先生! 好きです!

 ヴィオラの五十一期生・吉永のぞみは顧問兼指揮者の津田教諭が好きだった。

 それは尊敬の念からではなく、恋愛感情に起因する“好き”。

 推定年齢五十歳。妻子持ち。均整の取れた体躯に、ロマンスグレーのよく似合う端整な顔。口髭を生やしているが全然嫌味な感じでなく、丸眼鏡という小道具も手伝ってまるで英国紳士のよう。

 あんたオヤジ好きなの? ひょっとして愛人希望? などと友人たちにからかわれても、それでも吉永は津田教諭が好きだった。

 大体、さして興味もなかった管弦楽部に入ったのも、入学式の時に津田に一目惚れしたからにほかならない。

 少しでも津田の目に留まろうと、選んだ楽器は競争率が低く初心者が多かったヴィオラ。全然わからなかったクラシック音楽についても一生懸命勉強。会計係という役職にも就き、今や廊下で会うと声を掛けてもらえるようになった。

 そして、やってきた一日中津田に会える春合宿。

 それだけでも天に昇るような気持ちなのだが、偶然にも合宿の往復を先生の車でする役まで引き当てた。

 たとえ三人の内の一人だとしても、先生と親しくなるにはこの上ない機会。

 吉永が合宿の日を誰よりも心待ちにしていたのは言うまでもない。


 当日の朝。

 点呼が終わり、出発の挨拶や各注意事項も終了。

 つつがなく乗車も完了し、皆を乗せたバスと楽器を積んだトラックがグラウンドから出て行ったあと、黒いセダンタイプの外車が入れ替わりでグラウンドに入ってきた。

 グラウンドに残された三人の前にスマートな動作で横付けされた車の運転席からスッと降り立ったのは津田教諭。

「お待たせしました。私の車で行くのは、ヴァイオリンの旭君、ヴィオラの吉永君、トロンボーンの津崎君ですか?」

 澄んだテノールの声音に、

「はいっ!」

 と、力一杯答えたのは吉永だけ。

 管打楽器セクションリーダーでトロンボーンパートの津崎高嶺はつまらなそうに小声で、はい、と一言。

 学生指揮でヴァイオリンパートの旭まりあにいたっては無表情に軽く頷くのみ。

 ここまでは計算通り……、吉永は内心にんまりと笑う。

 そう、計算。

 津崎はこんなことさえなければ彼氏である同学年のチェロの渡邊章司と同じ号車のバスだったので元気に返事などできるわけもなく、旭は元々こんなところで元気よく返事するようなタイプではない。

 よって吉永がここできっちりハキハキと返事をしておけば好感度も上がる――という計算。

 目指すは助手席。

「お、吉永君、元気いいですね」

 案の定、津田は吉永に向かって微笑んだ。

「何かいいことでもあったのですか?」

 先生とご一緒出来るので、と臆面もなく言うことはしない。

 お世辞が上手ですね、と返されてそれで終わりだ。

「ええ、色々と……」

 こうやって口を濁せば、

「そうですか。それならせっかくなので車で訊くことにしましょうか、吉永君」

「はい」

「ではどうぞ」

 と助手席に決定。

 もっとも、ここまでしなくても旭と津崎が相手なら助手席は端から決定していたようなものだが。

 しかし、手を抜くことはしない。

 二度とないかもしれない貴重なチャンスだ。逃すわけにはいかない。

 津田の寵愛を受け、ゆくゆくは愛人でもいいから付き合いたい!――そんなとんでもない野望を抱いた吉永、そして、ふて腐れ気味の津崎、何も考えていなさそうな旭の三人を乗せた津田の運転する車の行き先は桜桃山研修施設。

 桜桃山は、鎌倉時代にはすでに霊山として地元の信仰を集めていたとの記録もある山で、山頂付近にある桜桃神社の周辺には一万本ともいわれる数の様々な種類の桜の木が植えられている。

 およそ八合目にある研修施設の周辺も整備されていて、来週の年度明けには花見客で溢れることだろう。

 と、そんなことは恋する吉永にはまったく関係がなかった。

 彼女の意識は隣で運転する津田に釘付けされている。

 およそ一時間十五分程度の道程が勝負の時間。

「あ、音楽掛けてもいいですか」

 発車してしばらくして津田はそう断りを入れてきた。

「はい」

 助手席に座ったものの、思ったように喋れなかった吉永はこれ幸いと頷く。

「それでは遠慮なく……」

 ラジオからステレオに切り替えられ、流れてきたのは、幸運なことに最近聴いたばかりの曲だった。

 元々、曲に興味があって聴いているのではないため、ちょっと経つと忘れてしまうことも多いが、さすがに一週間前に聴いた曲を忘れるほどではない。

 しめたとばかりに口を開く。

「先生、ブルックナーの交響曲第六番ですね!」

「ん? ああ、そうですよ」

 少し驚いたような顔をした津田に、吉永は小さく笑う。

「驚かれましたか? 先生。あたし、結構聴いているんですよクラシック。意外、ですか?」

 津田は前を向いたまま笑い、軽く首を振る。

「いやいや、君が勉強していたことは知ってました。部室で熱心に聴いていたのを何度か見かけましたからね。しかし、ブルックナー、好きなのですか?」

「え? ええ、まぁ……」

 もしかして、この曲知ってるってことでかなりブルックナーに通じてる、って思われたりしないよ、ね?――口もとに笑みを作りつつ内心焦る。

 ブルックナーの交響曲、六番以外に知っているのは四番のロマンティックのみ。それ以前に何曲あるのかすら把握してない。

 幸いなことに津田はそれ以上突っ込んだ話はしてこなかった。

 が、

「それはいいですね――ね? 旭君」

「……え?」

 予期せぬ方に話が流れ、思わず声を上げる。

 ちらりとこちらに目を向けた津田が軽く笑った。

「このCDですね、旭君から貰ったんですよ」

「……何ですと?」

 誰から、何を貰ったとおっしゃいましたか先生?

 津田の口から出てきた言葉の意味が分からなくて、問い返した声は上擦って裏返っていた。

 それに応えたのは後部座席の旭。もっとも、吉永の問いへの答えではなかったが。

「やった理由は指揮に不満があったからだぞ。聴いているというアピールのつもりなら多少姿勢を変えたらどうだ」

 不遜も不遜。

 タメ口もここまでくれば立派なもんだ、というくらいの思いっきりのいいタメ口。

「ちょ、ちょっとまりあちゃんっ?」

 慌てて振り返る。

「せ、先生に失礼でしょうが!」

 しかし、旭は腕を組んでどっしりと構えて座り、何が、と眉をひそめた。

「何が、って! ちょ、ちょっと高嶺ちゃんも何とか……」

 狸寝入りか本当に寝ているのか判別つかないが、津崎はドアに凭れて目を瞑り、動かない。

「ああもう!」

 いくら温厚な津田といえども、ここまで不遜だとさすがに腹に据えかねるだろう。

 それで旭一人の印象が悪くなるだけならいいが、旭の印象が強すぎて、吉永が助手席に乗っていたという記憶が残らないのだけは絶対に避けたい。

「まりあちゃん、謝りなさいよ!」

「謝らなきゃならんほど先生が怒ってくれているんならいいけどな」

「……はい? て、何言ってるの! まりあちゃん! ちょっとちゃんと――」

 その時、クックックッという押さえ込んだ嗚咽のような声を聴き、慌てて隣に目を向ける。

「せ、先生っ?」

 それが引き金となったのか、

「あはははははっ!」

 津田は弾けたよう笑い始めた。

「先生……」

「ほら、やっぱり笑う」

 後ろで悪態をつく旭を叱り飛ばす元気はもう吉永のなかにはない。

 いったいどうなってるのか、のろのろと考えることが関の山。

「やっぱりアピールだけか」

「いえいえ、旭君の考えは私もよく理解していますよ。確かにチェリビダッケのように全ての音域の音を精密に創り上げるというのは理想的です。実際、好みでもありますし、だからこうしてありがたく聴いてます」

「ならばやれ、実践しろ」

「でも、私にも長年やってきたスタイルというのがありましてね」

「低音重視」

「低音の支えがあるとやはり落ち着くんですよ。もちろん、理想はすべての音域を等しくバランスよく鳴らすのが理想ですけど、アマチュアでそれを要求していったら仕上がらない。そこのところは旭君、君も重々承知しているのではないですか?」

「確かに低音が強ければ、曲が重厚かつ華やかに仕上がる。それにうちのオケは個人の習得度に差があり技量もまちまちで統一するのは難しい。音色の色彩の差というのもあるしな。低音を強化して曲をつくれば、ある程度そういう部分のフォローが可能になる」

「わかっているじゃないですか」

「だが、そうして低音の強化ばかりしていると中音域がますます脆弱になる。ただでさえうちのオケは中音域が人材不足で脆弱なんだ。これじゃいつまで経っても中音域に爆弾抱えたままで、低音の助けを借り続けなきゃならない。低音に合わせて高音は派手に鳴らすことを要求させられ、まるで暴走する軍艦だ」

「ははは、暴走する軍艦って比喩がステキですね。でも、仕方ないですよ?」

「だけど――」

 わかるようなわからないような応酬が隣と後ろの間で続く。

 旭が津田にCDをプレゼントしたことなど、もうどうでもよくなっていた。

 それよりも気になるのは応酬の内容。

 わからないことが多いが、わかるところもある。

 たとえば旭が津田を責めていること。そして、その原因がどうも中音域にあること。

 中音域──弦楽器では吉永の所属しているヴィオラパートがそれにあたる。

 確かに初心者が多くて脆弱だと吉永も思わないわけではない――もしかして、あたしって迷惑掛けてるのかな……。

 津田がいるからという理由で楽器を始め、オケに愛着があったわけではない。

 旭は部のためを想って津田にCDを贈ったらしい。

 ――私は……?

 旭と津田の応酬は今も続いている。しかし、耳に入ってこない。

 入れるのが怖かった。

「……もういい……」

「それでいいのなら……」

「構わないからもういい……」

 断片的に飛び込んでくる旭の言葉は強く津田を否定している。

「仕方ありませんね……」

「やめてくれ……」

「そんなに嫌ですか……」

「勘弁しろ……」

 その時、脳裏をよぎったのは、この上なく嫌な予感。

「もうそんな指揮は嫌だ」

「だったら――」

「イヤっ!」

 吉永は反射的に声を上げていた。

「まりあちゃん、お願い! あたし頑張るから! 先生のこと嫌って追い出そうとしないで! あたし、先生が好きなのっ!」

 半ば叫ぶように言い、旭を見る。

 こちらを覗き込んだ旭も、そして、運転席の津田までもこちらを凝視し、

「あ、先生、前」

「あ、はい……」

 危うく前の車にぶつかりそうになったのをきっかけにのろのろと定位置に戻る。

 一方、吉永も自分が口走った言葉を不意に思い出し赤くなった――あたし、告白しちゃったよ、ね……?

「しかしなぁ……」

 我に返ったらしい旭が、ぽつりと呟く。

「のぞみがカラヤンのことそんなに好きだったとは」

「……はい?」

 吉永はくるりと振り返る。

 感心したように頷くまりあの手にはCDケースと思しきもの。

「カラヤンのことを先生と呼ぶほど好きというその趣味、私にはちょっと理解できないが、心意気は凄いと思う」

「尊敬の念というのは一朝一夕でできるものではないですしね」

「何……?」

 カラヤン――多分、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンのことだろう。

 それ以外のカラヤンはちょっと記憶にない。

 もしかして……、と、吉永はカーステレオに集中した。

 よく聴けばさっきとは明らかに曲が違う。記憶にない曲。

 はたと思い当たる――そういえばごそごそとしてたような……というか、CD、替えた?

 思い当たれば、あとは早い。

 おそらく津田が吉永が考え込んでいる間にCDを替えた。

 それは旭があまり好きでない指揮者――たぶん、カラヤンなのだろう――で、旭は別のに替えるよう頼んだ。

 それを受けて再びCDを替えようとしていた矢先、吉永が、声を上げた。

 ――まりあちゃん、お願い! あたし頑張るから! 先生のこと嫌って追い出そうとしないで! あたし、先生が好きなのっ!

 いささか不自然だが、不自然というなら、先ほどの二人のやり取りで、一部員が顧問兼指揮者を追い出そうとしているなどという結論に行きつく方がよほど不自然。

 だから、先生というのはカラヤンだと、そう思ったのだろう。

 まりあちゃんが先生に不遜な態度を取るからこんなことに! バカバカバカバカ!――心の奥で旭を罵る。

 旭はそんなことに気付くはずもなく、ということで先生、とのんきに言った。

「これ、のぞみにやっていいか? のぞみ、ブルックナーもカラヤンも好きみたいだし」

「カラヤン、ブル8はいいと思うのですけどねぇ……」

「ヴァントの方が」

「それじゃあ、旭君へのホワイトデーのプレゼントはヴァントのブル8にしましょう。遅くなりますが」

「構わない。ただでさえ二週間遅れだろう」

 それじゃあ、と旭から津田へCDケースが渡される。

 そしてそれは、はい、と吉永の膝の上に置かれた。

「これは……」

「一度開封したもので申し訳ないのですが、よろしければどうぞ吉永君。今かかっているカラヤン×ウィーン・フィルのブルックナーの八番です」

「あ、ありがとうございます」

 何が何だかよくわからないうちに吉永は受け取りカーステレオに耳を傾けてみた。

 何で旭のホワイトデイのプレゼントが回されてくるのか。

 そもそも五千円近くバレンタインデーにつぎ込んだ吉永が津田から貰ったホワイトデイのプレゼントは小さなビンに入った飴だったのに、なぜ旭はCDなのか。

 さらになぜ旭は何様のつもりでそのプレゼントの受け取りを拒否して新しいものを買ってもらおうとしているのか。

 そんな、色々な疑問には目を瞑る。

 先生から貰ったプレゼントだからと素直に喜ぶことにし、神々しいまでの重厚な響きにとりあえず吉永は聴き入ることにした。


 のぞみちゃん、アナタの恋の道程は果てしなく遠い気がするわ――結局やっぱり狸寝入りだった津崎が密かにそう思い、ちょっぴり涙したのも無理はない話。


 吉永のぞみの戦いは続く。


 (3月28日9:15 出発)

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