スイカの魔力

岡野めぐみ

スイカの魔力

 4分の1カット598円のスイカ。

 その熟れ熟れの真っ赤な断面に魅せられて、今日の昼飯はコレに決定! とばかりに先ほど近所のスーパーで買ってきた。

 ――アナタ夏バテでしょ? アタシの赤は効くわよぅ?

 それは私の脳髄を刺激するスイカの声。

 電気代節約のためにノンクーラーの六畳の部屋が私に幻聴を聴かせるのか、それとも赤いスイカの魔力か。

 一人用の小さなちゃぶ台の上の真っ白な大皿に乗った決して小さくない4分の1カットのスイカ。

 見つめているだけで、ああ幸せな気分。でも、ゴメンね? 食べちゃうわ。

 にんまり笑ってスプーンを手に取る。そして、その赤い果肉にそれを突き立てようとした、まさにその時、玄関のベルが鳴った。

 それもけたたましく、二度、三度、四度――ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン!

 せっかく湧き上がっていた食欲が、シュルシュルと体外へと抜けていく。

 私は皿の縁にスプーンを置いてノロノロと立ち上がり、壁のインターフォンを取った。

「只今出かけております、ピーと鳴りましたら……」

 ──いや、有り得ないから。インターフォンで。

「お名前と電話番号をどうぞ」

 ──しつこい! 開けなさい! 外暑いんだから!

「中も暑いわ! コンチクショウ!」

 ──逆ギレするなこのバカ姉! 開けなきゃドア破壊するよ!

 ヤツならやりかねん。

 中学生の頃、担任教諭と喧嘩して教室のドアを蹴破り、高校生の時、体育委員と喧嘩して体育倉庫のシャッターを破壊したというのは最早伝説。

 私はそそくさと鍵を開けて問題の怪力女、もとい妹の佳苗を中に通した。

「やあ、お姉ちゃん久しぶり」

 挨拶しながらサンダルを脱ぎ、こちらをちらりとも見ることなく、スタスタとリビングへと入っていく。

「うはぁ! 暑い! 何て暑いのこの部屋は!」

「予め暑いと言っていたはずだけど?」

 佳苗のハイテンションな声はどうやらこちらの気力まで吸い取ってしまうようだ。

 すっかり覇気のなくなってしまった私はノロノロとリビングまで戻る。

「で、佳苗、これから昼食なんだけど、何の用」

「ん?」

 ふらふらしつつリビングを覗く。と、佳苗はちゃぶ台の上のスイカを睨み付けていた。

 さっきまで確かにハイテンションだったのに、今、なぜかスイカに向けられているのは暗い眼差し。

 そうか、私の食事の邪魔をしたから、スイカが佳苗に大人しくなる魔法を掛けてくれんだ! きっと!

 高温のせいか夏バテのせいか、どうもぼんやりしてくる頭でそんなことを思いつつ、今一度佳苗に声をかけようとしたその時、佳苗はくるりと私の方に振り向くと、にっこりと笑って言った。

「あたし、離婚するわ」

 離婚……?

 私は瞬きを繰り返しながら佳苗の顔をたっぷりと見つめた。

 性格はともかく自分とよく似た顔を持つ妹の佳苗。佳苗の他に後二人妹がいるけれども、佳苗は本当に私そっくりで──

「お姉ちゃん、現実逃避中でしょ。戻ってきなさい、魂抜けかけてるよ」

 妹の呼びかけにゆっくりと我に返る。そして、訊いた。

「……離婚、するの?」

「うん、今決めた」

「い、今?」

 離婚の相談に来たとか、離婚したから居候させてくれというのならわからないでもない。

 何のためにうちに来たんだコイツ。踏ん切りつけるためか?──そんな私の疑問を察したのか妹はキャラキャラと笑った。

「あのヒト、外に愛人つくってたの。それも男の」

 ──何だって? 何か今、物凄いこと言わなかったか、佳苗。

 佳苗の夫が脳裏を駆け抜けていく。

 優しい顔立ちで長身痩躯のそこそこいい男──が?

 私の口は瞬間酸欠の金魚になる。

「あたしに何も求めてこないし、何かあるなとは思ってたんだけどさ。相手が男だったとは思わなかった」

 そりゃあ……思わんわな、フツー。

「でも、あたしはそれを知ってもあのヒトが好きだった。だって、あのヒトのなかの女はあたしだけでしょ? 愛人男なんだから。だからあたしは別れないつもりでいた」

「そ、それが、ど、どうして……」

 声が擦れる。

 どうも三十五度は下らない部屋の熱と妹の告白は、私の身体から気力どころか水分まで奪い取っていっているようだ。

「一応、お姉ちゃんだけには知っていてもらおうかな、と思ってさ。お父さんにも相談できないし、お母さんは聞いたら卒倒しそうだし、香里に幸恵は高校生じゃない? そんな毒の強い話はできないでしょう。だからここへ来たの」

 ああ、もう早く私にスイカを下さい。

 その瑞々しい切り口から零れんばかりの水分をこの身体に取り込みたい。

 佳苗が視線をスイカに移す。私もスイカに視線を移す。

 ああ、美味しそう。4分の1カット598円のスイカ。高いか安いかなんて関係ない。

 私はスイカが食べたいの。

「このリビングに踏み込む瞬間まで別れるつもりはさらさらなかった。でもさ、このスイカが」

「……え?」

 私の視線はスイカから再び佳苗に。けれど佳苗は、スイカを睨んだまま。

 ──口許だけが笑ってる。

「あたし、思い出しちゃったの。このスイカのせいで」

 ああ、その眩しい赤を以て私に語りかけたスイカは、佳苗に何を囁いたのか。

「あのヒトさ、スイカに何かけて食べると思う?」

「な…… 何?」

 佳苗がこちらを向く。満面に意地の悪い微笑。

「練乳かけて食べるの」

「え?」

 スイカに……、練乳。

 もっと怖い答えを想像していた私は正直拍子抜けした。

「変じゃない? スイカに練乳」

「まぁ……、変わっているっていったら確かに変わっているけど……」

「他には練乳なんてかけないのに、スイカにだけは練乳かけるの」

「はあ……」

 美味しくなさそうだけど、でもそういうのは十人十色。

 たとえばトマトにはしょうゆ派のヒトもいれば、マヨネーズ派のヒトもいるし、砂糖派のヒトもいる。ハチミツかけるというヒトもいた。

 スイカに練乳も好みの問題だ。

「それがどうして離婚の原因になるの」

 すっかり酸欠金魚状態から抜け出した私は、滑らかな口調で訊いた。

 今はもうさっさとこの話を切り上げて、スイカに齧り付きたい。

 私はさっさと腰を下ろして皿の縁に置いておいたスプーンを手にする。

「いやぁね、そこまで言わせたいわけ?」

 立ったままの佳苗はまたキャラキャラと笑った。

「言わせたいっていうか、わけわからないよ、それじゃ」

「あのヒトと結婚してね、あたしのなかでは練乳といえばスイカで、スイカといえば練乳を思い出しちゃうの。元々おかしな食べ方だと思っていたしね」

 そして、わざわざ私と同じ目線になるよう腰を屈める。

「でね、あたし今さっき……、あのヒトの性癖とスイカに練乳かけて食う口許を同時に思い出しちゃって、気持ち悪くなっちゃったってワケ」


 私は――どうやらそこそこ想像力豊かな人間だったらしい。


 スイカをすくおうと真上まで持ってきていたスプーンが手から滑り落ちる。

 サクッという音と共にスプーンは赤いスイカに刺さり、そして、私はちゃぶ台にカクッと肘をついて口を覆った。


 そうして──

「お姉ちゃん、ありがとー」

「いえいえ、どういたしまして……」

 すっかり食欲をなくした私は4分の1カット598円のスイカをそっくりそのまま佳苗に譲った。

 赤いスイカの断面は変わらず瑞々しい。

 汁気が多いことを証明するかのように、蒸し暑い室内でも涼しげにキラキラと輝いている。

 けれども私はスイカを取り込んでまで身体を潤したいとは思えなくなっていた。

 どうやらスイカは、私に食べられるのではなくそっくりそのまま佳苗に食べられることを欲したらしい──ていうか、そうとしか思えない。

 ああ、私はまた夏バテへ逆戻りだ。

「やっぱりスイカには塩よ塩!」

 キッチンから塩の入ったビンを持ってきた佳苗は元気よくそう言いながらパラパラとスイカに振り掛ける。

「練乳なんて邪道!」

「ああ、想像させないでぇ……」

 無駄に想像力たくましすぎ、と笑う佳苗。

 佳苗に離婚を決意させて力尽きたのか、赤いスイカは沈む私に語りかけてくることはなく、塩を受けてその身体を一層キラキラさせながら、佳苗の口の中へどんどん消えていく──


 (了)

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