無勤の徒
暮継イガノは寂れたアパートの一室のドアをノックして言った。
「いるんでしょ?生物学的お兄ちゃん」
ここで言う〝生物学的〟とは、兄妹間の遺伝的な近縁関係のことではない。イガノのように最初から仮想空間で生まれた生まれながらのソフトウェア知性にとって、挙動を生物学的な概略としてしか記述できない、複雑系である生身の脳を持った兄――暮継李久のことは、そう呼ぶしかないのだ。あるいは、生物学的な制約を課せられた不自由な存在のことを。
ちなみに、〝文系〟という用語も、理系の対義語としての学問分野またはそこに属する人のことではなく、物理系(physical system)の対義語としての文によるシステム(textual system)のことを言っている。イガノ達のような存在は、名付けられることによって環境と分節された領域を持つ文章からなる系なのだ。系内のエネルギーの総量は保存される。
ややあって、扉の向こうから兄がくぐもった声で応答してきた。しかしその内容は、要を得ないものだった。
「訪問解体者ですか?帰ってください。午前中までに、この
最近兄はおかしい、とイガノは思う。彼は自分のことを、〝会社〟と呼ばれる孤立した施設で、謎の肉塊や異形の生命体に囲まれながら、〝社長〟なる不定形で半透明の、不気味な大型生物に使役されていると思いこんでいる。
「少し話をしたいから、入れてくれない?」イガノは扉越しに言った。
「駄目です。ああ、社長が帰ってきた。社長、
意味を成さない未知の語彙を、まるで複数の人間が呟いているようだったが、実際には兄の一人芝居だとイガノは知っていた。
「聞いて、生物学的お兄ちゃん。わたしは生物学的お兄ちゃんの生化学的な不均衡によって生じた各種のパラノイアについて神経生理学的見解を持ち合わせていないわ。だから、お兄ちゃんだけに見えているその奇妙な生物達のことには何も言わない。でも、就職してないのに自分のことを社畜だと思っているのは、二重に不幸だと思う」
「〝わたし〟?」扉の向こうの兄は、急に不機嫌な声になって言った。「〝わたし〟という名前で呼ばれるのは、ここにいる〝わたし〟だけです。訪問解体者は別の名前を名乗って頂きたい」
兄はもはや、一人称を三人称としてしか認識できないようだった。これは重症だ。
「わたしは訪問解体者ではないわ。生物学的お兄ちゃん」イガノは、兄の人称的混乱を無視して続けた。
「わたしは、過去にあなた自身がポリスに移入してから、〈創出〉プログラムがあなたと同じ精神種子を元に、ランダムな変異を加えて生んだ部分的妹よ。今は、このグレイズナーボディの中で実行されているけど、一時間ごとのスナップショットがバックアップとしてポリス内で停止されている」
イガノは髪をかき上げながらシャフ度を形成したが、グレイズナーロボットはその外見が不変主義者の中にあっても最も古典的な人間として通るほど、巧妙に偽装されていた。
兄は突然、要を得た様子で話し始めた。
「つまりあなたは、〈世界〉から来た出戻りなのですか?ということは、〈外回り〉が近くに来ている?社長を〈
会話が通じているのか一見あやしいが、案外通じている。兄の言う〈世界〉も、イガノの言う〈ポリス〉も、等しくコンピュータ上の仮想世界のことを指す。〈外回り〉とは、そのハードウェアの在処だ。
おそらく兄は、全ての語彙を独自の造語に書き換えることに快楽を感じる価値ソフトを使用してしまったのだろう。その副作用として、視覚野までが既に接続されていないライブラリの身体的なゲシュタルト・アイコン群への偽のリファレンスをを要求してしまい、フィードバックとして奇妙な有機物を幻視するに至る。
この症状は、〝酉島伝法病〟と呼ばれる。
この価値ソフトは、その価値観を否定するあらゆる内的反証を否認する。要するに、自分で思索しているだけではソフト使用以前の価値観に戻ることはできない。
ならばイガノがするべきことは、それらの語彙の翻訳ということになる。兄の使う奇妙な単語を一つずつ置換していくことで、ライブラリに対する正常なリファレンスを回復させるのだ。兄をこの独我論的牢獄から解放するために。
兄は言った。
「しかしわたしは、まだ
兌換登録とは、肉体を捨ててソフトウェア生命として生きることだろう。イガノはそれをイーガンの言葉に直した。
「移入のことなら、心配しないで。ガンマ線バーストが地球に直撃しない限り、ポリスは肉体人を無理に移入させることはない」
イガノはイーガンの言葉で、兄は酉島伝法の言葉で話し続ける。この奇妙な状況を一般的市民が見たら、異星生物同士のファーストコンタクトだと思うだろう。
「まさか、羹拓が終わって、
兄が悲壮感を露わにして沈黙した後、イガノは安堵させるように少し笑いを含みながら言った。
「大丈夫。恒星間を旅してテラフォーミングをして回るような成熟した文明が、〝奴隷制〟なんていう古代地球の風習を採用するなんてことはありえない。現にポリスやグレイズナーの社会では、この千年間で一度も住民の意に反した労役は課されていない」
「ここで採用されているんですが……」
「そんな蛮行は、もはや想像することすら出来ないわ」
「……」
兄は黙り込んだ。自身が生物学的な要請に支配された、自己増殖と惑星改造だけを目的とする存在ではないことに気づいたのだろう。とイガノが安心したのも束の間、兄は言った。
「
全然効いてなかった。そしてイガノは気づいた。「今のは……」
新造語だ。今までは単に酉島伝法から引用された単語だったが、命名パターンを真似たオリジナルの語彙を作り始めている。しかも、イーガンのジャーゴンを取り込む形で。わたしが翻訳するつもりが、逆翻訳されている。
イガノは自身の見通しが甘かったことに気づいた。翻訳とは単語同士の一対一対応に終始するものではなく、まさに生物のように有機的な作業なのである。一般的に翻訳は、単に二つの確立した、完成された言語の間の仲介役と見なされている。しかし本来翻訳とは、むしろ言語同士の摩擦と不完全性の中から新たな言語を生成させる行為だったのだ。イディッシュやピジン、クレオールのような新しい言語が、民族離散――ディアスポラを経験した民によって産出されたように。
「ディアスポラ……」
造語とは言語による記号的な抑圧に対抗し、名付けることで自身を播種するものだったのだ。イガノは戦慄した。私達は何を作り出してしまったのだろう。
「我々も
ただでさえ難解なイーガン用語を、さらに異常難読語彙に変換されてしまってはたまらない。
イガノは頭がおかしくなる前に対処することにした。
「ごめん、お兄ちゃん」
イガノはドアを蹴り破って、鞄から拳銃状の装置を取り出した。移入ナノウェアの射出装置だ。このナノウェアは、兄の肉体の構成物の全てを分解してエネルギーとして消費しながら、脳神経のコネクトームの可能な限り詳細なマップを走査して、ポリスが読むことの出来るデータの入った勾玉として結晶化させるだろう。つまり、兄を再度データ生命の形に戻すのだ。
イガノは銃を構え、矩形に縁取られた闇に向かって言った。
「よい移相夢を。お兄ちゃん」
■
僕のこめかみには弾丸が埋まっていて、家の床にはフロイトが埋まっている。
いくら播種という儀式だからといって、何でもかんでも埋めてしまえば芽を出すってことにはならないだろう。でも問題は、そんな種類の常識を妹が持ち合わせていたとは思えないってことだ。
弾丸は僕の頭の中で無事発芽し急速に成長中で、脳を分解しながら致命的な構造を読み取って、もっと安定な物質の配列として保存していく。とはいえ、その頭蓋の中に僕はいない。僕は造語に自身をコードして物語の下層に撒いてしまったから。
僕にだって計画のひとつくらいあるんだ、と頭の上半分を分解されながら優雅に倒れていく僕の口が嘯いて、あの妹を少しばかり当惑させる。計画はあるけどその中身は忘れてしまったと言う前に口も分解される。
妹が物語外から啓示を受けた男の子を窓から突き落としたとか、引きこもった兄の脳天に鉛玉をぶち込んだとか、そう見えることは全然問題じゃない。問題はそれが問題じゃないってところにあって、妹が最初からここを物語だと見做してるってことにある。
ここで出会ってしまっても良かったんじゃないかと、あとから僕が後悔するに決まってるってことにも。
なぜなら、僕らは難解さに引き寄せられていくのだから。否応なしに、たとえ真っすぐ歩いているつもりでも、わずかに僕らはふらついていて、そのせいで時空構造の網目が稠密な方向に確率的に吸い寄せられていく。分岐し続けることでどこかで合流する、大抵のボーイ・ミーツ・ガールと呼ばれるお話がそうであるように。
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