room


 四畳半程の薄暗い室内には、強い臭気が充満していた。呼吸をする度に胃から逆流する液体が喉を焼く。俺は、目覚めてから僅か数回の呼吸を繰り返しただけで、術もなく噴き出す吐瀉物を床に撒き散らした。


「初めから、クソみたいな場所だ。気にするな」


 壁に備え付けられた二段ベッドの上から白髪の男が言うのがチラリと視界の端に入った。俺は、その下段に設置されているベッドに腰を降ろして浅い呼吸を繰り返し息を整えた。


「ここは……」


「喋ると、また吐いちまうぜ。俺も初めはそうだった。暫くは、おとなしく寝てなよ」


 俺の問いに、白髪の男が答える。頷いて、辺りを見回す。乳白色の壁で囲まれた室内。良く見ると、壁の四隅はカビで緑や赤に変色している。ベッドの脇には鋼鉄製の扉があるが内側からの取手は外されていて、開けることは出来そうに無い。扉の中央には、何かを差し入れる為だろうか、郵便受けの隙間を少し大きくしたような穴が作られている。扉の他には、コンクリートの床に穴を穿っただけの便所がベッドから一番遠くなる場所にある。一見して、それと判断できるのは飛散した排泄物が穴の周囲に付着しているからだ。それ以外のもので、俺の意識に引っ掛かる物は存在しない。


「俺は、林田優一。優一は、優しい方の優一だ。アンタが誰でも関係無いけどよ。同じ豚小屋になったんだからよ、仲良くしてやるよ」


 俺は頷いて木田を見上げたが、恐らくベッドに横になっているのだろう。木田の姿は下からは見えない。


「先ずは、ここのルールだ。朝、飯が出る。昼、飯が出る。夜、飯が出る。それを、残さず食べる。残せば監守から電流棒で教育される。俺達は毎日、残さず食べて寝る。それが、ここのルールだ。簡単だろ?」


「何だ、それは?」


 言ってから、臭気にむせかえる。


「だから、暫くは無理だって」


 木田が笑いながら言う。俺は、なるべく息を吸い込まないようにしながら、もう一度訊いた。


「ここは、何だ?」


「分かんねーよ。俺は、ここから出た事は殆んど無いしな」


「殆んど?」


「あぁ、出たい奴は監守に言えば運動場に出れる。俺は、二、三回しか出たことないが出たい奴は運動場になら出れる」


「なぜ出ない?」


「あそこは、異常だ。あそこに出入りする奴も異常だ。それに、たらふく食って寝てりゃ良いんだぜ? それ以外に何が必要なんだよ?」


 それじゃ家畜と同じだ。頭には浮かんだが言葉にはしなかった。


「俺と同じく連れてこられた男はどうなった?」


「誰だ、それ?」


「ガッチリとした体躯の眼光の鋭い男の人だ」


「知らないね。知りたいなら、もう直ぐ昼飯だ。監守に聞けば分かるさ」


「そうするよ」


 言って、自分が目覚めた時に感じた嘔吐感を然程感じていないことに驚く。臭いを感じない訳ではない。だが確実に、その臭いに反応していた何かが変化している。変化が俺にとって良い事なのか悪い事なのかは分からない。ただ、俺の感覚は恐ろしい速さで変化している。


「誰か来る」


 俺は呟いた。扉の向こう側に続く廊下の奥で、数人の人間が動き回る気配を感じたのだ。


「時間通りだよ。飯だ、飯!」


 木田が叫ぶように言ってベッドから降りてくる。声と微かに見えた頭部から想像していたのとは違い、木田の身体は酷く大きく肥満体だ。


「飯だ! 飯だ!」


 木田が騒いでいると、扉に開けられた隙間から食事が押し込まれた。どんぶり碗に山盛りの米。その上に何か見たこともない緑の液体が掛けられている。木田はそれを受け取ると、添えられたスプーンも使わずに、どんぶりに顔を突っ込み貪るようにそれを食べ始めた。


「お前の飯だ」


 扉の向こうで声がして、僕は扉にへばりついた。


「出してくれ! 運動場に行かせてくれ!」


 俺は扉を叩いて叫んだ。


「駄目だ。行きたいなら明日にしろ」


「なぜだ?」


「今日の解放時間は後少しで終わる」


 俺の問いに答える声は落ち着いていて、決して威圧的ではない。


「お願いだ。ここは酷い臭いがする。少しだけでも良いんだ。運動場に行かせてくれ」


 俺は、再度扉を叩いて叫んだ。


「それなら、飯を直ぐに食べ終えろ」


 俺は受け取ったどんぶりに視線を落とす。見た目に美味さを感じることは無いが、身体はそれを欲していた。俺は警戒もせずに中身を掻き込む。


 空に成った碗を隙間に戻すと扉が開いた。

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