第31話 芳醇な戦い
カニチャンプのハサミがマストをへし折りそうになる。
やっぱり二人で協力して、今すぐ倒すべきか、と思う。マストなんか壊されたら、魔物どころではなくなる。
ジャンヌも気づいたのだろう。
カニチャンプをマストから遠ざけるように移動する。すでに甲板は、カニチャンプのハサミでところどころ陥没している。あまりこの戦い、長引かせるべきではない。
蟹はジャンヌの誘導でマストから離れた。
しゅん、しゅんと、ジャンヌの顔や首や胴体を、巨大なハサミの先が狙う。それをジャンヌは、紙一重の間合いで交わすのだが……心臓が止まりそうになる。武術の心得の無い俺には、それが余裕をもって躱しているのか、本当にギリギリで躱しているのかわからない。
一瞬の隙をついて、ジャンヌが蟹の懐に入った。
キンと、金属の鋭い音が響く。スパンと、蟹の腕が一本斬り飛ばされる。続いて胴体に、二撃、三撃。バキリと、甲羅の一部が砕ける。そこへ、ジャンヌは剣を突き立てた。
ギギギギギギ!
流石の蟹も、これは効いたようだった。
ハサミを滅茶苦茶に動かしてジャンヌを振り払う。ジャンヌは剣を抜いて後退した。そして再び、剣を構える。その頬に、赤い血が滲んでいたが、それはすぐに、雨で拭われた。
これは、ジャンヌが優勢か?
そう思った時、カニチャンプが動いた。ギギギギと軋むような鳴き声を上げ続ける。次第に、その甲羅の色が変色し始めた。青銅色から海老茶色に代わる。体表から、湯気が上がり始める。
ふんわりした蟹の蒸した香りが、戦場に広がってゆく。
蟹はついに、ゆであがった。甲羅は真っ赤になって、体中から、香りと湯気を放出する。
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名前 :――
クラス:カニチャンプ(『ハードボイルド』)
Lv:8/30
・生存競争を生き残った大蟹界の猛者。
・その甲羅は、鋼鉄のように硬い。
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どんな状態だよ、と突っ込まずにはいられない。
しかしまぁ、何となく想像できる。きっとこの『ハードボイルド』モードは、カニチャンプの奥の手なのだろう。あれだけの高熱を出して、体にも負担がかかるだろうが、恐らく、全ての能力が上がるとか――そういうスキルに違いない。
それにしても、良い匂いだ。
カニチャンプは、すうっと息を吸い込んだ。
――これは、ブレスの気配っ!?
ブバァァァァ!
カニチャンプが、ブレスを吐いた。
『バブルファイヤブレスLv2』。名前の通り、炎のシャボン玉を無数に飛ばすブレス攻撃で、見る分には非常に綺麗である。が、受ける方はたまったものではない。雨が降っていなかったら、今のでこの船は大火事になっていた。
幸い、船は雨に守られて、そのブレスが当たった場所が黒く焦げるだけで済んだ。
ジャンヌは――何と蟹の懐に潜りこんでいた。所見でこのブレスを見切っただけでなく、それを逆に利用して接近するとは。
ジャンヌは蟹の腹を十字に斬った。『ホーリークロスLv1』の金色の光が船を照らす。
雨がキラキラと輝く。
カニチャンプは、しかし踏みとどまった。
再びブレスを放つ気配。ジャンヌはさらに、もう一撃『ホーリークロス』を叩きこんだ。
が、カニチャンプは耐える。
逃げろ!
俺はそう思ったが、ジャンヌはもう一発、『ホーリークロス』を放った。
しかし、カニチャンプは動かなかった。
ジャンヌの眼前、蟹の口から蒸気が溢れ出す。
ダメだ、これは高みの見物をしている場合ではない。
俺は『ダークバインド』と『デボートキュア』を同時に念じる。
カニチャンプは、ひっくり返りながらブレスを吐きだした。火の泡はそのままカニチャンプに引っ掛かり、不発に終わった。
俺は『ダークバインド』で蟹をその場に釘付けにし、『ダークアロー』を放った。そして、もう一度『デボートキュア』。
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名前 :――
クラス:カニチャンプ(『ハードボイルド』、『ダークネスカースⅢ』)
Lv:8/30
・生存競争を生き残った大蟹界の猛者。
・その甲羅は、鋼鉄のように硬い。
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我ながら下衆い戦い方だ。しかもこれは、MMOであれば「横殴り」という、プレイヤーのモラルを疑われる迷惑行為である。
だが、しょうがない。
これはゲームではないのだ。
カニチャンプは、やがて『ダークネス・カース』の呪いで静かに息絶えた。
なんというか、やっぱり黒魔術はあっけないとつくづく感じる。あれだけ派手な戦いをジャンヌと演じていたカニチャンプが、まるで老衰のように死んでゆくのである。
タンガタはというと、こっちもカニチャンプと同じようなものだった。
飛んでいる間に呪いが進行して海に落ちて消えてゆく者、船に上がってから呪いが回って、船乗りにボコボコにされる者。
嵐が収まり、魔性雲を抜けると、船乗りたちは勝利の雄たけびを上げた。
二度も魔物に襲われて、死者が出ないという奇跡的な大勝利。
(レベルが22から27に上がりました)
どうにも腑に落ちない俺は、早々に部屋に引き返した。
なんかなぁ、違うんだよなぁ。
スタミナもほとんど使っていない、汗なんか全然かいていない。この不完全燃焼感。『インフェクトカース』のためにラム酒を飲んだのが、今日イチの頑張りどころだった。おかげでまだ、胃がキリキリ痛むが――それにしたって、何て地味な痛みなのだろうか。
クティとジャンヌが戻ってきた。
船乗りたちが感謝を込めて、また肉と酒を運んでくる。
勘弁してほしいし、ジャンヌよ、君はザルか。いや、ワクか。呑みすぎだ。俺もう、暫くは何も食べたくないし、飲みたくない。
というか、俺の部屋は酒盛り会場じゃないんだぞ。まぁ、いいけどさ……。
「グリムさん」
「はい」
「ジャンヌ様が……お礼を、言っています。さきほどは、ありがとう、と」
俺は、目を開けてジャンヌを見る。
はにかみ笑顔も眩しいジャンヌである。キャリアウーマンだけど優しい上司的な、そんな雰囲気。明らかに俺よりも年下なんだけど――大人っぽいなぁ。そしてこの、全身から満ち溢れる人間力の高さ。
魔物が跋扈するこの世界で生きていれば、そりゃあ、そういう風にもなるか。とはいえ、やっぱり彼女を見ると、自分がちょっと情けなくなる。
「あれは、黒魔術ですか、と聞いています」
「そうだよ」
俺は、ジャンヌに頷きながら言った。
ジャンヌは、興味津々と、俺に向かって何か質問してきた。
「黒魔術は滅びたと、言われているのに、グリムさんはどこで、それを学んだのですか、と聞いています」
「独学だよ」
俺は短く答える。
学、といほどのことをしているわけではないが。
「さっきの魔法は、どんなものだったか、聞いています」
「あれは――」
答えかけて、俺は口を閉じた。
どの魔法も、他人に話せるような代物じゃない。苦痛を与える、とか、呪う、とか傷口を広げる、とか――俺の人格まで疑われそうだ。
「秘密、と答えておいて」
クティは、どうやらその通り伝えてくれたらしい。ジャンヌは、黒魔術についてそれ以上聞いては来なかった。それはそれで寂しくもあるが……きっと、教えたらもっと寂しいことになるだろう。
はぁ、と思わずため息をついてしまう。
俺だって男だから、少しは想像するのだ。
ジャンヌが命の恩人とか言って俺を慕って、俺にだけ従順な女剣士にならないかなぁ、とか。でもジャンヌは、男に媚びるような性質じゃない。きっと、高嶺の花とは、彼女のような女性を言うのだろう。
俺への恩は感謝の言葉と、そして今後俺のピンチを救ってくれるとかして、その借りをナチュラルに返してゆくに違いない。べたついたところがない、サバサバした、そして最も健全な関係である。
俺は別に、べたついた関係でもどんとこい、なのだが、なんだかジャンヌを前にすると、そう考えている自分の、下心さえ女々しく思えてくる。彼女の笑顔に、優しく叱られているようだ。
船乗りが、もう一時ほどで到着すると伝えに来た。
俺は最後の仮眠をとることにした。港町についたら、ゆっくり休んでいる余裕などなくなるような気がしたのだ。
なにしろ今から俺たちが行くのは、〈ならず者の町〉なのだから。
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