宝石の名残り


     1


 私はかれこれ数十年、暮継家の執事を務めてまいりました。その長い歳月の間、今ほど、この家の危機を感じたことはございません。

 元々、暮継家のご当主夫妻は共に多忙な方々で、頻繁に海外出張でお屋敷を留守になさっておいででした。ご両親の不在期間が、兄の李久様、そして妹の伊賀乃様にラノベの主人公的環境を与えていることは否めませんでした。ええ、さよう。決して難解なハードSF的家庭環境ではなかったと存じております。

 それでも、何の因果か、ご兄妹はハードSF的病に苦しめられるようになりました。その責任がご両親には無いことが明らかである以上、一時期は教育係を努めていた、この私にあるのではないかと自問したこともございます。しかし、何度記憶を辿ってみましても、幼少期のご兄妹にラノベや漫画、そして純文学以外の小説――ましてやSF小説を買い与えるなどという不注意はなかったと存じます。どこから感染したのか、正直なところ、私には見当もつかないのでございます。

 とはいえ、高校生ともなられたご兄妹は概ね、上手くやっていたようなのです。兄の李久様が失踪なさるまでは。

 先月のことです。円城塔病が快方に向かうと思われた矢先、重度の酉島伝法病を発症なさった李久様は、数ヶ月下宿に引きこもっておいででした。見かねた伊賀乃お嬢様がお見舞いに向かわれた際、何かしらの不可解な出来事があったようなのです。というのも、ドアを突き破るような物音があったという近隣住民からの通報によって駆けつけた警察が発見したのは、その部屋に横たわる伊賀乃お嬢様、ただ一人だったからなのです。

 それから間もなく、お嬢様も病に臥せることになったということもあり、いなくなった李久様とお嬢様との間に起こったことの顛末は、私にも要を得ないままであります。


 今朝、私が銀食器を磨いていると、正門のベルが来客を告げました。訪れたのは、お嬢様のご学友で、彼は七本脚新留と名乗りました。私は応接間に彼を案内し、暖炉の前に椅子をご用意しました。

「僕は暮継イガノさんには恩があるのです。テッド・チャン病との付き合い方を教えてくれたのは彼女です」

 そう切り出した七本脚様は、お嬢様との面会をご所望されました。しかし私はこれを丁重にお断りすることにしました。

「ご足労頂いたところ誠に申し訳ないのですが、お嬢様にお会いになることはできません、七本脚様。お嬢様の病気は感染性である疑いがございます。身の回りの世話をする十数名の女中や、老い先短い私とは違い、万が一、部外者である貴方様に伝染したとなると、わが主に申し訳が立ちません」

 部外者という言葉で、それとなく彼の置かれた立場というものをほのめかしました。このようにいささか排他的に見える態度も、名家の威厳を維持するためには必要な執事の振る舞いのひとつかと存じます。

 しかし、七本脚様は引き下がりませんでした。

「何の病気なのですか?それが分かれば、会話によって緩解させることが出来るかもしれません。ちょうど彼女が僕にしたように」

 私はお教えすることにしました。彼には手に負えないと気づき、諦めて頂くためです。

「お嬢様の病気は、市川春子病でございます」

「なんですって?いや、まさか。それはありえない。それは漫画家の名前です」

「SF漫画でございます。いや、ファンタジー漫画という声もありますが、分類名ではなく要素としては、両立いたします」

「いえ。SFかどうか、ということではないんです。この疾患は、小説家の名前しか冠することが出来ないんです。この疾患はどうやら、一定密度の文字列を媒体に感染するらしいのですから」

「ですから、危険な新種であり、隔離の必要があると申し上げているのです」

「原理が不明なものをそのまま信じるのはテッド・チャン的ではありません」七本脚様は毅然と言いました。「あなたが病名を同定した根拠をお聞かせください」

 私は自分がテッド・チャン的な真実の探求の展開に巻き込まれていることに気づき、彼をあしらうことを諦めました。

「いいでしょう。しかしそれには、お嬢様の数ヶ月前のご様子から話を始めなければなりません」

 私は出来る限り仔細に渡ってお伝えしようと記憶を辿り、語り始めました。同時に私の胸中には、お嬢様にお仕えした日々の情景がありありと思い出されてまいりました。



     2


 かつては盛大な晩餐会が毎夜のように開かれていた、お屋敷でもっとも広大な宴会室。その中央、一人にはいささか大きすぎる長テーブルで、お嬢様は夕食を召し上がっておられます。給仕としての私は、暖炉や燭台の灯火の届かない陰となった壁際で、いつご用命があっても対応できるよう待機しております。もちろん、孤独なお嬢様の良き聞き手となるのも、私の大切な役目であったと存じます。

「今日は、塵理論空間上のオートヴァースで新しい生命体を発見したわ、スティーブンス」

「さようでございますか」

「宝石人よ。人の形をして、人のように動く宝石が数十体、ブッディストめいた聖職者と一緒に暮らしている島と一面の海以外、何もない惑星を発見したの」

 この頃のお嬢様は、ご自身の読んだ漫画や小説の作品内世界が、ある種の計算機――ハードウェアを持たないが故に無限の計算資源を持つそうです――が演算した仮想空間内に存在する独立した世界だと思っておられたようなのです。さよう、お嬢様は、あらゆる漫画や小説において、それらが誰かが書いた創作物であるという事実を完全に無視しきっていたのです。そのことに気づいたときの私は、何と申し上げてよいか、お嬢様の非実在存在に対する慈愛に心を打たれました。それらの世界の物理法則や、登場するキャラクターの人権について真剣に考えておられるご様子には、ただただ感服申し上げるほかありません。

 このときお嬢様が発見されたという一つの世界のモデルとなった作品こそが、市川春子という作家による『宝石の国』という漫画であろうことは言うまでもございませんでしょう。唐突な引用と思われるかもしれませんが、イーガンの『ぼくになることを』という短編の、思考する装置〈宝石〉からの連想は容易であり、結局のところお嬢様は今でもイーガン病であり、他の病気はすべて二次的に併発したものなのです。

 お嬢様はいささか興奮気味に、その箱庭的世界について語り始めました。

「まず興味を惹いたのは、彼らの鉱物の身体。なぜ石なのに機敏に動くのか?その機構は?動力源は?」

「動きに関しては、構造から推測しづらかったわ。球体関節のようなものがあると思っていたけど、なかった。だからおそらく、原子間の共有結合を転位させながら塑性変形しているのだと思う」

「動力に関しては、結晶内部に不純物のようにして共生する微小生物が光合成によって産生しているという見方が最も素朴だけど、それだけでは足りない。それは微小生物の維持をまかなうだけで、宝石の活動は光を直接使っていると考えられる。前述の塑性変形は、結晶を通して波長変換されたコヒーレント光によって誘起された格子振動が、転位近傍の原子の再配置を制御することで実現されている」

 これらの面倒な考察の奔流を、私は「さようでございますか」「私には、荷が勝ちすぎる問題かと」の組み合わせで乗り切る、ということが連日続きました。

 その仮想世界の状況は、日毎に微妙に変化していくようでしたが、肝心のお嬢様の病状の悪化につながるサインというものを見て取ることは叶わなかったことが悔やまれます。

「その世界には宝石人を含めて、三種の知的生命体が住んでいることがわかったわ。まるで物質の三態を表現しているかのように、固体液体気体が、陸海空に分かれて住んでいる。海の水生人は、定命であり、身体の大半が水分である我々に最も近い。気体人と固体人=宝石人は、我々にとっての死の、エントロピー最大最小の二つの極値におけるあり方を表現している」

「宝石人と気体人の間に発生していた戦争が佳境を迎えたようだわ。気体人は、宝石人にエントロピー最大の状態を与えようとしているのかもしれない。気体人は完全な平衡状態――ブッディストなら涅槃、カルト宇宙終末論者なら熱的死と呼ぶ状態を目指しているのかも」

「最近は結晶と生命の類似について考えているのよ、スティーブンス。散逸過程の中で自己組織化する秩序構造という点で、結晶と生命体は似ている。しかし本来、結晶化には再帰性がない。宝石人の鉱石部分は依然として生物とは呼べず、いわば微小生物にとっての住環境であり、ヤドカリの貝殻のようなもの。それでも、微小生物の個と宝石人の個はシステムとして別であり、宝石人の精神は結晶構造を発振器として利用した光子ニューラルネットワークの中に存在する。それは実際に、再帰的に自己組織化している」

「戦争状態が悪化して、悲劇が起こりつつある。まるで〝クリスタルの夜〟だわ」

「結末が予想できないわ、スティーブンス」

 この頃からです。お嬢様が学校を休まれ、床に臥せりがちになったのは。まるでその異世界の状況と呼応するかのように、衰弱されていきました。

 痛ましいことに、ほとんど昏睡状態となってからのお嬢様は、うわ言のように次のような単語をつぶやくのみでした。

「冬眠」

「ラピスラズリ」

「ゴースト」


 私が話を終えると、黙考した様子で聞いておられた七本脚様は、不意に顔を上げてこう仰いました。

「なるほど、二つわかりました。一つは、あなたがカズオ・イシグロ病であるということ。もう一つは、イガノさんの病気が市川春子病ではないということ」

「失礼。今なんと?」

「まず、あなたがカズオ・イシグロ病であるということから説明します。あなたの喋り方はカズオ・イシグロの『日の名残り』という小説に出てくる、執事スティーブンスのそれの明白な模倣です」

 この指摘は私にとって、いささか心外でした。あらゆる有名な文学賞をチェックしている私ですが、カズオ・イシグロという作家名は聞いたことがありません。とはいえ、この病気にかかると、病名の由来となった作家についての記憶が無くなってしまうということは私も存じておりましたから、やにわに否定するわけにもいきませんでした。

「お言葉ですが、七本脚様。執事というのは、古今東西このような喋り方なのではありますまいか――いささか古風であることは認めますが。口調だけで判断できるものでございましょうか」

「口調だけではありません。あなたはカズオ・イシグロ的技法を用いている」

「技法とは?」

「スティーブンスさん。確認したいのですが、イガノさんは、あなたが挙げた三つ以外に、なにか別の単語を言っていませんでしたか?」

「冬眠、ラピスラズリ、ゴースト。私の記憶が確かなら、それだけだったように存じますが」

「なにか、酉島伝法的な単語はありませんでしたか?」

 酉島伝法。その名前を聞いて、かすかに私の心に陰りが差しました。同時に、思っても見なかったことですが、酉島伝法的と言うほかない幻想的かつ臓物的な造語が、その画数の多い漢字という姿を、顕にしてきました。

「夢喰い虫……薔薇色の脚……腸詰宇宙……」

 たしかに、お嬢様は病に浮かされる中苦しげに、しかしはっきりと、それらの単語を口にしていました。私は、そのことからもたらされる破滅的な結論を遠ざけるため、無意識に、記憶に封をしていたのです。私は、嘘を語っていたのです。そう、このような小説技法を――叙述トリックを、私は知っていました。

「〝信頼できない語り手〟」私は呟いていました。

 七本脚様は、静かに首肯なさいました。

「それでは、やはり酉島伝法病は感染していたのでしょうか?あの日、李久様から」

 狼狽する私を見て、七本脚様はなだめるように言いました。

「心配なさらないでください。イガノさんは酉島伝法病ではありません。市川春子病でもありません。イガノさんは、『山尾悠子病』です」

「山尾悠子……」私は純文学以外に疎く、思い至りませんでした。

「『ラピスラズリ』は、山尾悠子という作家の短編集の名前であり、その表題通り、『青金石』という短編を含みます。〝冬眠〟、〝ゴースト〟は、いずれもその短編集に収録された『閑日』という短編に出てくる単語です。〝腸詰宇宙〟はまた別の短編集に収録されている『遠近法』という作品からの引用です。二人の作家の作品のキーワードの混合かと思われた単語群は、実は全て、一人の作家の作品に含まれていたのです。

 架空の街とそこに棲まう住民達の信じる中世的宇宙論、そしてそれらの崩壊を描くという点で、山尾悠子と酉島伝法は似ていないこともありません。時代が古いのは前者ですが。そして、ラピスラズリ等の単語の一致や、澁澤龍彦の影響という点が、山尾悠子と市川春子との共通点です。

 さらに、『夢の棲む街』における羽根が降り積もる街の情景は円城塔の『墓標天球』を呼び出します。

 これらのことから、おそらくイガノさんは李久さんを探すために円城塔と酉島伝法の語彙を道標に物語階層を探索する過程で、似たキーワードを持つ別の作家の階層に囚われてしまったと推測されます」七本脚様は自身の推理を語り終えました。

「そしてさらに、わたしがそれを誤認してしまった」

「はい」



     3


「空間の曲率は、平行移動によって確かめられるのよ。スティーブンス」

「さようでございますか」

 これも私の記憶です。療養中、お屋敷から抜け出したお嬢様が向かうところと言えば、決まって近くの海辺でした。このときも砂に何かの図を書いておられました。

「ある矢印と、その複製が平行かどうかは、それらを結んで出来る平行四辺形の対角線が、それぞれの中点で交わっていることで確認できる。このように平行線を複製していくときの作図パターンを、シルトの梯子と言うの」

「さようでございますか」

「旅をして、元の位置に戻ってきた矢印が向きを変えていたら、空間が歪曲していることがわかる。ところで次に、予め平行だとわかっているが、長さの異なる二本の線分を端と端で結んだ台形について考える。この対角線の交点はどうなるかしら?」

「この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」

 私はいつものようにあしらいました。私も文章によるシステムでしかないのですから。

「たまには考えてくれないと面白くないわ、スティーブンス。平面上では中心より台形の短い辺寄りに交点が来る。でも、この台形を、奥行方向に遠ざかる長方形だと考えてみて。その視点で見ると、交点は中心で交わっている。訓練されたアニメーターはこれを使ってパースを取るし、取らないと宮崎駿が言う奥行きの圧縮が出来ないことになる。さながら夢の遠近法ね」

「さようでございますか」

 いつのまにか話題が右往左往していて困惑しましたが、なるほど二次元の図やグラフを三次元に見立てることが出来るなら、想定される情報量は限界より多くなるかもしれません。そのようにして、物語の中の物語は、自分を生んだ物語を内包する再帰構造を取るのでしょう。

 お嬢様はそのシルトの梯子を使うことで、物語の中の物語、無数につながるその連鎖構造を渡り歩いても、自己同一性、言い換えるなら一貫性を失わずにいられるのでしょう。

 そして、出発地点に戻ってきても矢印が同じ方向を向いていることを確認することで、行きて帰りし物語として階層全てを束ね、現実世界に戻ってくることが可能だったのでしょう。


「……しかし、私がその梯子を外してしまった」

 私を回想から現在へと呼び戻した私自身の声は、震えていました。

「そう、あなたは物語階層の中にいるイガノさんについて語ることで、その最外層の物語の語り手となっていました。そのあなたが〈信頼できない語り手〉という技法を使ってしまったことで、物語空間に歪曲が生じ、平坦なトーラスだった物語宇宙が非ユークリッド空間になってしまった。結果、イガノさんは出口を見失い、閉じ込められてしまった」

 七本脚様の答えは肯定でした。私の嘘が、お嬢様の病状の原因であることの。

「では私は、どうすればいいのでしょうか?嘘を交えずに語り直せばよいのでしょうか?しかし、そもそも完全に信頼できる語り手など存在し得るのでしょうか?誰しも、自らの心中の独白にすら責任を持つことはできないのではないですか」

「仰るとおりです、スティーブンスさん。真に信頼できる語り手など存在しません。ただ、イガノさんの症例がそれを要請するのです。イガノさんが潜行している物語空間の語り手は、人格的ハードウェアを持たないからです。一度初期状態を与えられると、塵理論空間で決定論的に展開する種類の物語です。

 しかし、心配なさらないでください。トーラス構造である『遠近法』と『堕天の塔』と、テッド・チャンの『バビロンの塔』は位相幾何学的に同一であり、連結させることができます。バビロンの塔も、端まで行くと反対側の端から出てくる、有限だが果てがない構造の宇宙です。このバビロンの塔を、トーラス構造ではなく三次元球面として扱います。三次元球面は、北極と北極、南極と南極同士がくっついた二つの球のような形をしています。これを最外層とします。だから、テッド・チャン病である僕とあなたが話した時点で、イガノさんは自力でループから脱出できているはずです」

「お嬢様は昏睡状態から脱出できている、とおっしゃいましたか?」

「はい。見に行きましょう」


「よくあのいまいましい老いぼれを説得できたわね、七本脚ニイルくん」

 お嬢様は自室のベッドで、上体を起こしておられました。顔色は良いように見受けられました。私は戸口で、七本脚様との会話を見守ることにしました。

「あなたに三階から突き落とされてから、病院で脊髄に注入されたアンプルKのおかげですよ。あのおかげで、くらやみの速さがどれくらいかも理解できるようになりました」

「アルジャーノンでもルーシーでもリミットレスでもフェノミナンでもないのね」お嬢様が挙げたそれらは全て主人公が超知性を持ってしまう映画の題名でした。「ところで一つ気になるのだけれど、この病気は自分の病名を自覚できないはず。でもあなたはテッド・チャン病なのに、テッド・チャン作品に言及できた。なぜあなたは例外なの?」

「アンプルKのおかげで僕の自己認識はメタ自己記述というべきものに変容しているのでメタ言語をもって自分のメタ精神活動のメタ状態をメタれるからです」

「わかるわ。メタわかりみを感じる」

 過剰にメタ的であること以外においては高校生らしい談笑を聞くにつれ、私の目に涙が浮かんでまいりました。

 突然、私の心の中で、遠い昔に無くしたと思っていた大切な何かが、思いがけず戻ってきたような感覚が沸き起こりました。それは、ある名前も忘れてしまった小説から引用するなら、〝まるで落とした宝石でも捜しているかのように〟注意深く方向を確かめながら歩かなければ、見つからないものなのかもしれません。

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