第6話 オオカミ
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街灯の、頼りない明かりのなかを、染井芳乃は自宅へと急いでいた。
「もう少しだったのになぁ――」
寂しさをまぎらせるために、彼女はわざと声に出して言ってみる。
丘陵地の桑畑を縫うように走る坂道には、人の姿はまったくなかった。
それもそのはず、丘の上には芳乃の家を含めても四、五軒の住宅があるだけだった。
もうほとんどの人たちは、明日の出勤に備えて眠っていることだろう。
芳乃は、せめて拓けた駅の南側に家があれば……と思うのだが、
「坪単価が二割増しだもの――」
とうてい安月給の父親には無理な話だった。
坂道を登りながら、静寂に吐いた溜め息が白く流れる。
乾いた靴音だけが耳に響いて、いっそう心細くなってくる。
夜桜見物の宴も途中で切り上げて帰ってきたのに、乗り継いだ私鉄は最終電車になってしまった。
すこし悠長に考えていたのがいけなかったのかもしれない。
タクシー乗り場を目指して走ったのは、芳乃だけではなかったのだ。
陸上選手だったのは高校生の頃の話――。
当時から1センチだって身長は伸びていないのに、体重の方はおそらく5キロ以上は増えているだろう。 だから、ハイヒールで走るのなんてもう止そう。
見た目だって格好悪いだろうし、だいいち転んでケガでもしたら大変だ。
「あれっ! ……いまの何かしら?」
芳乃は思わず立ち止まった。
いま、道端の雑草をかすめるように黒い影が飛び出すと、ものすごいスピードで目の前を横切って桑畑へ飛び込んだのだ。
身の丈というか、高さは芳乃の膝小僧の少し上くらいまであったようだ。
しかし、その高さよりも横幅の方があったように見えたのだから、きっと何か四つ足の動物に違いない。
狐か狸……?
だったら化かされぬよう、眉にツバをつけてみる。
それとも野犬かしら……?
いいえ、最近は野犬が減ったというし、また咬まれてケガをしたというニュースも聞かない。
だったら……。
「いやっ! 考えちゃダメだって――」
そう思うと、ますます考えてしまう悪いこと。
それが頭の中のスクリーンに映し出されて、恐怖はどんどん膨らんでくる。
新聞やテレビのニュースではいつも報道している。
――熊が人を襲った! ――
───食い散らかしたリンゴ、路上の血痕――。
考えれば考えるほど、芳乃の足は動かなくなってくる。
寒さではなく、恐怖が体を震わせる。
それでも視線だけは機敏に働いて得体の知れないものを追いかようとする。
道端の雑草や植え込みの中、そして桑畑の繁みの中……。
「もう、どこかへいってしまったようだわ」
芳乃は、彼女を恐怖に陥れた存在が去ってしまったことを実感した。
ほっと安心して、いま登ってきたばかりの坂道を振り返った。
「きゃ~~~~~~~~~~~~~~っ!」
芳乃の張り上げた悲鳴は天まで上昇し、一瞬凍りついた月がにが笑った。
とっさに彼女は後ずさっていた。
勢い余って、尻餅をついてしまった。
いつの間にやってきたのだろうか、彼女の背後には巨大な熊がいた。
いや熊ではなく、彼女のまったく知らない男がニヤニヤ笑いながら立っていたのだ。
頭髪を
「おや、どうしたんだい? ハニー! そんなに驚いたりなどして……。もう大丈夫だ。さぁ、おいで!」
男はいっそうニヤニヤ笑いを浮かべながら両手を差し伸べてくる。
まさか! その腕に飛び込めと言うのか――。
芳乃は腰が抜けてしまったのか立つこともできず、必死に地面を這いつづけた。
「なにも逃げなくってもいいじゃないか。マイ・ハニー、そめい、よ、し、の、さん!」
「ひ、ひぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ぃ!」
――知っている。男は自分のことを知っているのだ――
そう思うと、芳乃は無意識に立ち上がり駆け出していた。
「あ、待て! 待たないとどこまでも……ヘヘへ、追っていくからねぇ。ほんとうだよ~」
と、後方で男の声がしたあと、 カラン、ペタン、カラン、ペタン、カラン、ペタンという変な音が追いかけてくる。
――な、なに? あの音は――
芳乃は音に気をとられて、一瞬足下がおろそかになった。
「あっ!」
と叫ぶともんどりうって地面に叩きつけられ、二、三メートル転がった。
「痛っ!」
しこたま地面に擦った顔を上げると、ニヤニヤ笑いの男がまっすぐに駆けてくる。
芳乃が見ているのに気がついたのか、男は一度立ち止まってから大きくニヤ~リと笑った。笑うとまた、カランペタン、カランペタン、カランペタン……と今度は速度を速めて走り出した。
男は、右足に下駄を履いていた。
そして左足には女物のサンダル――。
「きゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
芳乃は息の続く限り叫んだ。その叫び声が矢となって男の心臓を射抜くような思いで――。
しかし、その期待も虚しく男はどんどん近づいてくる。
「いや~~~~~~~っ!」
もうダメだと観念した時、
プ~~~~~~~~~! プッ、プ~~~~~~~!
甲高いクラクションの音。
そして、男を白日の下にさらすようなヘッドライトの眩しい光。
坂道を一台の車が下ってきたのだ。
男は見えない壁に行く手を阻まれたように立ち止まり、眩しさに両手で顔を覆った。
そこへ、さらに威嚇するようにクラクションは鳴らされた。
ブッ、ブ~~~~~! ブッ、ブ~~~~~~ブ~~~~~!
「あんた! 警察に電話するわよ!」
芳乃の背後から放たれたセリフが決め手だった。
男は眩しい光に手をかざしながら……しかし、ニヤリと笑った。
そうして首の風呂敷を手でひるがえすと、
「ハニー! また逢いませう」
と言うが早いか両肩を左右に揺らしながら、おかしな音を引きずって闇の中へと溶けていった。
「あなた大丈夫だった?」
ドアの開閉の音がして、ほのかな香りとともに女性が芳乃の肩に手をかけた。
「あらあら、どろどろじゃない……それに、顔から血がでてるわよ」
緊張の糸がプチンと切れたというのだろうか……芳乃は泣き出してしまった。
女性が差し出してくれたハンカチではとても用が足せないぐらいに涙が次から次へと溢れてくる。
「こんな時間にこんなところを歩いてるなんて、あなたのお家って丘の上なの?」
声が出ない芳乃は大きく頷く。
「仕方ないわねぇ。私が車で送ってあげる。でも、そのままじゃ、お家の人がびっくりするわね」
乱暴されたわけではないのに服装がおおいに乱れている。
「私が、お洋服貸してあげる。それから傷の手当をしなくっちゃ。まかせて、私こう見えても看護師だから――」
「さ、これで完了!」
手鏡を覗いてみると、ほっぺと顎にイチゴのバンドエイドが貼ってあった。
洋服は、女性の普段着を貸してもらった。
あのあと女性は芳乃を車に乗せ、自宅へ連れ帰ったのだった。
丘の中腹から迂回して、少し山の中に入った旧家。
そこで研修医の若い旦那と暮らしている。
そうして女性はここから車で30分の隣町の開業医に勤めているらしい。
「あ、のぅ……」
今宵の体験の後遺症で、芳乃はまだうまく声が出せなかった。
「うん。わかっている。でも、ちょっと待ってね。旦那が帰ってきたらすぐに送ってあげるから……」
女性は芳乃に暖かいコーヒーを淹れてくれた。
そして、優しく背中をなでてくれる。
芳乃はぼんやりとして、掌に包んだコーヒーカップから立ち上る湯気を見ていた。
すると、不意に恐怖の瞬間が思い出された。
正常だとは思えない男のニヤニヤ笑い――。
やけに耳に残るヘンな足音――。
カラン、ペタン、カラン、ペタン、カラン、ペタン……。
「あ、ぁぁ……!」
芳乃の耳には今も、恐怖の足音が響いてくる。
「旦那の奴、なにやってるんだろう?」
女性は立ち上がって玄関を覗きに行った。
一人残された芳乃の耳には、ますます足音が大きくなって拡がっていく。
あの虫唾が走るような不愉快な音が、ますます芳乃を不安に陥れる。
その足音が突然、止まった!
同時に玄関が開くような音がして、
「あなた、お帰りなさい!」と女性の声。
どうやら、研修医の旦那様が帰ってきたようだ。
「ただいま、ハニー! 待たせたね」と──。
(了)
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