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地図に示されていた鹿野山には日暮れ前に辿り着く予定だった。
だが、辺りは既に暗闇に包まれていて鎌で切り開いた僅かな隙間を縫って進むのは限界に来ていた。
「腹へったよ」
梶尾が、へたり込むように倒木の上に腰を降ろした。
「俺もだ」
濱名も同じように腰を降ろす。
言葉は発しなかったが、俺も濱名と同じように力無く座り込んだ。
「食い物ではないが、飲むか?」
俺は尻ポケットに持っていたウイスキーの小瓶を一口含んでから濱名に渡した。
濱名と梶尾が順にそれを回し飲む。
それから、俺は同じように噛み煙草を濱名と梶尾に渡した。
自分達が居た坑道検問所の灯りが、かなり遠くに見える。だが、肉眼で灯りを確認出来るという事は、想像していたよりも距離を稼いでいない事を裏付けてもいた。
「こんなに綺麗なのにね」
梶尾が空を見上げて呟いた。
俺と濱名もつられて見上げる。
無数の星が美しく瞬いている。
梶尾の短い言葉が物語るように、汚染さえなければ美しい夜空を毎夜見上げる事も出来る。
「あぁ、綺麗だ」
美しいものに無条件で惹かれるのは人間の証なのかも知れない。
俺は、誰にともなく呟いた。
「いつから、陸は汚染されたの?」
梶尾が夜空を見上げたまま訊いた。
「いつから、だろうな……」
俺も二人と同じように空に視線を向けたまま答えた。が、俺はそれを知っていた。
始まりは、コロンビア大学の研究者が発表したトウモロコシの育成に必要な農薬に含まれるアトラジンと呼ばれる成分が、カエルなどの小動物を雌雄同体に変えるという論文からだった。
そして、その研究が導いた結果は恐ろしいものだった。
それまでの概念では、大量の農薬を使う事で薬害は発生すると考えられてきた。それ故、有害物質などは少量で済ませられるなら、その方が環境に優しいと刷り込まれていた。
だが、研究の結果は濃度の濃い薬品が与えられたカエルよりも、濃度の薄い薬品が与えられたカエルの方が雌雄同体に変化しやすいという事実だった。
人間は、環境の為に色々なものを薄めて廃棄してきた。しかし、それは逆に環境に大きなダメージを残すことになった。
この研究をうけて、世界中で生物がどのようなダメージを受けているのか。また、受ける可能性が有るのかが、盛んに研究されるように成った。
そして、地球上は既に濃度の違う有害科学部質のカクテル状態にあり、人間が生存し続ける事が難しい状態に有ることが判明した。
一番の原因としては、やはり人間自体が生み出した産業による有害物質や廃棄物だが、宇宙線や二次宇宙線のように人間のコントロール出来ない事の影響も軽視出来ないところまで来ていた。
そして、人間は地表を捨てることを決断、実行した。
「でもよ……先進国が地中や海中に逃げ込んだのは分かるけどよ。逃げる事の出来なかった貧乏な国の奴らはどうしてんだろうな……やっぱり、全滅しちまったのか? 人間て、そんな簡単に死ぬのか?」
濱名が呟く。
俺は濱名に向き直った。
「死んでる筈なんてない。 人は、人が考えるより強い筈だ」
俺の言葉に濱名は答えなかった。だが、濱名が何を思い言葉を発したのかは理解しているつもりだ。
少しだけ目を閉じるつもりだったが直ぐに強烈な睡魔に襲われて、俺は深い眠りについた。
「団地だ! 団地がある!」
次の朝、梶尾が山の斜面を転がるように降りて来ながら叫んだ。
俺と濱名は顔を見合わせて梶尾の所へ駆け寄る。
「本当か? 本当に団地があるのか?」
濱名が息を切らす梶尾に構わず詰め寄る。
「靄が掛かってて、ハッキリとは見えなかったけど、あれは人間が造ったヤツだよ」
「人間が造ったって、俺達の坑道も人間様が造ったものだろ? 本当に団地か?」
必死に息を整え、俺達に見てきたものを伝えようとする梶尾に追い討ちを掛ける濱名。
俺はウイスキーの空瓶に溜めた朝露を梶尾に差し出した。
「ゆっくりと話せ」
「分かってる」
梶尾は、そう言ってウイスキーの瓶を引ったくるように奪うと一気に飲み干した。
「少し登ると、平らな土地がある。そこから建物が見える。でかいヤツだよ。その周りにも家が沢山ある。人も見えたし家畜も居る」
「家畜? 牛とか、豚か?」
「分からない。でも……人ではないのも居た」
梶尾は、俺の問いに呼吸を整えながら答えた。落ち着いている。先程迄の動揺を、全く感じさせない程に梶尾は冷静さを取り戻していた。
「とにかく、行ってみてから考えるよりないだろ」
濱名が言った。
「確かに、そうだね」
俺は、それに同意した。
梶尾の見たものがなんであれ、人工的に造られたものが坑道よりも上に存在している事が気になったが、その理由が俺に分かる筈もない。
今、出来る事はそれを実際に自分の目で確認する事だ。
それから、次の行動を考えるより他はない。
「上に行こう。直ぐそこだ」
梶尾が山の頂を指差す。
濱名は、そのその方角を見て何度も頷いていた。
「山頂に……あるのか?」
俺は些細な疑問を口にした。
「……山頂? あぁ、そうだよ」
梶尾の答えは奇妙な間を持っている。
「それなら、行こう」
濱名が急かすように言って、梶尾を先頭に濱名、俺と続いて獣道のような場所を這うように登った。
「遅れるなよ」
梶尾は振り返って言ったが、俺達二人に、梶尾のような身のこなしは出来ない。
ジリジリと俺達と梶尾の差は開いて行く。
十分もしない内に梶尾の背中は見えなくなっていた。
「山頂にあるの?」
俺は濱名の背中に問い掛けた。
「知らねーよ。でも、アイツがそう言ってんだから、そうなんだろ」
濱名が息をあらげながら答える。
「梶尾が、見えるか?」
「見えないよ。なんで? 寂しくなったのか? 」
「下らん事は言うな」
俺達は肩で息をしながら這い進む。
全身の筋肉が軋んでギリギリと錆びたゼンマイのような音を発しているような気がした。
「ハマちゃん。梶尾とは、どんな関係なんだ?」
「なんだよ急に」
「いや、なぜ梶尾を計画に引き入れたのかが気になっただけさ」
少しずつ登っているような気もするが同じ場所を、ただ這っているような気もする。
意識を山を登るという苦行から逸らしたかった。
「梶尾が入れてくれって言ってきたんだ」
「ハマちゃんが誘ったんじゃないのか?」
「違うよ。本当は、若い奴を危険な場所に引っ張り出すのは好きじゃない。アイツが自分から来たんだ」
「そうか……」
言って、俺は濱名の大きく逞しい背中を見詰めた。
ハッキリとは言わないが濱名は陸で生活していた頃、刑事として殺人などを主に扱っていたらしい。
だが、坑の生活に移ってからは時計を修理する日々を送っている。
希望すれば、違う職の割当てがあっただろうが、坑の中でも地味な職業を選んだのは、家族を見付け出す時間が欲しかったからかも知れない。
または、刑事の経験を生かして時間を掛ければ、家族を探し出す事が出来ると考えたのかも知れない。
実際に、濱名は昔のコネを使って今でも民間人には閲覧禁止に成っている筈の坑道住民登録名簿を調べている。
「娘と同じくらいの歳なんだよ」
濱名が苦しそうに言った。
俺の手足も感覚が失われそうだ。
「少しだけ休むか?」
俺は濱名の背中に訊ねたが、濱名は答えない。
「俺も梶尾が、息子にダブる時がある」
言いながら足に力を込める。
自分の身体的能力の限界を感じる。この先、どれ程登れば頂上に辿り着くことが出来るのだろう。
「アイツが、入れてくれって来たときは驚いたけど。本当に行きたいなら、それも良いかも知れないって思えたんだ」
「そうか、なんにしても梶尾は凄い奴だ」
俺は、答えてから獣道の先に目を凝らした。
少し先で、梶尾が止まって手を振っていた。
あそこまで、どのくらいの時間が掛かるのかと想像して気が遠くなった。
確かに少し開けた場所に梶尾は立っていた。
だが、梶尾の他にも数人の若者が銃を手に、ニヤニヤとこちらの様子を窺いながら立っている。
「こりゃまた、手厚い歓迎だな梶尾」
言いながら、濱名は梶尾に詰め寄ろうとしたが、銃を構えた若者に肩を押されてへたり込むようにその場に倒れた。
「疲労困憊なんだよ。年寄りには優しくするもんだぞ」
濱名は梶尾を睨めつけながら言ったが、その語気に迫力など微塵も無かった。
「説明してくれ」
倒れたままの格好で、俺も梶尾を睨む。
「確かに。説明してくれなければ、意味が分からん」
濱名も言ってその場に腰を降ろした。
多勢に無勢。ここで歯向かっても結果は決まっている。
「説明か……それは、出来ないよ」
梶尾は言うと、取り巻きの数人に視線で合図する。
それをきっかけに若い男達が俺達を取り囲む円を、一気に狭める。
「喜一郎。俺は二人ならイケる」
濱名が膝に手をついて立ち上がる。
「ハマちゃん。僕は一人でも大変だ」
俺も立ち上がって濱名と背中合わせに若い男達との距離を取る。
だが、勝ち目が無いのは明らかだ。
「二人とも、怖い顔しないでよ。怪我させたくないしね」
梶尾が微笑みながらロープを差し出す。
自ら囚われの身になれと言うのだ。
「梶尾ーーー!」
濱名が唸るように言って梶尾に飛び掛かる。右手の拳を、大きく振り上げ突き出す。だが、あっさりと梶尾はそれを避けて濱名の足を掬うように足払いする。土煙を上げて豪快に濱名の身体がつんのめる。
「ハマちゃん!」
俺は叫んだが、身体は動かない。
「濱名さん……本当に怪我するから」
梶尾が言って男達に頷く。
直ぐに濱名は取り押さえられ特殊警棒のようなもので数回、腹部を殴られた。
もがきながら呻いて動かなくなる。
「喜一郎さんも、おとなしくしないと同じような目にあうよ」
梶尾は薄く笑いながら言った。
「良いよ……俺は、お前らに勝てる自信が丸きりない。ただ、一つだけ教えてくれ。俺達は、あの坑道に連れ戻されるのか?」
俺は、ひざまずきながら訊いた。
「悪いけど、あそこへは帰らない。俺も、喜一郎さんも、濱名さんも、やるべき事をやる。それだけだよ」
「やるべき事?」
「今は、まだ言えない」
梶尾は、それだけ言うと僕の背後に回り込んだ男に視線で合図した。
酷い激痛が首もとに走って、俺は意識を失った。
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