アタシが残りアナタが消えた

 ――わからない。

 アタシが残りアナタが消えた、その理由。


 シャワーの音、湯桶を置く音、水の跳ねる音、軽やかな笑い声、話し声。

 けれども、それらはどれも心の傷を癒やしはしない。

 癒やせるのは、理由だけ。

 理由が欲しい。納得がいって、なおかつ傷つかないやさしい理由。

 ――そんなものがないのは、わかりきっているけれど。

「牟田」

 声とともに、こちらへやってきた波紋。

 湯面から生えた白い足。

 それに沿って視線を上げる。

「……旭さん」

 タオルを肩から掛けて、腰に手を当てて、威風堂々と立つその姿に、アタシは苦笑した。

「隠してください、恥ずかしいですよ」

「なぜ? あんたが男だったら多少は隠すが」

「あの……、その場合はきっちり隠してくださらないと困ります」

「そうか」

 わかったようなわからないような返答。

「そんなことより隣、いいか?」

 アタシは頷いた。

 浴槽は一時に比べるとそれほど混雑していない。たぶん、彼女はアタシと話をするために来たのだろう。

「なぁ、牟田。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

 案の定、湯船にどっぷり浸かって間もなく彼女は口を開いた。

 その視線は前を向いたまま。

「あら? 何ですか?」

 極めて明るくアタシは応える。内心、次に続く言葉に怯えながら。

 でも、続いて出てきたのは、アタシの予想とは全然異なるものだった。

「悩んでるだろ? あんた」

「……え?」

「誰かにいじめられたりされてるんじゃないのか?」

 どうして?――思わず呟く。

「やっぱりな」

 それを肯定と受け止めたのか、そう言って大きく息をついた。

 アタシは慌てて首を振る。

「そ、そんなことないです、いじめられてなんていませんよ」

「だが、どうして、って言ったじゃあないか」

「それは……」

 予想してたのと違ったから――そう言いかけて、口を噤んだ。

 どんな予想をしていたのかと訊かれても絶対に答えられない。

 たぶん、泣いてしまう。今だって泣きそうなのに。

 彼女はそれ以上何も訊いてこなかった。

「まぁいい、何もないのなら、もっと堂々としていろよ」

「あ、はい……」

 かなり拍子抜けしながら頷きかける。

 けれど、その次の瞬間――

「だから、辞めたヤツと自分を比べるような真似だけはするな」

 ――驚いて顔を上げ、彼女の横顔を凝視した。

「あんたは、あんただ」

 単純で飾り気はない。でも、重たく力のある言葉。

 必死で押さえていた涙が零れた。

 それは半年前から少しずつ蓄積されてきていたモノ――


 ――半年前、同じオーボエパートにいた同級生が辞めた。

 その子は中学校からの経験者。高校に入ってから始めたアタシとは違ってとても上手だった。

 だから、先輩たちは引き止めようとした。もちろん、アタシも。

 でも、辞めてしまった。

 牟田さんがいるから私が抜けても大丈夫ですよ――そう、言い残して。

 それはまるで呪いの言葉。

 先輩たちは落胆した。

 あとを託されたアタシは、とてもその子のようには吹けなかった。

 失敗する度に先輩たちの溜息が聞こえてきた。

 時には面と向かって比較されて、注意された。

 牟田さんが辞めればよかったのに――いつかそう言われそうで、怖かった。

 辞めたくはなかった。だから、せめて目立たないように振舞った。

 自分から距離を置いていって、独り怯えていた――

「誰が辞めろなんて言いにくるものか、バカ者が」

 ――泣きながらすべてを打ち明けた。

 彼女は盛大な溜息を吐いた。

「あんたを辞めさせることができるのはあんた自身だけだ。確か部の規約でそう決まっていたはずだぞ? ちなみに退部勧告も出せるのは役員会だけ。それも全会一致が条件だ。たとえ役員といえども個人では出すことができない。覚えておけ、ていうか規約読め、バカ者」

 どこか突き放していて冷たいけれど、でも、ちょっとだけ温かくなった気がした。

「アタシは、ここにいて良いんですか……?」

「まだ言うか、バカ者。参考までに教えてやるが、あんたは勝った負けたで言うならば勝ったんだ」

「え……?」

 彼女はふぅと息をついて立ち上がり、わかってないのか、と呟いた。

「辞めた北戸はな、あんたがどんどん巧くなっていくのが怖かったんだよ。北戸は三年掛かって、それも必死で練習してあそこまでになった。なのにあんたはそれより遥かに早いペースで上手くなった。だから逃げたのさ、ヤツは」

「逃げた……」

 そうだったのだろうか?

 確証はない。

 でも、その理由はアタシに少し甘くて少しやさしい。

「あのレベルで辞めれば普通惜しまれるからプライドを守ることができる。んでもって、あんたに対するプレッシャーにもなる」

 そう言ってちょっと笑った彼女は、相変わらずどこも隠そうとはせず、こちらに背を向けざばざばと浴槽を横断していく。

 そして、浴槽の縁を乗り越えようとして、縁に腰掛けた。

「あんたは逃げるなよ。これからきっちり躾けてやるんだから」

「え?」

「ヘンな癖もないし。上手くなるぞ、あんた」

 ははは、とよく響く笑い声を立て、今度こそ浴室から出ていく。

 その姿が曇硝子の向こうに完全に消えてしまってから、アタシははっと我に返る。

 そうして、ありがとう、とできる限りの大きな声で言った。


 アタシが残りアナタが消えた、その理由――手に入れた。

 その瞬間、アタシは残りアナタは消えた。


 (3月28日18:00 入浴開始・個人練習)

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