都市のゾンビは自由にする
hino
●1 宅配
国道に入ったところで
道路に飛び出してきた間抜けなゾンビを、誰かが轢いたか撥ねたかしてしまったらしい。
いつものことだと割り切っている津和野は小さく息を吐くと、タバコを一本取り出す。
列の先頭ではガスマスクと白い作業服を纏った清掃員たちが、道路のあちこちに飛び散った肉片を拾って半透明のビニール袋に投げ入れている。
一時的には全世界を震撼させた「ゾンビ」という存在も、今では都会における野良猫やカラス、田畑における猪やアライグマと同じ程度の害獣的存在として認定されて、以来よく見られる光景である。
出張ってきた「ゾンビ対策課」──の下請けアルバイトである清掃員たちももう手慣れているもので、ミンチになってあちこちに弾けちった肉片の掃除を三十分もかからない内に終えた。
津和野が丁度三本目のタバコに火をつけようと手にしたところだった。
渋滞から抜けた津和野の車は指定されたアパートを目指す。飛び出してくるゾンビに気をつけながらの運転で、自然と速度は下がっていく。以前であれば三十分もかからなかった距離も今では倍近い時間を要した。
青色の屋根にベージュ色の壁を持つ二階建てのアパートが視界に入ってくる。部屋の数は八部屋、大きくはないがまだ新築といった建物が、ゾンビ侵入防止用の銀色をした柵で囲われている。
と、同時に。アパートの前でゾンビが三匹たむろしているのを目にした。柵に手をかけて中へ入れないかと呻いている。
無意識の内に津和野はまた小さく溜め息を吐いた。今は「ゾンビバー」が付いていない。車でゾンビを遠ざけることは不可能だ。
ゾンビ発生以降の車には「ゾンビバー」の装着がドライバー達に推奨されている。
暴徒鎮圧の「プッシュバンパー」を真似た、ゾンビを安全に撥ね跳ばすための防ゾンビ用グッズ。ゾンビ事故で運転手まで巻き込まれないようにと開発されたもので、これによってゾンビとの衝突事故による生者の被害は激減することに成功した。
しかしこの国のゾンビ保護団体の中には「ゾンビバーで彼らを避けることは非人道的だ」と啓蒙活動をしている集団がいる。そうした人間たちの一人にでもゾンビバー装着中の車が見つかろうものなら、会社の電話はクレームで鳴り止まず、メールサーバーは瞬く間に機能を停止する。そのため、
津和野は車を止める。助手席に置いてあったスーパーのビニール袋から豚バラ肉の塊を鷲づかみで取り出し、もう片方の手で配送品の薄いダンボール箱を掴んだ。
乱暴に閉められたドアの音にゾンビたちは耳聡く反応すると、津和野に向かって呻きながら歩み始める。
通常、彼らの動きは緩慢で、一般的な成人男性の歩行速度よりも遅い。
津和野は鈍足で歩くゾンビたちの前に豚バラ肉を投げ捨てた。べちゃりとした音を放ち路上に散らばる豚バラ肉。それを喰らおうとゾンビたちが奪い合いを始める。その様子を見向きもせずに津和野は横を通り過ぎていく。
彼らの手が届かない内に肉を撒く、日常的に行われる回避手段だった。
ゾンビ避けの柵を横に動かし、アパートの敷地内へと入る。柵は二メートルほどの高さでそれなりの重量があり、ゾンビの侵入を防ぐには良いが、こうして人間の邪魔もする。
二階に着くと部屋の確認をする。表札には「
ブザーを鳴らす。
反応はない。
もう一度、今度はブザーから指を離さず鳴らした。
ドアの向こう側で、どすどすと床を蹴りつけるような音をたてながら住人が玄関へと向かってくることに気がつき、津和野はブザーから指を離す。
勢いよく開かれたドアから出てきた男は、吊り上がった眼で津和野を睨みつける。
黒いスウェットを着こんで、わざとらしくいきり立つ様を見せつける男を一目見て、自分と同じ二十代後半ぐらいか、やけに態度が悪いなと、津和野はそう測った。
しかし津和野は男のそんな様子を気にすることなく、自分の用件だけを伝える。
「お届け物です。こちらに印鑑かサインをお願いします」
「……ちっ」
高崎は配送品を奪うように受け取ると、津和野から差し出されたボールペンで「タカサキ」と殴り書きをする。
「……時間指定したのに、なんで三十分も遅いんだ?」
高崎はサインの書いた受領書を渡さず津和野に尋ねる。
「道路が混んでいたもので」
「それとさぁ、着く前に電話の一本ぐらい入れるのが社会人の常識じゃね?」
「そうですね。では、ありがとうございました」
面倒くさい客だなと感じた津和野はそのまま立ち去ろうとするが、
「おい! 待てよ、アンタ」
階段を下りる前に高崎の怒鳴り声に呼び止められた。
振り向くと、それまでよりも不機嫌そうな醜い顔を露わにした高崎がいた。
「なんですか?」
「なんですか、じゃねーだろ。これ、ほらココ。よく見ろよ」
津和野の眼前に荷物が突きだされる。薄いダンボール箱の角には、小さな黒い染みが幾つか出来ていた。
「なんだよこれ、汚れてんじゃねーか。それに、客に届けるはずの荷物からタバコの臭いがするってのは、どういうことだ?」
「さっき生肉を触っていたので、その血だと思います。あ、これです」
津和野がまだ片手に付着していた白い脂と赤い染みを見せると、高崎の声は一層けたたましくなる。
「そんなこと、聞いてねえんだよ! 客の商品汚してヤニ臭くしといて、そんでとんずらここうとしてんだぞ」
「気がつきませんでした。わざとじゃないです」
「わざとじゃなけりゃ、いいってもんじゃねーだろ。まず謝るのが先だろが!」
「事故なんです、ご理解してください」
自身の怒りをまるで気にしていない津和野の様子に高崎は大きく鼻息を漏らすと、一変して語気を大人しくする。
「……アンタ、名前言えよ」
「はい?」
「名前だよ、名前。アンタに言ってもしょうがなさそうだからよ、会社に連絡するわ」
高崎のその一言に、津和野は、意図して裏返えした声を出す。
「そ、それは、ちょっと。勘弁してもらえないでしょうか」
「さっさと名前言えよ」
「……津和野と申します。あの、会社に連絡は、その」
渋々と従い、しどろもどろになる津和野の態度に満足したのか、高崎は口元をいやらしく歪める。
「ツワノ、だな。わかった」
「できれば穏便にお願いします。この通り、謝罪しますから」
顔だけは困ったように棒立ちのままで応える津和野を見ると、
「謝るなら帽子取って頭下げるくらい常識だろ、馬鹿かお前は!」
高崎は怒鳴りながら戻っていく。その後ろ姿を見て津和野は苦笑した。
高崎が部屋に入るのを見送り、アパートの階段を下りようとしたところで、肉を食い終えたゾンビたちが自分の後ろをついてきていたことを津和野は知る。
アパートの敷地を囲っているゾンビ避けの柵を開けっ放しにしてしまっていたようだ。
静かに階段を上がってくるゾンビたちを見ながら、大きく溜め息を吐いた。
◇
津和野の縮こまる姿を見て気分をよくした高崎は、脅かしたような電話はかけずに届けられた荷物を確認していた。
薄い箱の中身は、たった一本の、ゲームソフトだ。
彼の予定であればもう一時間早くプレイ出来ていた。けれど配送予定時刻を過ぎても到着しないことで苛立ち、そうして津和野をストレス発散の相手として選んだ。
八つ当たりを済ませ、目的のソフトが届いて機嫌も直り、高崎はすこぶる気分が良かった。この気分のまま、宅配業者にどんな内容でクレームのメールを入れよう、文面に何を書いてやろう、そんなことを考えた。
その時、ブザーが短く鳴ったことで思考が中断される。
ドン、と。
ブザーではない。直接ドアを叩いている。さっきの津和野とかいう宅配員が泣きごとか詫びをしにきたのか、慌てているなざまぁみろ、と高崎は楽観的に捉えて無視をする。
しかしそんな高崎の気分を害するようにドアは叩かれ続ける。
ドン、ドンドン、ドン、ドン。
徐々に、乱暴になってくる音で、ついには我慢できず、高崎は玄関のドアを開く。
そのドアが、普段よりも重かったことに、苛立ちのせいで気がつけなかった。
開かれたドアの先には誰もいない。高崎には、そう見えた。
不審に思い二階の廊下へ一歩踏み出る。
津和野と名乗った配達員が、高崎の姿を見るとあからさまに足早でアパートの敷地から立ち去るのが目に入る。
「あいつ!」
咄嗟に追いかけようと動いた瞬間、高崎の目の前に人影が現れ、その肩を力強く掴んだ。
「あがっ!?」
ゾンビがそこにいた。
彼も何度か見かけたことのある、アパート付近を徘徊していたゾンビだった。
焦げたように黒く変色した細い指先が、服の上から肉へとめり込んでいく。
唐突な衝撃に、反射的に両腕を突き出し、掴んできたゾンビを退ける。押し飛ばされ転がるゾンビと入れ替わりに、別の一体が伸ばされた高崎の腕に噛みつく。
「くそったれ!」
噛み付いてきたゾンビを離すべく、腕を振るおうと動く。彼が腕ばかりを気にしているその隙に、一匹が足へと食いつく。倒れていたゾンビが起き上がり、食事に参加しようと近寄ってくる。
高崎は悲鳴を上げながらもなんとか二匹のゾンビを振り払い、ほうほうの体で部屋へ転がり込む。足首から流れる鮮血が玄関から廊下へ軌跡を描いた。
「くそっ、なんでこんな、なんでこんな所に! くそっ!」
這いずりつつも悪態を吐いて自分を奮い立たせるが、片方の手足は重く繋がっただけのおもりのように、だらりとして機能していない。
赤い線を沿う様に動いていたゾンビの一匹が床を這う高崎の上に覆い被さる。そこに更に一匹、また一匹と増えて、逃げる獲物の動きを封じた。
「ぐぶっ」
急激な重圧で高崎の意識は飛びかける。肉体は反射的に呼吸を整えようと、頭が持ち上がり床から天井を仰いだ。
その体勢が丁度良かったのか、真上に乗っていたゾンビは、高崎の頭部を抑えるとうなじへ噛みつく。噛み切れなかった血管や神経が汚く
「あっ、あっ、あびゃぁぁぁ」
高崎の口から妙に高音な奇声が放たれ、眼球はぐるりと回って白目を剥き出しにした。鼻の穴と眼窩から、つーっと半透明の赤い水が零れだす。
突如として視界が真っ暗になったことにも気がつけず、高崎は気を失うまでおかしな雄叫びを上げ続け、ゆっくりと、余す所なく
◇
幾つかの擦り傷を
タバコの臭いがする人間をゾンビは食べようとしない。
せいぜい致命傷ができるかできないか程度に襲ってくるだけだった。毎日のようにゾンビと遭遇している現場の人間以外にはあまり知られていない話である。
吸いもしないタバコの臭いが、車内にも服にもこびりついてしまっていることに、もはや諦めがついている。生きたまま食われるよりも、病気のほうがマシだというのが津和野の選択だった。
高崎の部屋から先ほどのゾンビが一匹出てくる。食事が終わったらしい。三匹全員が出てくるのを見届けると津和野は車のキーを回す。
エンジン音に反応したゾンビたちがアパートの二階廊下の縁を越えて落ちていく。どさりという大きな音を立ててぐったりと動かない。後の二匹も同じように地面へ激突して、ただの死体になった。
動かなくなったゾンビたちを見かけたら、誰かが役所へ連絡し、焼却してもらえなければ、数十分は死体のままだ。放置しておけばゾンビたちは再び起き上がり、高崎のような犠牲者が出ることになる。
けれど津和野にそんなことは関係なく、何より、仕事中には面倒な手続きだった。
津和野は車を発進させてからはたと気がつく。顔と服が自身の血で汚れている。次の配送先に行く前に着替えが必要だなと思い、また大きく溜め息を吐いた。
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