第2話 満月の夜に

 「おい、こら。第1話と同じじゃないか!」 とは、言わないで──。


 ただ、今度のは二人称ですので、少しは違った面白さがあるかと思います。


 「あんなに幸せいっぱいだった人が、なぜ自殺なんか……」


 という疑問の、一つの答えのような気がします。 




 ちなみに次の満月は明日です。(2016年4月22日)

 

 

その日は外で夜遊びなどせずに、明るいうちにお帰りなさい。

  でないと、あなたも……。


 では、『満月の夜に』へ──。


*************************************


 あなたはエリート商社マンだ。


 つまり、20代で会社が要求するすべての資格を取得し、30代では世界各地を飛び回った。香港、バンコク、ニューデリー、パリ、ロンドン……。最後にニューヨーク支店長を勤めて凱旋したのが2年前。ちょうどあなたが40歳の時だった。そうして今現在のあなたの肩書きは『本店営業部次長』――これはかつてない抜擢だった。


 そういえば、戻ってくるなり部長に呼ばれたんだったな、とあなたはその時のことを懐かしく思い出す。帰社の挨拶もそこそこに、部長は切り出したのだ。

 

「お前、結婚しないのか?」


「いえ、そんなつもりはありません。仕事が面白くて……」


「そうか、わかった。もう、何も言うな。わしの娘と結婚しろ!」


「えっ、でもまだお逢いしたこともありませんし……」


 常識的に考えて、上司が部下に職権で娘をもらえという場合は、大抵はブスと相場が決まっている。しかし、ホテルのロビーで逢ってみて驚いた。


 日本には、まだこんな美人が残っているんだ――。


 逢ってからは、あなたの方が積極的。


「部長、お嬢さんと結婚できない時は腹を切ります。部長宅の玄関で腹を切って自殺します!」


「ばかやろう! おれが勧めたのだから安心しろ――」


 結婚への道のりは、あなたの心配をよそにスムーズに進んだ。そうして一年後、あなたは無事に結婚し、


「金はおれが払っておいた」


 と、部長が……いや、あなたにとっては義父になるのだが、ポイと新居の鍵を投げて寄こした。通勤には少し時間がかかるのが不便だが、


「まあ、そのうちなんとかするさ」


 と、義父は威厳めかして言ったのだ。


 そうそう。そうだったよなぁ、とあなたはレールの軋みを背中に感じながら薄笑いを浮かべる。


 そのなんとかする、という約束が、来月にも実行されるらしい。義父が専務取締役、あなたが取締役営業部長に就任するらしいとは、もっぱら社内の噂である。もちろん立場上、義父は知っているのだが教えるわけにはいかないらしい。


 だから、今現在のあなたには何の不安も心配もない。仕事のこと、お金のこと、そして健康のことも……。


 そうそう、健康。あの時は焦ったよなぁ、とあなたは車窓に映った顔を覗き込んでは撫でてみる。


 健康については大丈夫か、と考えた時、きりりと胃が痛んだのだ。そういえば、年齢的にも四十二歳は厄年だ。それも大厄。突然ぽっくり逝くこともあるらしい。さっそくあなたは人間ドックで日帰り検診――。


「いやぁ、健康そのものですよ。どこも悪くなんかありません」


 医者は鷹揚に笑ってレントゲン写真を見せてくれた。もう、これで何も怖くはないし、だから不安も悩みも心配事もない。


 いやぁ……待て待て――。


「そうか、あれがあったのか」


 とあなたは、心持ち肩を落としてがっかりする。結婚して一年、妻にはまだ妊娠の兆しがない――。それが今現在の、あなたにとってはたったひとつの悩みのタネだった。


 あなたが駅に着いたのは9時を少し回った頃である。だから、もう巡回バスなどあろうはずはない。タクシー乗り場も覗いてみたが、すでに長い列ができている。


「仕方がない、歩こう!」

 と、人通りも、車の流れもない通りに沿って歩き出した。


「そうだ! 携帯で連絡しておこう」

 取り出した携帯に家からの着信履歴――。あなたは急に不安になった。余程のことがない限り、家から携帯へはかけないようにと決めてあったのだ。


 妻に、なにか不吉な出来事が……。あなたは急いでかけてみる。


 1回……2回……呼び出し音が空虚に響く。

 3回……4回……早く出てくれ!

 5回……6回……何してやがるんだ!


「もしもし……」と彼女が電話に出たときには、もう心配が頂点を極め、怒りに変わっていた。


「おい、俺だ! どうしたんだ? 何かあったのか──!」

 あなたの勢いに驚いて口ごもる妻に、あなたはさらに苛立つ。


「どういうつもりなんだ! 心配するだろう!」

 じゃ、とにかく帰ってから話しますという彼女に、

「いま言え! でないと今日は帰らない!」

 あなたは執拗に意地悪をする。


「じゃあ、言うわ。赤ちゃんができたの――」


「あ、赤ちゃん……」

 あなたはしばし呆然……何もいえない。


「だから、早く帰ってきてよね」


 それからあなたは、どこをどう歩いたか思い出せない。もうこれで、何も心配することはない。悩みのタネはなくなったのだ。だから、無性にうれしくなって丘陵地を家へと登ったのだが――。


 まったく知らない頂に出てしまった。振り返れば、遠くに駅の明かりが窺えるのだが、あたりはどっぷりと暗く沈んでいた。


 一つ、折れる道を間違えたのか……。


 そうかもしれない。しかし……それにしても暗い――暗すぎる。


 一度引き返してみるのが賢明だ、とあなたが振り返ろうとした瞬間、パッと周囲が明るくなった。


「な、なんだ!」


 思わず叫んで顔を上げると、二、三メートル離れた草叢くさむらに松の木が立っている。その松の木の枝の上には、丸くて黄色い顔が乗っていて、あなたに微笑を投げかけている。


 一瞬、腰を抜かしかけたあなたは、しかし、怖いものなどなにもない。もう一度、腹をすえて見てみると、


「な~んだ。お月さん、満月じゃないかぁ……」


 あなたは驚いた自分が馬鹿に見えてくる。仕事も、お金も、健康も、何も心配することがない。そうして、数ヵ月後にはあなたの分身が生まれるのだ。


 もう、これ以上の幸せはないのかもしれない。


 薄雲を割って顔を出した満月が、松の木のくねった枝の上で黄色く笑っている。


「そう、あなたにはもうこれ以上の幸せはないのよ」


 あなたは無意識に首を傾げている。


 赤松のひび割れたうろこの木肌に、風がかすかに悲鳴を上げる。


 二メートルほどの高さに、真横に張り出した太い枝がある。


 満月は、ここぞとばかり蒼い光を投げつけてくる。


 黄色い顔は益々黄色く笑い続け、吹き抜ける風は悲鳴を上げ続ける。


 目に入るのは、二メートルほどの高さで、真横に張り出した太い枝。


「なるほど……そうなんだ」


 何かを納得したらしいあなたはニヤリと笑うと、おもむろに草叢くさむらに足を踏み入れた。


 雑草の擦れあう音……。


 小石の弾け散る音……。


 太い枝の真下までくると、あなたは当然のように首のネクタイを解きにかかった――。まるでその行為が、ごく自然で当たり前のことであるかのようにネクタイを枝に渡し込む。


 なんだかすごく愉快になってきたあなたは、もう、微笑を押さえることはできなかった。                         



                               (了)                                                    




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る