おまけの話 カラス
カア~!
カア~!
カア~!
日暮れに洗濯物を取り込もうとベランダに出た女房が、突然、大声で俺を呼んだ。
「あーた! ちょっと来てくんろ!」
まるで隣の奥様が、いま正に魔法を使ってTVのチャンネルを替えたり、
部屋の電気を消したりするのを運悪く(?)目撃してしまう、
かつてのTVドラマ『奥様は魔女』のグラディス夫人のような興奮ぶりで言うものだ
から、
「それは魔法じゃなくリモコン使ったんだろう。いまの世の中なんだってリモコン
なんだからさ」とグラディスの夫の調子で言ってやったが、
できれば俺だって、お前さんをリモコンで消してしまいたいぐらいだよ───とは
実際強く思ったが、それは言わずに、邪魔くさそうにベランダに出てみると、女房
のやつ、なにやら不安げな表情で、両手に洗濯物を大事そうに抱えているではない
か。
「何やってんだ、お前は?」
「何やってるって、コレ見てよ!」
女房は、そっと洗濯物を俺の前に突き出した。
「それって、俺のサルマータじゃないか」
「て、なにベルサーチみたく言ってんのよ! それより中よ、なか、中を見てほし
いのよ」
なるほど猿股は中に何か入っているらしく、やけにもっこりと膨らんでいる。
その猿股が突然もごもごと動き出すと、中から何かが顔を出してクルックルゥー。
「なーんだ。ハトじゃないか!」
「ケガしてるみたい」
「そういえば、さっきカラスが鳴いていたな。襲われたんだろう。ケガの程度
は?」
「首筋から血が出てるくらいで、ほかは大丈夫みたい」
「だったら、放してやれよ」
「でも、この子、怖がって震えてるし、またカラスに襲われるかもしれないわ」
女房のやつ、もうすでに飼っているかのように、ハトのことを「この子」という。
「もうカラスは去ってしまったし、そもそも野生の動物を飼っちゃいけないよ。ケ
ガだって大したことないのに、安易な気持ちで保護しちゃうと、それに甘えちゃっ
て自立できなくなるんだぞ。もう自然へは帰れない」
カア~!
カア~!
カア~!
「あ、またやって来たわ!」
女房の言うように、カラスの鳴き声が近づいてきた。
「ね、いいでしょう? 一日だけ……」
「わかったよ。わかったけど、あした穿いてくんだから猿股だけは返してくれよ」
でないと……と、もし俺がハトの入った猿股を穿いていけば、きっと会社では、
みんなにバカウケだろうな……と考えて薄ら笑っていると、
ベランダの手摺にとまっていたらしいカラスがひと際大きな声で、
アホウ~!
二、三日後、朝食時に俺は、あることに気がついた。
「おい! なぜ俺があいつと同じものを食わなければならんのだ!」
部屋の隅で、保護したハトがコーンフレークを食べている。
「なにいってるのよ。あなたがあの子と同じものを食べてるのじゃなく、あの子が
あなたと同じものを食べてるだけよ」
「な~んだ、そうだったのか。わるかったな……て、ちゃうやろ! もういい!
それより、さっきから俺のことを、ベランダの植木鉢の陰からチョロチョロ覗いて
いるやつはなんなんだ!」
「あ、ばれちゃった?」
「ばれちゃった、てお前」
「どうやら家族らしいのよ、この子の」
「この子の、ってお前いい加減にしろよ! もう、ケガなんて治ってるんだから、
さっさと自然へ帰せよ!」
「そんなに声を荒げなくてもいいでしょう。あなた、ほんとうは餌代のこといって
るんじゃないの? だったら私のお小遣いの範囲でやるからほうっておいてよ!」
「いいや、そんなことを言ってるんじゃない……」
女房は、一旦へそを曲げると手がつけられなくなってしまうのだ。
だから結局最後は、俺が折れることになる。
「とにかくお前の責任でやれよな。おれは知らんから」
「わかったわ、大丈夫よ」
「明日から一ヶ月、海外へ出張だから、帰ってくるまでにはなんとかしておけよ」
「オッケー! まかせといて」
機嫌をなおした女房はベランダのサッシを開け、外にいたハトを招じ入れた。
「はーい、ドベちゃん! きょうからピゲオンくんが仲間になりますよ~」
俺は呆れて開いた口が閉まらない。いつの間にか名前まで付けていやがる。雄雌の
区別もつかないのに……。
一ヵ月後。
出張から帰ってきた俺は、最寄り駅から自宅マンションへと重い足を引き摺ってい
た。
結局、期待していた成果は上がらなかった。いや、むしろ相手を怒らせてしまった
かもしれないので、これ以上下手をすればクビになる。
思わず立ち止まってしまった俺が、ため息をついてからふたたび歩き始めたちょう
どその時、頭上すれすれを一羽の鳥が猛スピードでかすめ飛んでいった。
クルックルゥー!
それはハトだった。羽が一枚、夕焼けの空をクルクルと舞い落ちてくる。
その後を追ってきたらしい、黒い大きなカラスが追うのを諦めたのか急上昇する
と、側の電信柱の上に降り立った。そして、俺を見てひと声鳴いた。
アホウ~!
「て、お前かい! お前のほうが逃げられてばっかりでアホウじゃないか!」
と俺は言ってやった。こいつは、女房が保護したハトにケガをさせた犯人に違いな
かった。
しかし、今のハトはすばしっこかった。いつもカラスや猛禽類に追われていれば、
そりゃ自然の摂理で、やられてしまうやつはいるだろうが、総じて強くなっていく
ものだろう。
もちろん、追いかけるカラスや猛禽類も強くなっては行くだろうが、すべてを食い
尽くすことはない。
そう考えると、女房がしたことは褒められたことではないだろう。
ほんとうに保護すべきは、お年寄りや子供、飛びたくても飛べない病気やケガを
被ったハトたちであって、少しくらいのケガであればオロナイン軟膏でも塗って
やって、豆の一つでも食わせれば、また大空へ飛び立たせたほうがいいのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、いつのまにかマンションに着いていた。
エントランスでエレベーターを待っていると、柱の陰から一羽のハトがトコトコト
コと歩いてきた。
そいつが俺の顔を横目で見上げてクルックルゥー。
エレベーターが到着し、俺が乗り込むと、横目のハトもついてくる。
「で、おたくは何階? 俺は7階だけど」
一応、訊いてやったけれど、しかしハトがエレベーターに乗るのかね?
7階に着くと、横目のハトは俺を差し置き先に下り、体を左右に振り
ながら歩き出した。
俺はそいつを追い越して、自宅である702号室のインタホンを押したのだが、応
答がない。
気がつけば、いつのまにか横目のハトが足元までやってきていた。
嫌~な感じがした俺は、持っている鍵でドアを開けてみたのだが……。
クルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥー
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クルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥー
クルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥークルックルゥー
部屋中、飛ばないハトだらけだった。
(了)
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