第5話 それは俺のだ!

 今回はサッカーの話を紹介しよう。

 というか、厳密にはサッカーボールの話である。


 私が小学生のころ、学校にあったサッカーボールは、やたら重くて、硬かった。見た目も、触った感触も、臭いもゴムだったのだから、多分かじってみてもゴムそのものだったに違いない。そのサッカーボールは、ヘディングすれば脳震盪を起こし、シュートすれば足の甲を骨折するという代物だった。


 まあ、少しオーバーだけれどね、そんなものだった。

 だからプロ選手であれヘディングするのを見ると、こちらの方が痛く感じたものである。


 ところで、「え? ボールってこんなに軽いのか……」と気がついたのは大型のショッピングモールが近所にできた最近のことであり、そこのスポーツ店で競技用のサッカーボールを触ったからだ。これで、ボールに対する私の誤解は解けたのだが……残念なことに私は、もう、ボールを追いかけて走り回れる歳ではなくなっていたのだ。


*************************************


 飲み屋の暖簾をくぐろうとして、ふと思い出した。

「ぼくさぁ、大きくなったらサッカー選手になるんだ。そしていっぱいお金儲けするの……」

 五つの息子を幼稚園へ送っていったときだった。つないだ手にぶら下がるようにふざけていたのが、突然まじめくさって言ったのだ。幼いながらも息子は知っているのだろう。

「ママは旅行にいってるんだよ」

と言い聞かせてあるが、いくらなんでも三ヶ月は長すぎる。しかし、そう言えば息子はそれ以上のことは聞こうとしないのだ。

 実際のところ、女房は家を出て行ったのである。酒癖の悪さと、勤め先の鉄工所をクビにされたことで、私に見切りをつけた女房は、パチンコ屋で知り合った若い男と駆け落ちし、いまはどこかの町で暮らしているらしい。

 だから、せめて息子だけにはひもじい思いをさせたくなかったし、 片親だから惨めだと感じさせてはならななかった。それが父親としての最低限の責任だったのだ。

 私は右手で払いのけた暖簾を元に戻し、飲み屋を後にして駅へとむかった。

 駅前の商店街にはスポーツ店がある。ドアを開けて中へ入った。欲しいと言っていたサッカーボールはすぐに見つかった。が、値段を聞いて二の足を踏んだ。

 いま、このサッカーボールを買えば帰りの電車賃までなくなってしまう。この夏の暑い時期に、駅五つ分の距離を歩いて帰らなければならないのだ。

 しかし、少し遅くなっても息子は幼稚園で預かっていてくれるだろう。なにより私は息子の喜ぶ顔が見たかったのだ。それで決まりだ。ボールは紙袋に入れてもらった。

 私は、その紙袋を抱えて、まだまだ陽炎立つ道を線路に沿って歩き出した。二駅ほど歩いたところで、いつも車窓から眺めていた公園へたどり着いた。見ると芝生の遊技場に面してベンチがあった。ちょうどよい具合に木陰になっていた。私はそのベンチへ腰をおろした。ガタン! と音がして傾いたのは、ベンチの脚を地面に固定してあるコンクリートが砕けているからだった。逆さまになって足元を覗いてみたが、ベンチ自体はどうということはなかった。

 一旦、歩くのを止めると腹の虫が食いつくように泣き声を上げだした。とうとう昼飯は食わずじまいだったのだが、もっとも昼間から飲み屋へ入っておればサッカーボールは買えないのだから仕方なかった。 公衆トイレがあったので、そこで顔を洗って水道水をたらふく飲んだ。なんとか腹の虫を溺れさせるために……。

 ベンチへ戻ると、また紙袋を抱えて座った。木漏れ日が地面に踊って、涼風が頬を撫でていく。いつしか私は寝入ってしまったのだった――。


「ほら、これがジダンのテクニックさ!」

「じゃ、俺はロナウジーニョだ!」

 声が聞こえて目がさめた時には、ベンチは陽だまりの中にあり、 私は全身にびっしりと汗をかいていた。

 いま、しゃべっていたのは彼らだろうか? 見た目だけで不良だとわかる少年が五人、輪になってサッカーボールを蹴りあっていた。

 アッ! ――と思った私は手元を見た。紙袋はしっかりと腕の中にあったが、中にあるはずのサッカーボールはなかった。眠っている間に、何かの弾みで紙袋からこぼれ落ちたらしい。ああ、なんてこった!

「あれは俺のサッカーボールだ!」そう思ってみても、駆け寄って返して貰うだけの勇気がなかった。ふと、息子の顔が浮かんでくる。「あいつは……」不甲斐ない父親のためにサッカー選手になって金儲けする気なのだ。それが幼いながらも今の息子の夢である。その夢を邪魔されるわけにはいかない! 私は敢然と立ち向った。そして叫んだ。

「それは俺のだ!」


 どれくらいの時間が経過したのか……私はベンチの前の芝生に転がっていた。少年たちに返せと迫ったが、ダメだった。私のものであるという確かな証拠は何もなかった。紙袋は、お店のオリジナルでサッカーボールを特定するものではなかったし、肝心のレシートは、店を出ると丸めて捨ててしまっていたのだ。

「なあ、おっさんよ、自分のだったら名前ぐらい書いておけよ!」

「書いてなくても、それは俺のだ! 俺の息子のサッカーボールだ!」

私はそう言うなり、一人が手に持っていたボールをひったくって逃げ出したのだが、すぐに追いつかれ、ぼこぼこに殴られたり蹴られたりした。記憶が消えたのは、赤い髪の毛の男が転がっているボールを思いっきり蹴ったときだった。同時に、他の誰かが私の後頭部を蹴り上げたらしい。まだ、頭の芯がボッーとする。

 とりあえず私はハンカチで鼻血を拭った。鉄錆の味がするのでペッと唾を吐けば、やっぱり血が混じっていた。どうやら口の中も切れているようだった。私はまた、さっきの公衆トイレへ入った。痛みをこらえて顔を洗い、しこたま水道水を飲んだ。そうして顔を上げ、鏡に映してみて驚いた。鏡はひび割れて、所々欠け落ちていたが、そこには、私ではない私がいた。顔はどす黒くはれ上がって、トンボのような目をしていた。下唇が外側へめくれ上がっているのも、内出血をしているからだろう。指先で触れてみると、痛みが電流のように流れた。

 こんな顔では、幼稚園へ息子を迎えにいけない! しかし、私以外に迎えに行くものなどないのである。

「ん?……」

 トイレ全体が、何かの音とともに微かに揺れた。

 ポーン…………ドテン……テン、テン、テン――

 ポーン…………ドテン……テン、テン、テン――

 窓から外を覗いてみると、薄暗くなった園内に10歳くらいの男の子が一人、トイレの壁を相手にサッカーボールを蹴っていた。

 私は、しばらくの間それを眺めていた。男の子は、どこかの少年クラブチームのメンバーなのだろう、ユニホームを着てスパイクを履いている。

 あれが息子であったら……。

 そう思ったとき、男の子はボールを後ろにそらせた。あとを追ってベンチのある辺りへと走っていく。

「アッ!」

 私は無意識に叫んで、公衆トイレを飛び出していた。

 足音を殺して、しかも、彼が振り返る前にたどり着かなければならない。

 ――そういう思いだけが先走っていた。

 男の子がボールに追いつき、それを蹴り上げ手の中へ落としたときには、 既に私はベンチの下にあったコンクリート片を拾い上げ、後ろ手に持っていた。

「やあ!」

「こ……こんにちは」

 振り返った男の子は、ぎょっとしてからおびえた声で挨拶をした。

「遅くまで練習かい?」

 言いながら私は、後ろ手のコンクリート片をしっかりと握りなおした。

「な、なにか用ですか? ボク、もう帰らないと……」

 私は化け物の顔である。男の子は情けない顔になる。

「うん。ちょっとね……」と一歩踏み込むが、まだ三メートルの距離がある。

「でも、ボク帰ります」

「待って! 実はそのサッカーボールのことなんだ」

 私は走り出そうとした男の子に追いすがった。

 距離は1メートルか……射程圏内だ!

「これですか?」

 男の子は、ボールを胸前で抱いている。

「そう。それだ。あのね君、それは俺のなんだよ。俺の息子のサッカーボールなんだよ!」

「でも、これは……」

「俺のだ!」


 暮れなずむ公園に、サッカーボールは三度大きくバウンドするとコロコロと転がった。それがピタリと止まった時、私はボールを払い落とした手で涙を拭っていた。なかなか指からはずれなかったコンクリート片は、すでに足下に落ちてじっとしている。呆然としていた男の子は、突然大声で泣き出すと、ゆっくり歩きながら帰っていった。

 あのサッカーボールは誰のものだ?

 あの男の子はいない。

 あのサッカーボールは、やっぱり俺のものだ!

                                           


                                                                  (了)



 

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