中で地響きを伴う、不吉な海嘯のような気配が沸き立った。

「ああ……まさか」ニイルは震え始めた。

 大地にひしめく霧の内包物が、それ自体の活動によって霧を拡散させることで、徐々にその全貌が明らかになった。

 それは、三千万の軍勢だった。ただし、すべて生身の兵士ではなく兵馬俑の。

  三千万の、陶器でできた〈俑〉たちが〈埇〉となって崩れ落ち、動画を巻き戻すように再び〈俑〉として組み上がることを繰り返している。生成と崩壊の時間差が漣となって伝播していく。冷気は、修復の過程で熱力学に逆行することで発生したものだった。

「ああ、なんてことだ。ここは『三体』的宇宙、劉慈欣的物語世界だったのか」

 ニイルは恐怖のあまり膝をついた。この階層はいずれ三体文明に支配されるだろう。

「このような原始的な計算機だけではなく、いずれフェムトマシンを使う恒星間帝国主義。なぜその計算能力を使って、仮想世界で無限の知的充足を得ないのかしら?」

「イーガンならそう言うでしょう。しかし宇宙には、そのような信念を共有しない文明のほうが多いのかもしれない」

「たしかに。わたし達が旅するにつれ、またこのような文明と出会う可能性が高い。混沌とした近未来から、融合世界の遠未来に至るどこかの時点で。いずれこの物語階層の宇宙背景放射は、共形サイクリック宇宙論における一世代前の宇宙を完全に征服したもの――〝皇帝〟を称えるタペストリーに変わるでしょう。わたしたちはその最初の一歩の後押しをしてしまった」

「しかし、宇宙を支配できても物理法則は支配できません。もちろんシミュレーターの中の法則を自由に書き換えることはできます。でも、それは法則ではない。皇帝を走らせている世界には、皇帝には支配されない法則が必ずある。なぜなら、それこそが逆説的に彼の自由意志を保証するからです。……ところでイガノさん、何を?」

 イガノはニイルの背中に崩壊の文字を書いていた。

 ニイルは砂塵となって、その場に崩れ落ちた。ニイルの精神は分解され、ここよりさらに下層にある別の物語で再構成されるだろう。

 イガノは自分にも同じ文字を書きながら言った。

「この世界のどこかに、原理的に理解不能ではない、意味をなす秩序がある。私にはそれで十分よ」


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