エンターテイメント小説とは?(『作家の値うち』を読む)
この本は、エンターテイメント編と純文学編の二つの章があり、小説家はその二つのどちらかの陣営に属するように扱われている。
小説をエンターテイメントと純文学に分類するのが正しいかどうかも、意見が分かれるところだと思う。が、私が問題にしたいのはそのことではなく、「エンターテイメント」という言葉の意味が一般的な意味での「娯楽」という意味ではないのかもしれない。ということである。
この本の「エンターテイメント編」に出ている作家のメンバーを見ると、2000年当時かなり売れていたと思われる作家が入っていない。
具体的に書くと、赤川次郎・西村京太郎・内田康夫のミステリー組。それからバイオレンス小説の勝目梓・西村寿行。そして田辺聖子・瀬戸内寂聴・曽野綾子の女流組。
これらの作家に共通することは何か?
私がすぐに思いつくのは次の2点である。
1 作品を量産する流行作家である。
2 芥川賞及び直木賞をとっていない(田辺聖子は例外)。
女流の3人と他の男性作家たちとは、出版界や文壇における位置とか作家業の進め方などがかなり違うので、取り上げられなかった理由も異なるようだ。
瀬戸内寂聴と曽野綾子は、この頃はもう小説はあまり書いていなくて、それぞれ仏教エッセイスト・キリスト教エッセイストになっていた。田辺聖子ももうこの頃はエッセイばかりで小説はあまり書いていない。だから小説家として現役かどうか、という視点から見て取り上げられなかった可能性もある。
一方男性陣の5人は、この頃小説を量産してかなり売れていた。特に赤川・西村・内田は毎年ように作家の長者番付ベスト10に入っていた。
それではなんで取り上げていないのだろうか。
5人ともいわゆる娯楽小説作家で、文芸的とはみなされていなかった、ということが大きそうだ。直木賞をとれなかった(とらなかった)のと似た理由である。それと、あまりにも作品数が多すぎてどうやって取り上げる作品を選ぶのか悩ましかった、ということもあるかもしれない。
「エンターテイメント」という言葉は日本語に訳すと「娯楽」だが、福田氏は、「読者から面白い小説として支持され、売れていたかどうか」だけを問題にしていたわけではないようだ。
エンターテイメント小説という分類名を使っているが、別の言葉で言えば少し前の時代の中間小説という範囲で考えているのかもしれない。あるいは、エンターテイメント小説というものについては一応娯楽小説という意味で考えているが、娯楽ではあってもそれなりに文芸的な観点から批評すべき。という考えなのかもしれない。
そう考えると上記の5人の作家が取り上げられていないのも不思議ではない。
こうした量産作家も批評の対象に入れていくとさらに視野の広い本になるような気がする。が、こうした量産作家を批評する場合、商品学の観点をとるのか文芸的に批評するのか、というなかなか難しい問題もあるので、あまり簡単にはいかないのかもしれない。
ところで、唯一この時代の量産作家で取り上げられている作家がいる。それは、栗本薫なのだが、本書に書かれている栗本に対する評価を見ると、「天才」だの「情熱が溢れている」だのという通り一遍のほめ言葉で終わっている。
こういうところが、よくも悪くもこの本の特徴である。
※ 文芸に関する記事は下記のブログにもあります。
『東野圭吾の考読学』
URL:http://ooyamamakoto.hatenablog.com/entry/2018/06/27/211407
検索;考読学
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