第7話 漱石と龍之介
――優れた冒険をした人に贈られる「植村直己冒険賞」発表式で、ヨットなどで太平洋横断を何度も成功させた堀江謙一さんが「冒険特別賞」に選ばれた。――
(2009年2月12日)
このニュースを見たとき、なにかしらしっくりとおさまらない気分になった。
堀江さんが植村さんから賞されるって、どういうことなんだ? つまり、
堀江さんも植村さんも、世界的な冒険王である。
堀江さんは海の冒険王で、植村さんは山の冒険王。
ふたりに師弟関係は無かったと思うから、ますます甲乙はつけられない。
だから、あれ? と不思議に思ったのである。
年齢では少し堀江さんが上であり、世界的な冒険を達成したのも堀江さんが先だった。だから、よけいに、あれ? と不思議に思わざるを得なかったのである。
むしろ、「堀江謙一冒険賞」なるものがあって、植村さんがその特別賞を授与されるというのであれば、まだ気分的にはおさまっていただろう。
ただ、植村さんには特筆すべきことがあった。
植村さんは冒険中に亡くなったということ。そして、国民栄誉賞を受賞されたということ。だから、その植村さんを記念して賞ができたということ。
おそらく、それらが逆転の根拠になっているのかもしれない。
そこで思い至ったのが、夏目漱石と芥川竜之介の関係である。
たとえば芥川を冠した賞を夏目漱石に授与できるだろうか? という疑問。
もちろん現在の『芥川賞』ではなく、文豪を賞する『芥川文学賞』なるものを創設したとして、その賞を夏目漱石に授与することはできるのだろうか──。
その疑問が、私に『漱石と龍之介』を書かせた。
師弟関係にあった二人は木曜会で顔を合わすので、その場面を好き勝手に書かせてもらった。であるから、もちろん眉唾物であることは言うまでもない。
情けないことに、しゃればかりである。が、知っている限りの小説のタイトルやエピソードを放り込んであるので、探してみるのも一興かもしれない。
また同月に、ローマでのG7に出席していた中川財務大臣が、呂律の回らない酩酊会見をした結果、三日後に大臣辞職することになったが、その中川さんの釈明部分も無理矢理に盛り込んでいるので……。
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級友の鈴木三重吉の紹介で、夏目漱石の門下生となった芥川龍之介である。
きょうも一緒に漱石山房の木曜会に来てみたのだが、なんだかすこぶる調子が悪い。
困ったことに先ほどから先生の話が頭に入らないのだ。
それどころか、傍らの瀬戸火鉢にたぎる鉄瓶のチンチンと鳴る音が、ひとの話し声にさえ聞こえてくる。
おまけに、縁先にかぶさる芭蕉の葉の向こう側、 たしかお嬢様が文鳥を埋めなさったという庭の藪の中に、チラチラとへんな人影さえ見え隠れするではないか。
それは、なにかしら見てはいけない己の分身のようにも見えるけれど、 むしろ自分の思考の中に棲みついている河童のようにも見えるのだ。
「Quack! 俺はどうなっちまったんだ!」
とうとう頭の中の歯車が外れたか! と龍之介が、唯ぼんやりした不安にうつむいた時、その広い額にパラリと前髪が垂れ落ちたのである。
彼は、その蜘蛛の糸のようにまとわりつく髪の毛を右手でかきあげると同時に、無意識に顔を右斜め四十五度に反らせたのだが――。
「おい君! 芥川くん――」
紫檀の机にかぶさるように猫背で話していた漱石が、二枚重ねの座布団の上で背筋をのばして呼んだのである。
漱石は、門弟たちの最後尾に座す龍之介の刹那の仕草を見逃さなかった。 帯の上から、きりきりと痛む胃の辺りをさすりながら声をかけたのである。
しかし、こころここにあらずの龍之介は知らんぷりである。
というよりも、彼は壁際の瓦斯暖炉との間に合わぬ視線を結ぼうとしていた。
それは他人から見れば、まるで酒にでも酔っているようにも見えたかもしれないが、根本的な原因として考えられるのは腰痛の為に服用した鎮痛剤、あるいはワインで呑んだ風邪薬の副作用かもしれなかったのである。
「おい、芥川!」
隣に座る三重吉が、朦朧とした龍之介の膝をゆすった。
この三重吉の「おい、芥川!」という怒鳴り声が、龍之介を小一時間ほど過去に遡らせた。
ここへ来るまでふたりはカフェで恋愛のなんたるかで
龍之介は、三重吉の短篇「千鳥」の藤さんはじつにすばらしい女性であることを褒めた。そうして自分もああいうnegativeでstoicな恋愛がしてみたいと思うが、ところで「小説の中でのお藤さんが、現実の世界でのお千代さんなのだろう?」と、龍之介は漱石から聞きかじったことを匂わせて三重吉をからかったのであった。
「実は、僕の家の庭に棲みついてるキジバトはフミフミと鳴く。時々やってくるハシブトはヤヨイー!って鳴くがね……」というに至っては、龍之介自身言い過ぎを後悔したのだが……。
それをいまたしなめられたんだと勘違いした彼は、朦朧としながらも、
「それから?」といつもの受け答えをしたのである。
「はぁ? 何が『それから?』だ。君のその挑発的な『それから?』はやめたまえ。いくら口癖だからといっても我慢ならん!」
「うん。で、それから?」
まだこりずに龍之介は、顎を右手指で支えたいつものポーズを決めて応える。もちろん左手にはアナトール・フランスである。
「ばかやろう! 先生が、尋ねておられるのだ!」
振り返って様子をうかがっていた門下生がいっせいに笑った。
龍之介を除いて、一同大爆笑である。
「あ……先生でしたか、……で、なんでしょうか?」
やっと目覚めたかのように、彼は両掌で顔を下から上へなで上げたのであった。
漱石は、もったいぶった講談師がやるように、まず口元で握った拳骨にエヘン!とやってから湯飲みの茶を啜った。そうしてから、おもむろに話をはじめたのであった。
「いや、実は君の仕草を見て……いや、仕草もそうだが、君そのものに感じたことだ。私もそうだがここにいる連中の顔を見たまえ。みんな明治の顔をしておる。ただ一人、芥川くんだけがモダニズムされた顔をしている。つまり、大正の顔である。面長、そして広い額と大きな口。逆三角形を際立たせる蓬髪、だいいち君は髭を生やさないじゃないか。そしてなによりも素晴らしいのは、君のその鼻である。髪をかき上げ、反り返った顔にその鼻である。実に素晴らしい! 大正モダン……いや、大正浪漫である。……」
その後、龍之介は漱石に絶賛された『鼻』を携え颯爽と文壇へ登場し、短編の名手として天才の名をほしいままにしたのであった。
(了)
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