第22話 聞かなきゃよかった!

 ──世の中、聞きたくっても聞かないほうがよいということもある。


 たとえば次のお話のような……。



*************************************



 桜が咲いて……桜が散って……、


 もう冬の将軍様も北へとお戻りになって、


 お日様が、やけに陽気にはしゃいでいる。




 たまに、あら? という気配を感じてお庭を見渡すと、


 重なり合った木立の葉っぱがさらさらと歌いだし、


 地面では木漏れ日がきらきらと踊っている。




 わたしは気持ちのよい風の匂いを感じて……、


 ああ、やっと春がやってきたんだ、とひと安心。




 猫のニャンタマは縁側の陽だまりの中でまるまっている。


 だからいくら呼んでも「にゃ~」とじゃまくさそうに返事するだけだ。




 わたしは居間に寝転んで、新しい教科書を読んでいる。


 一年たてば、かわいそうなくらい乱暴にあつかっているだろうに、


 いまは折り目もつけずに、軽く手で押さえながら……。




 大好きなお母さんは、そばでアイロン掛けをしている。


 だから洗濯物を拡げるたびに、甘い花の香りが漂ってくる。




 なんと幸せなひと時だろう!


 いま、この世の中で、私は一番の幸せ者だ――。




『ありがとう』――これは神様への感謝の気持ち。


『ごめんなさい』――これは世界の不幸な人たちへのお詫びの気持ち。




 そしてお父さんとお母さんに、


『生んでくれてありがとう!』




「ねえ、お母さん! どうしてお父さんと結婚したの?」


 わたしは教科書をたたんで、お母さんの前に正座した。


「あんた、急になに言うのよ……へんなこときかないで……」


 お母さんは顔も上げずに、アイロンを掛けている。


「ねえねえ教えて、恋愛? それともお見合いなの?」


 わたしはおどけた素振りで、下から顔を覗き込んだりする。


「なにばかなことやってるのよ。おやつだったら冷蔵庫に入っているから……」


 お母さんはうるさそうに、あいている左手でわたしを追い払おうとする。




 もう~、ハエじゃないんだから……。




「はいはい、もちろんおやつはいただきますよ~」


 子供にとって何が大事って、それはおこづかいとおやつに決まっている。


 冷蔵庫を開けてみると、シューアイスが入っていた。


 抹茶は苦手だから、ストロベリーにしよう。




 キッチンのイスに腰掛け、きれいに洗った指先でシューアイスを摘みながら居間


に向かって、


「ねえ、教えてよ。お父さんは初恋の人だったの?」


「子供がなにいってるのよ」


 お母さんはアイロンをたて置いて、お父さんのワイシャツを叮嚀にたたみ始め


る。


「ねえ、教えて! ねえ~、教えて~よ」


「あんたもしつこいわね! そんなところはお父さんそっくり――」


「新婚旅行はどこへ行ったの? ハワイ? オーストラリア? えっ、それと


も……ヨーロッパ! ねえねえ、教えてよ~」




 居間から見える、お母さんの後ろ姿が静かに止まった。




「ねえ、教えてくれたっていいじゃない! そうだ、プロポーズの言葉は?」




 突然、ワイシャツが天井近くまで舞い上がった。


 つづいて、アイロン台が烈しく壁にぶちあたった。




 わたしはシューアイスのふた口目を食べようと開いた口が閉まらなかった。


 シューアイスよりも冷たいものが、わたしの背中を流れ落ちた。




 立ち上がったお母さんは、わたしのほうに向かって仁王立ち――。


 全身がわなわなと震えている。




「ふん! そんなに知りたけりゃ教えてやるよ!  あたいはね、あんないい加減な


男とは結婚なんかしたくなかったんだ!  あいつはあたいとつきあいながらも陰で


は別の女ともつきあっていたのさ。いっつも嘘ばかりついて、金があれば博打ばっ


かりで、デートだよ、あたいとのデートだってほとんどパチンコ屋に入りびた


り……。そりゃ、あたいだってほんとうのところはあばずれさ。でも、こんなあた


いでも好きだっていってくれた男もいたし、あたいもその人についていこうと思っ


た。結婚して、幸せになろうと思ったんだよ。でも、できなかった。できなかった


んだよ……。へどが出るほど嫌なあんたのお父さんの子供を……つまり、あんたを


身ごもってしまったんだ――」




 わたしは……わたしは身動きが取れません。


 指に挟んでいたシュークアイスはいつの間に落ちたのか床の上で溶けています。




 ただ、わたしは……あんぐりと、あんぐりと……。




 ――ああ、聞かなきゃよかった!――




 神様のいじわる……。




                                                                                                                                             


                                (了) 

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