第8話 夢十一夜
男だったら誰だって経験がある、思春期の夢──。
朝方こっそり猿股を洗った経験が……ないとは言わせないよ!
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こんな夢を見ている……。
その日も朝から鬱陶しい雲行きだった。
私は座敷机に両肘をついて本を読んでいた。
窓の外は、昨日にもまして雲が低く垂れ込めている。
黄砂がどうのこうのというニュースも耳にしたが、それよりもむしろ曇天の下側にまで届いた太陽の赤い色を反映しているようだった。黄色ではなく、雲は全体に薄桃色をしていたのだ。雲は、というよりは視界全体が薄桃色の膜を透かして見ている様だった。
私は時折、本を閉じては窓から望める曇天に視線を
背後の襖が少し開いて、部屋の空気がうごめいた。
「清さん、入りますよ」
恵子さんの遠慮がちな声がかかる。
私は振り返りもせず、本を閉じ、また曇天に視線を向けた。背後の襖がさらに少し開いたようで、新鮮な空気と一緒に薔薇の花の香が流れ込んできた。
「やっぱり今日も、行かれるの?」
「ええ、そろそろ帰らないとね。いくら親友だからといっても、そういつまでもやっかいになっているわけにもいかない」
振り返った私の視線と恵子さんの心配そうな顔がぶつかった。
「あ、そうだ。健太郎君は、もう出ましたか?」
わかりきったことを訊いていた。
「はい、まるでハンで押したようにいつもと同じ時間に……」
白い、透けるような肌の色に似合う細い指先で、覆った赤い紅を差した口元がクスリと笑う。
健太郎は大学の親友だった。実直で計画的な彼は破天荒で自堕落な私と違って公務員になった。現在は村役場の出張所で印鑑の登録やその証明書の交付手続きをしている。
「恵子さんは……」
「はい。なんでしょうか」
「いいえ。なんでもありません」
迂闊にも私は、親友の奥さんに幸せですかと訊ねようとしたのである。
もし、幸せですと答えられれば多少の嫉妬と落胆はあるにしても、私にとっては喜ばしいことである。
しかし、幸せであると答えてくれなければ――。
私は、それを知っている。けれども、私にはどうしようもないのである。
「裏木戸からの小路はどこへ続くのですか?」
「竹林を過ぎて原っぱを迂回しますけど、沢沿いを下れば町へは出られますが……」
私はとりあえず出ることにした。その方が、気分的にも楽であった。
足下が悪くなるので持ってきていたジーンズを穿き、革靴をスポーツシューズに履き替えた。
やっかいになって、かれこれ一週間になる。
いくら鬱の療養のためだといっても、無理がある。それに健太郎にしたって心配になってくるだろう。
大学のクラブの交歓会で恵子さんと知り合ったのは、なにも健太郎ばかりではない。私も、恵子さんへの手紙をしたためた仲間のひとりなのだ。差し出すには及ばなかったが、そのことは彼だって知らないわけではないのだから……。
「じゃあ、お気をつけて……」
恵子さんの声を背中で聞きながら、私は裏の竹薮の中へと足を踏み入れた。
しばらく歩いていくと、後ろから女の気配が近づいてきた。足音は聞こえないが、女だと断言できるのは、ここ二、三日いつも同じ女に出会っていたからだった。
私は振り向かなかった。振り向いたとしても、そこに女がいないことは何となくわかっていた。
「お先へ、お通り……」
なんだか、いつの間にかそう口が動いていた。
「へっ、おおきに」
水玉模様のワンピースが、肩でパラソルを回しながら横合いへ顔を覗かせる。瞬間、薔薇の香があたりにたゆたう。
「どこぞへお行きやすのか?」
洋服にパラソル、で髪の毛はパーマネントがかけてあるのに足下は下駄である。
その下駄を
「実家へ帰るんですよ」
これもここ二、三日の、いつもの台詞だった。
「そら無理どすわ。そんなことしようとおしやしたら豚にあそこねぶられまっせぇ」
そう言うと女は甲高い声で笑いながら四、五メートル先まで駈けてから、振り返った。
その悪戯っぽい仕種が、妙になまめかしい。もっと、いたぶられたい気持ちになってくる。
「あのうすみません。あそことは、どこですか?」
どうやら
ただ、私の本心はむしろ、その言葉を女に言わせたかっただけかもしれない。
女は薄く笑っていた。私は次なる展開を危惧しながらも、彼女の視線に圧されて俯いてしまった。
ここで目をそらせば女は消えてしまうとわかっていながら、私は目をそらさずにはおられなかった。
そうして恐るおそる顔を上げてみると、
「ああ、やっぱり!」
一瞬の間に女は消え去っていた。と同時に何かが、私の足下をつつきだした。
見ると、ペットに飼われるような小型の豚が、私の向う脛あたりを鼻面でつついている。
私がここから逃れて町へ出るには、このミニ豚を何とかしなければならなかった。もちろん奴に負ければ私は、あそこをねぶられるのだ。
考えてみると、なんと気持ちのよいことだろうと思わないでもない。 しかし、その結果に思いをめぐらすと、恥ずかしさに顔が赤らんだ。
私は執拗につついてくる豚の鼻面を爪先で蹴った。
すると、毛のない剥き肌の鼻は「カチリ」という音を発して2センチばかり沈むと、それがスイッチであるかのように豚は四肢をピンと伸ばした状態で、紙相撲の力士のように地面の上でトコトコトコと反転した。そして私に尻を向ける。やっぱり、これも同じだった。
私は、一歩後退し身構えた。豚の短い尻尾が心持ち持ち上がると、尻のアナが開いて勢いよくガスが噴出される。豚はまるで空気の抜けた風船のようにキュルキュルと回転しながら舞い上がっていく。と同時に、次の豚がもう私の向う脛をつついているのだ。
私は、昨日までと同じことを繰り返す。次から次へと出てくる豚の鼻面を爪先で蹴り上げる。ガスの噴射に備えて一歩後退して身構える。風船のようにキュルキュルと回転しながら飛び去っていく豚を見送っていると、すぐに次の豚が足下をこづいてくる。まったく、いつまでたっても終わらない。
だから私は、ころ加減を見計らって逃げ帰ったのだ。豚は追ってはこなかったが、私はいつまでたっても町へは出られないのだった。
とにかく町へ出て、駅から列車に乗って実家に帰らなければならなかった。そのためにはどうしても、豚をやり過ごさなければならないのだ。
ところで、そもそも豚はどこからやってくるのだ? そんな疑問を抱いたのは、心に余裕が生まれたからだろう。最初は驚いたが、慣れである。いざとなれば恵子さんの待つ、いやちがう、健太郎のいる家へ逃げ帰ればよいのだからと――。
私は、足下の豚と飛び去る豚のことだけに気を奪われて、豚がどこからやってきて、どこへ飛んで行ってしまうのかまでは気が回らなかったのだ。
とにかく見極めねばならないと思った。見極めたところで、どうなるものとも思えなかったが……。
私は、豚の鼻面を爪先で蹴りあげると一歩後退し、その豚ではなく小路の前方に視線を確保した。
遥か前方の上空でキラリと光るものがあり、それが急降下しながら飛んでくる。まったく音も立てずに飛んできたそれは、私の足下でピタリと停まった。その速さに、私は避ける動作もとれなかった。
そうしてそれは、やっぱり豚だった。ミニ豚。さっそく向う脛をこづいてくる。
私は鼻を蹴り上げ、一歩後退して、その豚がどこまで飛んでいってしまうのかに神経を集中させた。
ガスの勢いが薄れても、豚は落ちてはこなかった。自らの四肢を動かして空気を掻きだした。つまり豚は大空を泳ぎ出したのだ。そうして、どんどん上昇し、ついには雲の一部となって吸収されてしまった。
私は、はっとして度肝を抜かれた。
あの曇天!
空を完全に覆いつくした桃色の雲――それがすべて豚の群れであることに、私は気づいたのである。
その数え切れないほどの豚が、空と私の間を循環しているのである。
到底、豚をかいくぐって町へ出ることなどはできないだろう。
それならばいっそのこと、豚にあそこをねぶられようか……。
けれども不安に思うことがある。
もしかして、私は夢を見ているのではなかろうか――。
この二、三日のことはすべて夢――夢の中の出来事。
だから、眼を醒まそうとすれば、私は豚にあそこをねぶられなければならないのだろう。
それが不安だ。
女は口にしなかったが、あそことは臍ではないのだ。
私に我慢できるはずはない。気持ちよく果てるだろう。
ちなみに逗留中の私の下着は、恵子さんに洗ってもらっているのだ。
(了)
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