CAVE 2

 昨日までの豪雨が、嘘のような快晴だった。

 

 地中に暮らすようになった人間は、それまで使っていなかった感覚が発達したと言われている。人によって個人差はあるものの、大半が聴覚。その残りを触覚、味覚、嗅覚、視覚の順に分けているらしい。


 でも、それ以外にも著しく発達した感覚があると香織は言っていたが、それが何なのかを詳しく訊いたことはなかった。


 突然、坑生活を始めた奴等とは違い。俺達は、電気が遮断された事も生まれてから今まで一度も無い、物心着いたときから坑の外で行われていることは音で確認出来るのは当たり前のことだ。最近は、坑の時計造りの作業を坑道の奥でしていも、雨の強さや風の強さがある程度分かる。


 数日前から続いていた雨は、台風クラスの豪雨に違いなかった。 


「雨でも良かったのに」


 濱名が連れてきた年少隊の梶尾健児が、眩しそうに空を睨み付ける。


 それにつられるように、俺も空を見上げる。雲の無い空の青が何か異様に遠くまで澄んでいて、地球が抱き込んでいる大気の層が無限に続いているような錯覚を覚えた。


 俺は坑道の出入口に設けられた検問所の衛兵に発行されたばかりの収穫許可書を示しす。


「三人での収穫か?」


 衛兵が、順に俺達三人を見詰める。


「はい、大根と芋の収穫で重量が有りますので、後から申請数を増やしました。」


 俺が答えると、衛兵は小さく頷き手にしていたライフルを肩に掛け直して書類に目を通す。


「アンタら、芋は食べるかい?」


 濱名が衛兵の目の前に、前回収穫した芋が入った袋を差し出す。検問所の衛兵は苦笑して、外に居た若い兵に顎でゲートを開くように促した。


「午後五時が、閉門の時間だ。遅れるな」


 若い兵がゲートを開きながら言う。俺は笑顔で、それに答えた。炭鉱の入り口がポカンと間抜けな口を開いているのを、振り返りながら確認する。何度見ても馴染む事の無い風景だ。


「これから、どうする?」


 梶尾が我慢出来ないといった表情で訊ねてくる。


「まだ、アイツらから見えてる。自然に歩き続けて」


 俺は、担いだ鍬と鎌の柄を握り直した。


 計画は酷く単純で杜撰なものだった。畑は、衛兵の監視小屋から少し離れた場所にある。俺達は衛兵が見ていない隙をついて近くの雑木林に駆け込み、そこから歩いて市街地跡迄辿り着く。そして、本当に地表が浄化されていないのか、人間が人間らしい生活が出来ないのかを確認する。


 途中、衛兵に発見された時や坑道に帰る時は野うさぎを見つけて追い掛けた結果。山に迷い込んだと答える事にしていた。


「でもよ、喜一郎が脱坑に賛成してくれるなんて考えてなかったよ」


 濱名が猫車を押しながら呟く。荷台の上で農具がガチャガチャと忙しない音を発てている。


「脱坑とは違う。逃げる訳ではないし、俺達は坑に帰って来る」


「そうだよ、俺達は確かめに行くだけだよ」


 俺の言葉を継いだ梶尾が、濱名の肩をポンポンッと数回叩いた。


「黙れ! お前は何も分かってやしない!」


 濱名が猫車を投げ出し、梶尾の襟元を握り締める。


「ハマちゃん。まだ、監視小屋から見える場所だよ」


 俺が言うと、濱名は渋々手を離し猫車を立て直した。


「喜一郎には、家族が居るんだ。好き勝手出来る俺達とは違う。守るべきものが、あの坑の中に居るんだよ!」


 怒鳴るように吐き捨てると、濱名は俺と梶尾の手前を怒りに任せて進んで行く。


 濱名が叫んだように、俺には家族がいる。だが、その家族は崩壊寸前だった。長男の隆夫は、数年前から土竜病と言う病気と闘っている。日光を浴びない生活に必要なのはビタミンDの摂取だが、隆夫の体質は人工的なそれを受け付けない。結果、定期的な日光浴が必要になるが、政府が許可する範囲内では到底足りない。隆夫は日々細くなる骨を無理矢理にギブスでサポートしている。そして、それも近頃では限界だ。既に、助骨は内蔵の重みにさえ耐えられない所に来ている。妻の香織は、その事を悲観して心を病み。自らの手首を切って自殺を試みている。


 俺は、家族を守るために坑道を出る。そして、太陽の光の下に隆夫と家族を連れ出したいのだ。


「んだよ……」


 梶尾が口を尖らせる。坑内の治安を守る年少隊と言っても、齢十七。何も知らないのと変わりはない。


「ハマちゃんは、家族を失なっているんだ。だから……」


「知ってるよ」


 俺の言葉に被せて梶尾が言った。梶尾は自分なりの答えを探して今回の行動に参加しているのだと、俺にもそれは分かっていた。若さだけの虚栄心や興味本意では無い、何か。


 でも、今それを確かめる事はしたくない。俺は、ゆっくりと濱名の背中を追い掛けた。






「そろそろ……」


 畑に到着してある程度の作業を行ってから、濱名が言った。


 腕を振り、俺と梶尾に合図を送る。


 俺は、ゆっくりと監視小屋の方へ視線を投げた。三百メートル程の距離があるので小屋の中から、こちらの様子を窺っているのかは判断出来ない。だが、小屋の外に衛兵が居る気配は無い。


 俺は、梶尾に顎で雑木林に駆け込むように促した。


「お先に!」


 梶尾は素早く鎌をベルトの腰部に捩じ込むと、全速力で駆け出した。偽装の為に耕した畑の土に足をとられるでもなくスムーズに駆けていく梶尾の姿は、野性の鹿を連想させた。若く警戒心の強い賢い鹿だ。


 俺は呆然と、その鹿を眺めた。美しい筋肉が生み出す躍動的な跳躍。そして、自分の番が来た時に同じような動作が出来るかと怖くなった。


「喜一郎! 俺も良いか?」


 梶尾が雑木林に辿り着く手前で濱名が叫んだ。俺は、右手を差し出してそれを制した。蟻の行動も、一匹単位なら何をしたいのか判別するのは難しい。だが、群れた蟻の行列がどの餌に向かっているのかは誰にでも判断出来る。俺達は蟻では無いが、監視小屋から覗く連中に分かりやすく行動してやる必要は無い。


「良いぞ! 着いたぞ!」


 雑木林で梶尾の声が響いた。


「よしゃっ!」


 掛け声と共に、濱名が駆け出す。梶尾のそれとは違い、耕した土と畦の両方に足をとられてまごつく。それでも、力でその土を蹴り避けて進む。梶尾の数倍の時間を掛けて、梶尾の半分の距離を駆ける。まるで、雑木林を掴み取るように右手を差し出して、倒れそうな体制のまま駆けて行く。


 後暫くで、濱名が雑木林に辿り着くというタイミングで俺も駆け出した。鎌を腰のベルトに挟み込む事も忘れて、右手にそれを握り締めたまま全身の筋力を総動員して足を踏み出す。


「右! 左! 右! 左!」


 テンポを崩さぬように叫びながら交互に足を踏み出す。めり込んだ逆の足を引き抜く。太股に淡い熱を感じ始めた時に、パラパラと米粒をテーブルに撒くような連続した音が遠くで聴こえた。


 そして、一瞬の間を置いて足元の土が弾ける。


 直ぐに、その音が発せられている場所の検討は着いたが止まって振り向く事など出来ない。出来るのは不様に畑の土に絡み付く足を交互に動かし続ける事だけだ。


「急げ! 喜一郎!」


 梶尾が怒鳴る声が聞こえた。


「喜一郎!」


 濱名が叫ぶ声が聞こえた。


 チッュン! チッャ! と、非現実的な音を発しながら何かが目の前をかすめて行く。そして、スローモーションのように円を描いて畑の土が弾ける。

 呼吸は完全に乱れて、吸っているのか吐いているのかの自覚さえない。ただ、必死に右、左と叫びながら足を前に突き出す。手足の動きが、脳からの指令を拒否して、呼吸が完全に停止しそうになった時に、雑木林の端に目印としていた腰の低い樹木が視界に飛び込んで来た。


 俺は、口を大きく開けて自分自身でも理解出来ない何かを叫んだが、それが言葉と成り意味を持つ事は無い。


「喜一郎!」


 もう一度、濱名が怒鳴る声が聞こえた。




 

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