一難去ってまた一難

 合宿参加予定者が崖崩れに巻き込まれたかもしれないと、警察を呼ぶ一歩手前までいった大騒動。

 しかし、実際は道に迷っていただけだった。

 初日からそんな冗談のような出来事に見舞われた北崎川高等学校管弦楽部の春合宿。

 もちろん予定は完全に狂ってしまい、初日午後最初の行事だった入所式は夕べの集いのあと。パート毎に分かれての練習はなくなり、その代わり一時間半遅れの三時半から個人練習が組まれることになった。

 とりあえず上層部や関係者以外はほっと息をついた午後三時過ぎ。

 五十期トロンボーンの津崎高嶺はロビーのソファーでココアを飲み飲み寛いでいた。

 が、

「……?」

 差し込んだ影に、ふと顔を上げる。

 そこにいたのは仁王立ちになってこちらを見下ろすパートの先輩、国見詠歌。

「どうしたんですか?」

 逆光かつこちらの位置が低いため、その表情ははっきりとうかがえない。だが、ひどく機嫌が悪そうな気がした。

 思い当たるふしはない。

「……ココア飲みます?」

 とりあえず愛想よくココアを勧めてみる。

 取り付く島もないだろうなぁ、と思ったが、案の定返ってきたのは、要らない、という一言だけ。

 そのままくるりと身を翻して歩き出す。

 経験と勘に基づき、付いて来いという意味だと解釈した津崎は、手のなかのコップをちょっと見て目を閉じて一気に飲み干す。

 その熱さに口を押さえながら、空のコップをゴミ箱に捨て、国見のあとを追った。


 ――その頃。

 誰が言うでもなく1stヴァイオリンの面々は食堂と宿泊棟を結ぶ渡り廊下に早々と集合して勝手勝手に椅子を並べ個人練習を始めていた。

 常盤愛美もそのうちの一人。

 念入りにチューニングして、軽く音階を流し弾く。

「いい感じ」

 楽器の状態も上々、と楽器を脇に抱えてパラパラと教則本を開いたその時、

「愛美!」

 突然の声。それもかなり大きな。

 楽器を落としそうになったのをどうにかこうにか押さえ、常盤は顔を上げた。

「な、何! もうちょっとで楽器落としそうだったじゃない!」

 思わず怒鳴ったが、視線の先の人物のかなり憔悴した様子に声のトーンを落とす。

「と、どうしたの……? 高嶺」

 やや青ざめてすらいる津崎は、大変なの! と常盤の膝に縋りつく。

 そうして見上げてくる目は少し潤んでいた。

「ちょっと……何があったのよ?」

「揉めてるの!」

 津崎は強い方ではないが、打たれ弱くて涙もろいというわけでもない。

 相当揉めているのだろうというのはわかるが、

「……誰と誰が?」

 訝しく思いながら問う。

 返ってきた答えはとんでもないものだった。

「管セクションと他の団体!」


 ――事の発端は、数十分前のこと。

 四十九期パーカッションの如月ミサがティンパニのチューニングをしようと大研修室を訪れたところ、どこかの子ども会らしい団体が大研修室で遊んでいたらしい。

 座ってお遊戯というのならまだしも、ティンパニの他にも楽器が結構置いてあるというにもかかわらず、大人は隅でなにやら話し込み子どもたちを放任。

 如月が訪れた時、何人かがティンパニのヘッドを触っていたらしい。

 部で使っているティンパニのヘッドはプラスチック。触ったくらいで痛みはしないが、それでもヘッドに素手で触ってほしくはない。

 注意しようと如月が子どもたちの傍に寄ろうとした時、何を思ったのか子どもの一人が傍に畳んでおいてあった譜面台でヘッドを叩いた。

 静寂の女と呼ばれるくらい普段は恐ろしく静かな如月も、あまりのことに悲鳴を上げる。

 その悲鳴を通りがかりの国見が聞き、大研修室に飛び込んだ。

 そうして室内の様子を見、瞬時に何が起こったのかを理解した彼女は、ティンパニの横に立っていた子どもの腕を取り譜面台を叩き落とした。

「壊したらただじゃおかないぞ! このガキども!」

 怒り狂った一喝に、傍にいた子どもたちが次々と泣き出した。

 そうしたら、今まで隅の方で話し込んでいた子どもたちの親が、そして、練習場所を求めて大移動していた管セクションの面々がわらわらと集まってきて――とりあえず収拾がつかなくなっているとのこと。

「あー、もー、」

 ――常盤は眩暈を感じた。

 内容も大概だが、何より、

「ねぇ高嶺、それを副部長の私に言いに来た、ということは……」

「うん、庶務長も部長もヒートアップして応戦中で、副長はどこにいるのかわからなくて……」

 合宿の最高責任者は庶務課長。次いで庶務副課長。そして、部長、副部長の順。

 庶務課長室井、部長姫川は揉めごとの渦中に身を投じ、庶務副課長三角は捕まらない。

 そうなると仲裁人の役目を負うのは副部長の常盤である。

「でもねぇ、他団体が相手となると……先輩たちは?」

 こういう時は年上に頼るに限る。

 そう思って訊いたが、

「それが……目ぼしい人たちはもう加わってて……」

 常盤は再び眩暈を覚えた。

「何でそうなるの」

 こめかみを押さえつつ問う。

「こっちもだけど向こうも全然折れる気配がないの。たぶん、こっちが子ども泣かしちゃったからだと思うけど……」

「でも、あの部屋は二時から五時までうちが押さえてたんだから、向こうが悪いでしょ?」

「それが、誰もいなかったんだからいいじゃない、とか、そもそも何でこんなところに楽器を置きっぱなしにしてるの、とか完全に開き直ってて……」

「もー……、とりあえず詠歌先輩が譜面台叩き落した子どもに怪我はなかったの?」

「それは大丈夫みたい」

「――そんなガキの心配よりティンパニは無事なのか?」

 割り込んできた声に、さらなる眩暈を覚えつつ振り返る。

「まりあ……」

 旭まりあ。優しそうな名前とは裏腹にオケ部一好戦的な女。

 ティンパニが無事でないとなると、ここから弾丸のように飛び出していくだろう。

 お願い、高嶺、嘘でもいいから無事だと言って!――

「破れはしなかったけど、譜面台で叩いてるから……」

「キズ、入ったんだな?」

「うん」

 ――ああもう! 高嶺のアホ!

 旭の顔がみるみるうちに厳しくなっていく。

 常盤は津崎に楽器を託し、動き出した旭に飛びついた。

「落ち着きなさいよ! まりあ!」

「落ち着いている」

「顔が怖い!」

「怖いのは元々だ」

 振りほどこうとする旭に、なおもしがみつく。

 遠巻きに聞きつつも我関せずを貫こうと思っていたらしい1stヴァイオリンの面々も、さすがに身近で起きそうな騒動には目を瞑ることができないらしく集まってきた。

「まりあ! ほら、皆もまりあが出向くのは心配なのよ!」

「何を言ってるんだ? 愛美。私は先生に言いに行くだけだ」

「え」

 思わずパッと旭を放す。

 ったく何なんだ、などとブツブツ呟く旭は津崎の方に向き直った。

「誰も先生を連れ出そうという発想はしなかったのか、おい」

「そりゃ一応探したよ。相当拗れちゃってるし収拾つかなさそうだから。でも、見つからなかったの。施設の職員もほとんど出払っていないから、もしかしたら崖崩れの件で先生も――」

「部屋入って確認したか?」

「え? そんなことできるわけないじゃない。ノックだけだよ」

「それで出てくるものか」

 旭はそれだけ言ってさっさと歩き始める。

「高嶺、楽器よろしく」

「愛美?」

 常盤は津崎に自分の楽器を頼み、念のため、あとを追った。

 無言の旭は研修棟への渡り廊下を通過。どうも本当に先生の部屋に向かっているようだった――意外に冷静なようね……。

 後ろから常盤がついてきていることに気付いたらしい旭は、前を見たまま歩きながら言う。

「子持ちっていうのは自分の子どもが危険に晒されたら、たとえ自分や自分の子どもに非があったとしても猛然とうっとうしいくらい歯向かってくる。そんなヤツらに対抗するだけ無駄だ。腹が立つだけでな」

 確かにそれはそうだろうとは思う。

「そういう時はだな、第三者になだめてもらわなきゃ収拾がつかなくなる。何もなければ施設の職員に頼むのが妥当だろうが、今回はうちのせいで施設はてんてこ舞いだった」

 こういう施設の場合、いくつかの団体が同時に滞在していることが多い。

 当然、団体間のトラブルも考えられるため、普段は大体巡回をしている。

「あ、そうか……。崖崩れ起きて職員はほとんどいなくて、残った人も事務室で待機しなきゃだから……」

「見廻りをしていれば、未然に防げたトラブルだろ。だから職員に仲裁を頼めば、相手の団体の親さんたちは職員に対しても食って掛かるはずだ。何で事前に教えてくれなかったんだ、とか何とか言ってな」

「確かにそうなりそうだけど、でも……」

 足を止める。

 目的の部屋の前。

 そこで、ようやくこちらを振り返り旭は笑った。

 ただし、笑っていたのは口許だけ。

「ならばどうして先生を呼ぶのかと訊きたいんだろう?」

 先生、すなわち管弦楽部顧問兼指揮者・津田奏司。

 当然のことながら第三者ではなく揉めごとの渦中の団体の人間。

「それはな、ムカつくからだ。楽器にキズを入れておきながら、しゃあしゃあ開き直ってる連中が」

 音楽以外のことに関してひたすら面倒臭がりな旭が珍しく語っていた理由を常盤は悟った――やっぱりキレてたのね……。

「先生、入るぞ」

 ノックもなく、乱暴に戸を開け、ズカズカと入り込む。

 慌ててあとについて、

「おい、先生」

 旭のかげからおそるおそる覗き込む。

 津田は二段ベッドの下に腰掛けて、ヘッドホンで音楽を聴いていた。

 これではノックは聴こえないだろう。

「おやおや、そんな怖い顔をして。何かまた問題でも?」

 ヘッドホンを外しながら津田は微笑む。

 旭は低く応えた。

「ああ、アンタの出番だ」

「何です?」

「どっかのガキが譜面台でティンパニ叩いた。で、キズ入ったのに謝りもせず親たち開き直ってる」

 ――その時、常盤は見た。

 津田が凄絶なまでに恐ろしい微笑を浮かべるのを。

 しかし、それは刹那の出来事。

 次の瞬間、津田は少なくとも表面上はいつもの口調で、おやおや、と言った。

「それは大変なことになっているようですね、旭君」

「とりあえず部員じゃ話にならないみたいだから、先生、アンタが行ってくれ」

「仕方ないですね、行きましょう」

 津田奏司、出陣。

 常盤は入口から動けなかった。

 津田は微笑んでいた。でも、その目はギラギラとしていた。

 そして、まるで常盤のことなど目に入っていないかのように、横を素通りしていった。


 ――あとから聞いた話。

 あの後、津田は大研修室に着くなり、まず部員をなだめて部屋から出したらしい。

 で、なかに相手の団体だけが残った状態で扉を閉めカーテンを引いたそうだ。

 そして、数十分後、出てきた時にはきっちりヘッドを弁償させる約束をさせていた。

 子どもたちは泣き叫び、開き直っていた親たちは出てくるなり部屋の外で待機していた部員たちに平伏せんばかりに謝ったとのこと。

 いったい津田が何をしたのか。

 それは結局わからず終い。

 ていうか絶対知りたくない――常盤は本気でそう思った。


 (3月28日14:00 パート練習)

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