第22話 聞かなきゃよかった!
──世の中、聞きたくっても聞かないほうがよいということもある。
たとえば次のお話のような……。
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桜が咲いて……桜が散って……、
もう冬の将軍様も北へとお戻りになって、
お日様が、やけに陽気にはしゃいでいる。
たまに、あら? という気配を感じてお庭を見渡すと、
重なり合った木立の葉っぱがさらさらと歌いだし、
地面では木漏れ日がきらきらと踊っている。
わたしは気持ちのよい風の匂いを感じて……、
ああ、やっと春がやってきたんだ、とひと安心。
猫のニャンタマは縁側の陽だまりの中でまるまっている。
だからいくら呼んでも「にゃ~」とじゃまくさそうに返事するだけだ。
わたしは居間に寝転んで、新しい教科書を読んでいる。
一年たてば、かわいそうなくらい乱暴にあつかっているだろうに、
いまは折り目もつけずに、軽く手で押さえながら……。
大好きなお母さんは、そばでアイロン掛けをしている。
だから洗濯物を拡げるたびに、甘い花の香りが漂ってくる。
なんと幸せなひと時だろう!
いま、この世の中で、私は一番の幸せ者だ――。
『ありがとう』――これは神様への感謝の気持ち。
『ごめんなさい』――これは世界の不幸な人たちへのお詫びの気持ち。
そしてお父さんとお母さんに、
『生んでくれてありがとう!』
「ねえ、お母さん! どうしてお父さんと結婚したの?」
わたしは教科書をたたんで、お母さんの前に正座した。
「あんた、急になに言うのよ……へんなこときかないで……」
お母さんは顔も上げずに、アイロンを掛けている。
「ねえねえ教えて、恋愛? それともお見合いなの?」
わたしはおどけた素振りで、下から顔を覗き込んだりする。
「なにばかなことやってるのよ。おやつだったら冷蔵庫に入っているから……」
お母さんはうるさそうに、あいている左手でわたしを追い払おうとする。
もう~、ハエじゃないんだから……。
「はいはい、もちろんおやつはいただきますよ~」
子供にとって何が大事って、それはおこづかいとおやつに決まっている。
冷蔵庫を開けてみると、シューアイスが入っていた。
抹茶は苦手だから、ストロベリーにしよう。
キッチンのイスに腰掛け、きれいに洗った指先でシューアイスを摘みながら居間
に向かって、
「ねえ、教えてよ。お父さんは初恋の人だったの?」
「子供がなにいってるのよ」
お母さんはアイロンをたて置いて、お父さんのワイシャツを叮嚀にたたみ始め
る。
「ねえ、教えて! ねえ~、教えて~よ」
「あんたもしつこいわね! そんなところはお父さんそっくり――」
「新婚旅行はどこへ行ったの? ハワイ? オーストラリア? えっ、それと
も……ヨーロッパ! ねえねえ、教えてよ~」
居間から見える、お母さんの後ろ姿が静かに止まった。
「ねえ、教えてくれたっていいじゃない! そうだ、プロポーズの言葉は?」
突然、ワイシャツが天井近くまで舞い上がった。
つづいて、アイロン台が烈しく壁にぶちあたった。
わたしはシューアイスのふた口目を食べようと開いた口が閉まらなかった。
シューアイスよりも冷たいものが、わたしの背中を流れ落ちた。
立ち上がったお母さんは、わたしのほうに向かって仁王立ち――。
全身がわなわなと震えている。
「ふん! そんなに知りたけりゃ教えてやるよ! あたいはね、あんないい加減な
男とは結婚なんかしたくなかったんだ! あいつはあたいとつきあいながらも陰で
は別の女ともつきあっていたのさ。いっつも嘘ばかりついて、金があれば博打ばっ
かりで、デートだよ、あたいとのデートだってほとんどパチンコ屋に入りびた
り……。そりゃ、あたいだってほんとうのところはあばずれさ。でも、こんなあた
いでも好きだっていってくれた男もいたし、あたいもその人についていこうと思っ
た。結婚して、幸せになろうと思ったんだよ。でも、できなかった。できなかった
んだよ……。へどが出るほど嫌なあんたのお父さんの子供を……つまり、あんたを
身ごもってしまったんだ――」
わたしは……わたしは身動きが取れません。
指に挟んでいたシュークアイスはいつの間に落ちたのか床の上で溶けています。
ただ、わたしは……あんぐりと、あんぐりと……。
――ああ、聞かなきゃよかった!――
神様のいじわる……。
(了)
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