第23話 甘い汁


 人生には色々な人たちとの再会があるけれど、いつも懐かしいとは限らない。



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 山下健一はテーブルの上に空の財布を投げ出した。半年前に入社してきた猪瀬に


金を渡すのは、これで六度目である。猪瀬は前の会社の同僚だった。



 山下が今の会社に就職できたのは、人事課の責任者が前の勤め先に退職理由を聞


き合わせなかったからだろう。もし退職の、いや解雇の原因が横領であるとわかっ


たら、どんな会社も山下を雇ったりはしないのだから――。いくら身に覚えのない


ことだと言っても、山下の鞄の中に会社の金が入っていた事実は否定できない。お


そらく反りの合わなかった猪瀬の仕業に違いないのだが、それを証明するものは何


もなかったのだ。



 山下は追われるように街を離れた。そして誰ひとり知る人のいないこの街へやっ


てきたのだ。だからふたたび猪瀬に出会うまでは、今の会社では山下の秘密を知る


ものは誰もいなかった。



「やっぱり山下さんじゃないですか」


 退社時刻が過ぎて駅に向かっていると、突然後ろから声をかけられた。


 振り返った山下は、「まさか!」と小さく叫んでいた。


 見覚えのある男がニタリと笑って、


「猪瀬ですよ」


 山下にとっては二度と顔を見たくない相手だった。目をそらして無視すると、


「冷たいんだなー。五年も一緒に働いたんだから忘れるはずないんだけどなあー」


 まったく虫唾の走る奴だった。


「ああ、覚えている。けど、何か用か。俺はないけどな!」


 山下は腹立たしげに言った。


「いやだなあー。今日入社したんです。そしたら経理課によく似た人がいるじゃな


いですかー」


「……ま、まさか営業の新人っていうのは――」


「ええ、そうです。ぼくですよ」


 山下は目の前が真っ暗になった。


「ちょっと一杯行きましょうよ。もちろん山下さんのおごりでね」


 その居酒屋で、猪瀬は山下の秘密を口外しないからと毎月五万円の口止め料を要


求した。


 山下は渋々それを受け入れた。


 今の会社に入って三年、山下は無我夢中で働いてきた。その甲斐もあって、おそ


らく次の経理課長は山下だろう、と言われるようにまでなった。その信頼と地位を


失うわけにはいかなかった。



 月に一度、最終の日曜日に猪瀬は近くまで金を取りにくる。


 受け渡し場所は、前日に電話があってその都度変わった。


 会社では同僚に見られる恐れがあるし、振込みにすると証拠が残るので猪瀬は


嫌った。


 とにかく悪事にかけては慎重な男だった。


「せめて近くまで集金に行かせてもらわないと、バチがあたりそうなんでね」


と電話の最後に言って得意気に笑う。



 ――このままでは死ぬまで甘い汁を吸われてしまう――



 山下が空の財布をぼんやり見つめながら時間も忘れて考え込んでいるうちに、す


でに外は夜の気配になっていた。


 立ち上がって部屋の電気を点けると一匹のカブトムシが室内に飛び込んできた。


 照明器具にぶつかると、目の前のテーブルの上にトンと落ちた。


 見ると立派なYマークが反り返っているので雄である。


 しかし、動きは鈍くて弱っていた。


「そうか。いらいらしていて窓も閉めずに出かけていたのか……」


 山下には、戻ってから窓を開けた記憶がない。


 猪瀬の電話にかっとなって窓も閉めずに飛び出していたのだ。


 山下はカブトムシを掴んで窓の外へ投げようとした。――が、ふと思った。


 ここはマンションの七階である。元気のないカブトムシがそのまま真下へ落ちれ


ば死んでしまうかもしれない。あいにく下はコンクリートの駐車場だ。


「お前もかわいそうな奴なんだな……」


 山下は投げるのをやめた。


 別に飼おうとは思わなかったが、水に砂糖を溶かし蜂蜜を加えたものを作って与


えた。


 カブトムシはテーブルの上で時々足を動かしながら、皿の甘い汁を吸っていた。


 山下はその様子を観察しながら夕食のカップラーメンを啜った。


 しばらくするとカブトムシはすっかり元気を取り戻したようで、背中の殻をパカ


リと開き茶色く透けた翅を拡げるとブーンと闇の中へ飛んでいった。




 次の土曜日の夕方だった。


 山下が部屋の灯りを点けると、窓に何かがあたるカツンという乾いた音が聞こえ


た。


 見るとカブトムシだった。


 山下が窓を開けてやると、一匹の雄のカブトムシが飛び込んできた。


 たぶんこの間のカブトムシだろう、六日ぶりだなぁ、と思っていると、続いて角


のない雌のカブトムシも室内に飛び込んできた。


「何だ。奥さんを連れてきたのか……」


 山下は前回と同じように甘い汁を作ってやった。




 翌日の日曜日も、夕方に部屋の灯りを点けるとカブトムシが飛び込んできた。


 数えてみると全部で七匹。昨日の夫婦の家族だろうか……。


 山下は同じように甘い汁を作ってやった。


 平日の昼間は仕事があるので帰るのが遅く、夕方にカブトムシがやってきている


のかどうかはわからなかった。




 しかし土曜日がくると、夕方どこからともなく――多分、裏山だろうとは思うの


だが――カブトムシは飛んできた。


 数を数えてみると全部で三十二匹。




 翌日の日曜には百五十七匹だった。




 そして次の土曜日には数えるのが大変だったが七百八十二匹だった。


 カブトムシは一定の法則で土日にやってくるのだった。


 最初に一匹のカブトムシがやってきた。その次は夫婦、そして五匹の子供をつれ


てきた。


 そしてその次には子供たちがそれぞれ五匹の子供(最初のカブトムシからは孫)


をつれてきた。


 その子供(孫)たちもそれぞれ五匹の……。


 一、二、七、三十二、百五十七……。


 山下にはそうとしか思われなかった。




 翌日の日曜日は、とても数を数えることはできなかった。


 しかし、今までの増え方から計算すると三千九百七匹のはずであった。


 餌代もばかにならなかった。とりわけ蜂蜜が高かった。




 次の土曜日には計算でいくと一万九千五百三十二匹のカブトムシがやってくるこ


とになる。


 一リットル入りの蜂蜜のビンが何本いるのだろうか、山下は心配した。


 また、心配とは別に目論見もくろみもうまれた。


 デパートでカブトムシを販売しているところを見るとこれで金儲けができるので


はないか、そうすれば猪瀬に脅し取られる口止め料も難なく払える。


 次の土曜日にやってくる約二万匹のうち半分が雄であると考えると、雄百円とし


て百万、雌は半額の五十円として五十万、合計百五十万の売り上げである。投資と


考えると餌代も大したものではなかった。




 実際土曜日にやってきたカブトムシは想像以上だった。


 まるで市場の雑穀屋の桶に盛られた小豆の山を、映画館のスクリーンに映し出し


たようだった。てかてかと光沢のある体が幾十にも重なってひしめき、もぞもぞと


うごめいていた。


 山下は今朝買ってきた直径一メートル五十センチはあろうかと思われる大きなビ


ニールプールに、たっぷりと蜂蜜を混ぜた甘い汁を作ってやった。


 先を争ってビニールプールへ転げ落ちていくカブトムシが甚だ滑稽に映って、山


下の心をなごませた。


 しかし、一本の電話のベルが山下を暗い奈落へ蹴落とした。


「山下さん? ぼくです。猪瀬ですよ。明日は午後五時に、裏山のお地蔵さんまで


集金にうかがいますので……たのみますよ!」


 山下は一言も答えなかったが、猪瀬はそれだけ言うと電話を切った。


 山下は鳥肌だっていた。心底ぞっとした。


 裏山にお地蔵さんがあるというのは、地元の者でもあまり知らない。新たな強請


のネタを捜して、猪瀬は山下の近辺を嗅ぎまわっているのだ。そこからだと真横か


ら山下の部屋の中を覗くことができるのだ。


「もう、我慢できん!」




 日曜日の映画館も、夜の部は空いていた。


 山下が映画館を出たのは午後の十時を過ぎていた。考えた末、約束の場所へは行


かなかったのだ。


 しかし、万が一ということもある。


 とにかく猪瀬に電話をしなくてはならなかった。


 もし電話に出てくれば、謝って、金は来週の日曜日にでも支払うしかない。


 猪瀬にしたって、山下の秘密をばらしたところで自分の利益にはならないことぐ


らいは知っている。あいつの目的は金だから、それぐらいの融通は利くはずであ


る。


 山下は駅から電話をかけた。


 しかし、二十回コールしてもつながらなかった。




 ──その日、五時に山下は戸締りをせずにマンションを出た。窓を開け、部屋の電


気は点けておいた。


 約束の時間に山下が現れなければ、猪瀬は山下の部屋まで来るのはわかってい


た。裏山のお地蔵さんから見れば、窓が開いて電気も点いている。


 おそらく腹を立てて乗り込んできたことだろう。


 猪瀬なら待っても十分か十五分だ。気の短い奴だった。


 部屋には鍵がかかってないので、もちろん上がってくるだろう。


 テーブルの上にはラップをした特上の握り寿司と未開封の清酒が一瓶。それを見


て猪瀬はちょっと落ち着く。


「なんだ、そういうことだったのか」と一人合点などして、酒好きで食うことに卑


しい猪瀬は清酒の封を切って、まずはコップで一気に喉を潤し、一番最初に大トロ


に手を出すのはわかりきったことだった。


 山下がなかなか戻ってこないことなど不思議がる前に、部屋の隅やテーブルの下


などに置いてある大小のビニールプールに気を取られるのは計算済みのことだっ


た。中を覗けば、甘い匂いの蜂蜜がたっぷりと入れてある。


「何だ? これは……」と、あれこれ考えてもいっこうにわからない。


 猪瀬の脳味噌では考えもつくまい。


 しかし、何か異常だと気づいた時にはコップで二、三杯の酒をあおり、鯛や甘エ


ビとは別に二つ目の大トロはすでに胃の中へ落ちている。酔いがまわって眠たく


なって、


「きょ、きょふは……酔ひが、は、はやく、まわるぅわい……」とか何とか大欠伸


しながらごろりと横になるのは、まさに山下の計画通りである。


 ネタをばらせば大トロには睡眠薬が少々しこんであるのだ。


 午後の六時を過ぎれば、甘い汁を求めた彼らがやってくる。そう、十万の大群で


やってくるのだ。


 正確に言えば九万七千六百五十七匹のカブトムシが……先を争い猪瀬の体の上で


ひしめき、うごめく……。



                                (了)

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