concertmaster
春めいた地上はぬくい。
たとえ冬の名残の冷たい風が吹いても雑踏のなかに身を置いておけば、あたたかい光の恩恵だけを受けることができる。
ここは、そんな地上から、ほんの少し空に近づいただけの場所。
境ヶ浜は軽く羽織っていたベージュのトレンチコートの前をキュッと合わせ、空を見上げる。
冬とは明らかに違う春の空。そんな春の空に近いはずなのに――寒い。
「おーい、境ヶ浜」
突然の声に境ヶ浜は弾かれたように振り返る。
後方にある三分咲程度に綻んだ桜の大木。その横に立ち、快活そうな笑みをもってこちらに手を振って見せたのは、小柄でともすれば自分より幼く見えそうな先輩。
「成宮先輩」
少し口が渇いていたせいか掠れた声音に先輩――成宮 慶は笑った。
「どーした大丈夫か?」
そうして横に立ち、顔を覗き込んでくる。
「悩み事?」
邪気のなさそうな焦茶色の大きな瞳を見、苦笑する。
「いいえ、少々車酔いして休ませてもらっているだけですよ」
「ああ、そういえば境ヶ浜ってトラック当番だったよな」
「ええ」
――今日から始まった北崎川高等学校管弦楽部毎年恒例の春合宿。
高校からここ桜桃山研修施設まで境ヶ浜は楽器搬送用のトラックに乗車した。
元々車に酔う性質ではないが、いつもと違う視線の位置と山道による揺れ、カーコロンの匂いに惑わされた。
「先輩はどうしてここへ?」
一緒にトラックに乗っていた庶務課長の室井には少し休むと告げていたが、場所までは言わなかった。だから、手空きの成宮が探しに来たのだろうということはわかりきっていたが、沈黙が嫌でそう口にする。
「薄々察してると思うけど、探しに来た」
予想通りの答えに、でも探してたのは姫川部長だから、と成宮は予想外の一言を付け加えた。
「部長?」
「そ、挨拶に行かなきゃいけないそうだ」
「あ……」
そういえば出発前の役員会で施設内への楽器搬入が終わったら所長室と事務室に挨拶に行くと言ってたな……、と思い出して、息をつく。
「楽器搬入、終わったんですか?」
「いいや、ティンパニが残ってる。あと、弦バスも何本か」
「でももうすぐですね、終わるの」
今、耳を澄ましても、到着したばかりの時のような喧騒はすでにない。
作業が滞りなく進んでいるからだろう。
「そろそろ動かなきゃ」
そう言って、上辺だけの笑みを浮かべて見せる。
そして、もう関わりたくないという空気をまとって、さっさと成宮の横を通り過ぎた。
と――
「まだもう少し休める余裕があるのに? 探しているのが部長だけならいいけれど、そのうち旭が探しに来るかもしれないからか?」
不意打ち。
予想はしていた。でも、こうして歩き出してしまえば見逃してくれると思っていた。
「旭と二人きりになるのだけは嫌?」
「成宮先輩――」
振り返らないまま、低く声を発する。
「――何が言いたいんですか?」
「逃げるな」
さっきとは打って変わった厳しい声。
それは境ヶ浜の精一杯の威嚇すら破壊する。
「僕は――」
「逃げてないとは言わせない。最近、お前、旭を避けてるだろう?」
境ヶ浜は笑った、成宮の方に向き直りながら。
笑ってないと、やり過ごせそうになかったから。
「おかしなことを言いますね、先輩。僕がいつ――」
「旭、最近恐ろしく巧くなってきてるからな」
境ヶ浜の言葉を遮るように継がれる言葉。
「それに傍若無人に振舞っているけれども、意外とウケはいい。もちろん、顔も愛想もいいお前にはかなわないけどな」
「いったい何が言いたいんですか?」
ようやく隙間に入れ込んだ意味をなさない言葉は、あっさりと無視される。
「お前、気付いてるんだろ? 近いうちに旭が自分を超えるだろうってこと」
「先輩!」
成宮の言葉を止めるために、強く言葉を発する。
対して成宮は自分の言葉が効いているのを確信したのか、厳しい表情を緩めた。
「なぁ境ヶ浜、コンマスって重いだろう?」
細められた目と口もとに浮かべられた笑みが驚くほど優しくて、境ヶ浜は目を瞠る。
「お前さ、いったい何を期待してコンマスになったんだ?」
諭すような口調。
促されているのはわかったが、言葉が出ない。
「ただ上から下を見渡してみたかっただけなんじゃないのか?」
コンマス――コンサートマスター。
外から音楽を創り上げていくのが指揮者ならば内側からそれを支えるのがコンマスだ、と境ヶ浜に言ったのは物識りな同期・旭まりあ。
去年の秋、境ヶ浜はその旭とコンマスの座を争った。
その場で二人は諍いを起こし、結局旭は辞退。
そうして境ヶ浜は北崎川高等学校管弦楽部第五十一代コンサートマスターになった。
もし諍いがなかったならば、旭がなっていたかもしれない。
いや、だからこそ境ヶ浜は喧嘩を売った。
冷静沈着に見えて実は血の気の多い旭が買って出ることを予想して。
その時は、そこまでしてでも欲しかった。
理由は――
「……旭は何でコンマスに立候補したんでしょうか」
ぽつりと滑るように、勝手に言葉が口をついて出る。
「旭は多分、音楽を創ってみたかったんじゃあないのかな。津田先生と一緒に。口で悪し様に罵るわりに、あれで案外先生に懐いてるからな」
さきほどまでのことがまるで嘘のようにおどけた表情で成宮は肩を竦めた。
「いいよなぁ津田先生、旭に懐かれて。俺、めちゃくちゃアプローチしてるのに軽ぅくあしらわれるし」
だが、部外者にもかかわらず、部内のことをよく知っている男は、すぐにすっと表情を引き締める。
「何はともあれ旭はずっと音楽のことを考えてる」
「なぜ?」
「好きだからだよ。ていうかあのコ、本当にそれ以外考えてなさそうだろ」
そんなこともわからないのか? というような成宮の表情。
境ヶ浜は首を振る。
「わかりません」
きっと成宮の言う通りなのだろう。
けれども、そこまで音楽に入れ込む理由など境ヶ浜にはわからない。
楽器が弾けるから音楽をやっている。
境ヶ浜にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。なり得ない。
成宮は少し困ったような顔をして押し黙っていたが、やがて、その表情のまま呟くように言った。
「お前って奴は……」
「僕はなりたくてコンマスになったんです。ええ、確かに、なったらどうなるのか何か変わるのか見たかっただけです」
春めいた地上はぬくい。
そんな地上と大差ないだろうと思っていた少し空に近い場所は――
「漠然とした小さな好奇心でした。その結果がこれですよ」
逃げている、と言われても仕方ないと思う。
逃げているから。
「ちょっと上に昇ったくらいじゃ変わらないと思ってました。でも、昇ったら案外風当たりが強かった」
技術は誰にも負けない自信はある。
たとえ相手が旭でも、まだ負ける気はしない。
だが、
「旭は巧い。指揮を的確に読む。先生の指示があった次の瞬間にはもう音が変わってるんですよね。そして、それを他の部員に伝播させることができるし……」
「旭はそういう意味ではコンマスの器だからな」
コンマスの器。
「プレッシャーなんですよ、成宮先輩」
旭が怖い。 旭と比べられるのが怖い。
そして何より、陥れたに等しい旭が自分のことをどう思っているのか知るのが怖い。
「でも、今更引き返せません。だから――」
境ヶ浜は微笑を浮かべた。
「――僕はいつまでも逃げますから」
では先輩、僕はこれで…… 同性にすら効果ありと自覚している微笑に赤くなっている成宮を残し、境ヶ浜はポツポツと花の咲く桜の丘を下る。
まだまだ旭より僕が上。旭より巧いと周囲を騙せられる限り、僕はここにいる――
第五十一代コンサートマスター・境ヶ浜鞆。
任期満了まであと半年。
(3月28日10:30 桜桃山到着・荷物搬入)
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