仮題 【 SOLID 】

@carifa

CAVE 1 


 6月の雨期が終われば、栽培している大根や芋などを収穫に向かえるかも知れない。


 俺は配給されたばかりの噛み煙草を口に含み唾液で丹念にそれを柔らかくした後で、ゆっくりと噛み締めた。唾液によって分解されたニコチンと石灰とが生み出す独特の苦味が、舌全体をピリピリと刺激する。


 香織が言うには、健康に著しい影響を与える噛み煙草のようなものの規制が次々に寛容になっているのは徴兵制度の年齢を引き下げる為の口実らしいが、難しい事は分からない。ただ、分からなくても配給があればそれを使用する。それは、当然の事だと思う。


 口内に溜まった唾液を床に吐き捨ててから作業台横の壁にある日捲りカレンダーを一枚破り、丸めた屑を部屋の隅に置かれた屑箱に投げる。淡い放物線を描いて飛んだそれは屑箱の丸い縁に当たって土間を転がる。


 それを拾い上げて、工事班長の濱名仁が屑箱に静かに入れる。


「喜一郎は、芋やったかね?」


 一坪程の湿度の高い空間。向かい合うように設置された作業台の向かいに腰を降ろし、照明に照らされた小さな部品を腕時計の中に填めるピンセットを握りながら濱名が訊ねる。許可制になっている農業の事だ。

 

 年齢は、俺よりもかなり上だが腕時計の作業しかしていない事を考えると、当局に不都合な何かがあるのかも知れない。片目には、頬の筋肉と瞼で器用にコンパクトサイズの拡大鏡が挟まれていて、顔上の正しい位置に収まっている。


「ハマちゃんも、芋の方が良いだろ?」


「そりゃ、日持ちした方が良いに決まってる」


 俺の問に、濱名は作業台に向けた顔を上げることも無く答えた。


 頷いてから、腕時計のベルトになるヒキガエルの皮を重ねて縫い合わせる。


 十年も同じ作業に関われば、言葉を交わしながらでも充分に精度が保てるくらいの技術は身に付く。それに、多少見栄えが悪くても時計の価値が落ちる訳ではない。坑道生活で重視されるのは機能性であって、装飾的な価値では無い。


「陸には、いつ?」


 濱名が拡大鏡の前で取り外した部品を、交互に裏返し欠損の有無を確認しながら訊ねた。


「五月の初めだったから、一月以上は経つよ」


 俺は、もう一度唾液を吐き捨ててから答えた。


 大日本国内で坑道生活推進法案が本格的に動き出したのは既に二十年も昔の話で、炭鉱として活躍した閉鎖坑道を再利用して汚染された地表から避難する方法はアルゼンチンで発達した考え方らしい。


 それでも、政府が強くそれを推奨した事には、現在でも疑問を抱く学者が多い。当時、技術や資金力が豊富だった日本は、海中や地底に都市を築く事も可能だったからだ。

 

 実際に東京や大阪は地下に都市機能を移しているし、多くの都市が政府の指示通り旧炭鉱の坑道を利用したり新設したりと坑に移住する事を余儀なくされた理由については詳しく聞かされた事が無い。


「陸に出たら……ただ、収穫に行くだけか?」


 濱名が意味深な間を設けて訊ねる。


「どういう意味だ?」


 俺は、縫い終えたベルトに発光塗料を塗り込む作業を止めて聞き返した。塗料が乾燥するまでにもう一度上塗りしなければ綺麗な仕上がりにはならないのだが、濱名の言葉の意味深な間の方が気になって仕方なかった。


「意味なんかねーよ。ただ、どうするのかな?って、思って」


「だから、どうする? とは、どういう意味なんだ?」


「ムキになるなよ、喜一郎」


 こちらの苛立ちを含む視線を感じない筈は無いのに、濱名は時計に向けた顔を上げる気配は無い。


「俺が、脱坑するとでも思っているのか?」


 俺の問いに、暫くの沈黙で答えていた濱名が腕時計の裏蓋を丁寧に填めてから静かに口を開く。


「喜一郎。俺は、陸は既に浄化されてると考えてんだよ」


「宇宙線や、二次宇宙線の影響は?」


「んな、難しい事は分かんねーよ。だけどな。大根だって芋だって、食べられてるじゃねーか。地表が本当に危ねーなら、政府が許可を出す筈がねーよ。それに、たまに配給されてくる牛肉や豚肉なんかは、海中や地中で育てられる筈がねえ。違うか?」


 違わなかった。それでも、誰もが抱くその疑問を口にする事は厳しく禁じられている。地表が安全な場所であるなら、地中に生活する意味は完全に失われる。その事が囁かれるのを煙たく感じるのは政府であり、巨大な権力だ。香織がいつも言うように軽々しく言葉にしてはいけない。


「仮に、地表が浄化されていたとして、俺達が生活出来る基盤は既に失われている筈だ」


「それだよ、『生活の基盤は失われている。』政府の奴らは連呼してるけどよ。じゃあ、アイツらはどうやって生きてんだ? アイツらは地表でヌクヌクやってるに違いねー」


 言って、濱名が剥き出しの土壁を拳で殴り付ける。湿りで黒く変色した土が僅かに矧がれて薄茶色の地層が現れたが、坑内のひっそりとした冷たさが変わる事は無い。


「それを考えた事が無いとは言わないが、言葉にするのはマズい。理由は分かるだろ?」


 俺は、濱名の顔を覗き込んだ。


 他の大人達と同じように、照明に浮かび上がる濱名の顔には深い皺が幾重にも刻まれていて、過酷な環境下に生きる男の苦悩が滲み出ているようにも思える。


「俺はよ……喜一郎。家族に会いてーんだよ。妻や娘に会いてーんだよ」


 濱名が血が滲む拳を見詰めながら呟く。濱名の家族は地表での混乱時に行方が分からなく成っていた。


 政府の発表では、移住は粛々と行われ混乱による不明者は僅かだったと言うが、実際の事は分からない。俺達の情報源は検閲を済ませたインターネットの情報だけで、濱名は気が遠くなるような長い間、家族の所在を探し続けているが、未だ近隣坑道都市の住民登録名簿にその名前を見つけ出すに至ってはいない。


「一緒に芋堀に行くか? 地表がどんなか、ハマちゃんは最近見てないだろ?」


 俺は出来るだけ柔らかい声で訊ねた。


 濱名がそれに小さく頷く。


「来週には雨も止む。申請してる収穫許可もその頃には出るだろう」


 俺は、塗料を塗り終えたベルトを乾燥用の台に並べて、カレンダーをもう一度眺めた。

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