第17話 温泉街
石がごろごろ転がる山道を下り、町に辿り着いた。
町は湯気に包まれていて、門を抜けると、温泉宿が軒を連ねていた。通りには饅頭屋の客引きが盆に乗せたまんじゅうを配って歩いたり、黒い卵の売り子が出ていたりと、随分賑わっていた。
言葉は分からないし地図も読めないが、グリムはこの町が観光地なのだということは、すぐに理解できた。
グリムは、馬用の温泉もある手頃な温泉宿に泊まることにした。
昼間から温泉、悪くない。
所持金は金貨50枚。一年くらい遊んで暮らせる。あぁ、それもありだな。毎日朝から温泉に入って、まんじゅうを食べ、酒を飲む。マッサージも、きっと良いマッサージ師がいるだろう。
そんな生活、一週間だけでも送ってみたいと思っていた。向こうの世界では、そんな時間も金もないから、それは結局金持ちと大学生のみに許された道楽だったが、今の俺は、何と――図らずも小金持ちだ。
二階建ての宿で、その中庭に当たる部分が浴場になっている。
木板の塀で囲まれた20メートル四方の大浴場である。白い湯気が良い感じに立ち込めている。誰も入っていず、貸切風呂状態だ。
早速温泉につかり、旅の疲れを癒す。
いやぁ、本当に疲れた。
いい湯だ~、はぁ~生き返る~。
と、そこへ――。
当たり前のように、女性が入ってきた。タオルを巻いているが、女性だ。女性と言っても、子供や、老婆ではない。十代後半か、あるいは二十代の――花盛りの女性である。
どうやらここは、混浴であったらしい。
いやいや、そうじゃなくて……なんてラッキーなのだろう!
お団子にした金の髪、真っ白い肌、タオル越しのボディーラインは、非常に……非常に、性欲を掻き立てる。やっぱりもう一年くらい、ここで暮らすのも悪くない。
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名前 :ジャンヌ
クラス:ソードマスター
Lv:25/45
・新進気鋭の女剣士
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ほぅ、彼女は剣士だったのか。
女剣士。その単語だけで、どんぶり三倍はいける。
声、かけてみようかな。
先ずは、天気の話題でも――って、俺言葉わからないんだったー! ダメだろう、これ。もうそろそろ、流石に、孤独死しそうだ。夏目漱石がロンドンでノイローゼになったのもよくわかる。
言葉の壁。
それは、サッカーにおけるアジアの壁なんかよりずっと高そうだ。
あぁ、話したい。しゃべりたい。神様的存在じゃなくて、人間と話がしたい。パトラッシュはかわいいけど、やっぱり人間と言葉を交わしたい。
ちくしょう、温泉で美女の剣士と一緒なんていう、世の男子垂涎モノのシチュエーションだというのに、言葉のせいで、一言も話ができないままおしまいなんて。
はぁあーと、一人落ち込んでいると、事件が起きた。
どたばたと足跡がして、大浴場に、十数名の兵士がやってきたのだ。
兵士たちはすでに抜刀していて、俺と女剣士ジャンヌを取り囲んだ。ジャンヌは風呂の中で身構えたが、剣がないために、戦えはしないだろう。
「⟒⨡⩈⟗⟤! ⟛⩈⨊⨪⦢⟦⟟⩈⟤。⨡⩈⟣⩈⟒⨡⟒⟧⟕⩈⟒」
兵士のリーダー格の男が言った。
ジャンヌも語気を強めて何か言った。二人の口調は、互いに隙を見せぬ、鋭いものだった。当然、穏やかでない。両者の関係がどんなものなのかわからないが、こういう時は大抵、女剣士が正義。――そう、ファンタジーなら。
ノンフィクションの世界なら官憲が正しいものなのだが、さて、どうしたものか。
ジャンヌと兵士は、強い口調で言い争っている。
ここで戦いになれば、きっと俺も巻き込まれるだろうが――戦いになるだろうか。丸腰――というより、タオル一枚の女剣士と、片や剣を構えた兵士十数名。兵士たちは、どうやら彼女を連行したいらしい。
入浴時を狙ったのは、恐らく、ジャンヌが無防備になるからだろう。つまり――彼女は剣士でも、相当腕の立つ【ソードマスター】に違いない。
やがて、ジャンヌがきっぱりと何か言った。
それが引き金となって、兵士たちがジャンヌに斬りかかる。力づくでも連行するつもりか、あるいは、連行できなければ殺すつもりなのか。
しかし、やっぱりジャンヌは腕の立つ剣士だった。
ジャンヌは、襲い掛かった兵士を湯の中に落っことし、タオル一枚の格好で湯船を出た。バシ、バシっと、剣を持った兵士を、素手で倒してゆく。柔術と合気道、そして中国武術を合わせた様な、美しく、そして無駄のない体捌きと打撃。
――タオル、はだけないかな。
なんて微かな、邪な期待をしてしまった。
男の欲望というのは、本当にTPOを弁えないものである。しかしTPOを考えた所で、俺はこの場合、どうすればいいのだろうか。
逃げるか?
いや、温泉が気持ち良いし、湯船を出たら、彼女に裸をさらしてしまう。彼女がもし、俺の俺を見て動揺して、その結果、兵士の剣にざっくりやられてしまう、なんて可能性も、ないわけではない。いや、俺のソレが、彼女を動揺させるくらいものかといえば、そこまでの自信はないが……。
そんなことを考えていると、兵士の一人が、なぜか俺に斬りかかってきた。
お前は馬鹿か! 俺関係ないじゃん!
しかし、攻撃された以上、対応しなければならない。じゃないと、湯船が血の海になる。
仕方なく、しかし真剣に、襲い掛かってきた兵士に手をかざす。手のひらに黒い光が宿る。
(アクティブスキル『パペットカースlv1』を会得しました)
兵士は、その場で硬直してしまった。
何となく、操れるような気がする。試しに、武器を捨てて貰おうか。
カラン……。
兵士の手から、剣が落ちた。
一回転してもらおうかな。
兵士は、くるんとその場で跳び、体を捻って一回転した。
おぉ、すごい。
人間を操れるようになってしまった。これもまた【ダークメイジ】らしいスキルだろう。間違いなく、王道の魔法じゃない。忌避されてしかるべき術だ。が、今はその技能を最大限活用して、この状況を切り抜けたい。
他の兵士も、俺が魔法を使っているのに気づいて、襲い掛かってきた。
彼らにも手をかざす。
すると皆、同じように硬直した。
剣を離せと念じれば、剣を離す。その場でジャンプしろと念じればジャンプをする。腕立て伏せ、腹筋、背筋、腕を組ませてスキップ――俺は何をやらせているんだ。我ながら、緊張感が足りない。
ほら、ジャンヌもきょとんとしているじゃないか。
どこまで指図できるかは今度試すとしよう。今は、兵士たちを撃退するのが先である。仲間同士殴り合いをさせるか。いや、それよりも――。
俺は強く念じた。その場にいる兵士全員に術がかかるように。
そして術にかかった者は、その場で背筋を百回するように。
結果、兵士は全員その場で、おもむろにうつ伏せになると、ひょこひょこと背筋を始めた。皆、困惑と恐怖と怒りに顔を引きつらせている。
俺は兵士の一人にタオルと服を持ってこさせ、その場で着替えた。
これで何とか、彼女に俺をさらけ出さずに済んだ。
ジャンヌは俺が着替え終わるまで、俺の事をずっと見ていた。そんなに俺の本体が気になるのか? なんて……知ってるよ。気になるのは俺の黒魔術なんだろう? 皆そうだ。俺が黒魔術を使うと、そんな目で俺を見る。
「俺言葉分からないんで、よろしく」
俺は、適当に彼女に話しかけた。
それによって彼女は、俺と会話ができないのを悟っただろう。
彼女も何かそれに答えたが、何を言っているかわからない。互いにわからない同士、ここでお別れだ。俺はとにかく、この温泉街にもう少しとどまりたいんだ。悠々自適な生活をしたいんだ。文豪のような、そんな生活をちょっとはしたみたいんだ。
――だから、厄介事は、今は引き受けたくない。
強敵と戦うのは、一ヶ月後とかで全然かまわない。まだマッサージだってしてもらってないんだから。
出て行く俺に、彼女は何か言って呼び止めようとしたが、俺は構わず大浴場を出て、部屋に戻った。部屋にはすでに布団が敷かれていた。床はさすがに畳ではないが、宿の作りも布団というものにも、和を感じる。
――よし、寝よう。
これから明日まで、50時間ぐらい寝よう。そういう生活をすることを、ちょっと夢見ていた。あぁ、明日も、明後日もここでゴロゴロしていられると思うと、幸せだ。この世界に来てから、いや、社会人になってから、こんな幸福感はなかった。
うーん、布団が気持ちいい。
あぁ、眠れる。
・
・
・
・
(パッシブスキル『プレシーブセンスLv1』を会得しました)
パッと目が覚めた。
誰か来た。誰だ、部屋の扉の前にいるのは。そして、扉を今まさに開けようとしているのは。さほど嫌な感じはしないが、味方や仲間ではないのはわかる。
ガチャっと扉が空き、その人物が入ってきた。
そういえば、癖で鍵をかけ忘れていた。危ない危ない。この世界なら、寝込みを襲われることだって、充分にありうる。
さて、扉を開けて部屋に入ってきたのは――。
ジャンヌだった。
彼女は、どうしても俺を巻き込みたいようだ。言葉が通じない俺に、何をしろというのか、全く理解できない。
彼女は、ステレオタイプの、まさに「女騎士」というなりをしている。だが俺は知っている。そのサーコートの奥、鎖帷子に隠されたジャンヌの、豊富な身体を。
……いや、よそう。
そういう気持ちで女性を見る時、俺はロクな目に合わない。
「⟚⟖⨄⟣⩈⨀⟟⟜⟕⨑⩀⟛⟟」
だから、わからないんだよ、俺。その、なんとかって言語。まぁ、きっとお礼でも言われているのだろう。
「どういたしまして」
放り投げるように答える。
さて、どうするよ。俺、言葉が通じない【ダークメイジ】だぞ。彼女が『アナライズサイト』を持っていなければ、俺が【ダークメイジ】とは分からないだろうが、さっきのを見れば、俺が普通の、まっとうな魔法使いではないと理解できたんじゃないだろうか。
そこまで理解したうえで、なおかつ俺に会いに来たのか?
だとしたら、これはもう、大問題だ。ハンの町での人々の反応を見る限りでは……黒魔術を使う魔法使いに自分から近づいてくるなんて、どうかしている。自分のことながら、しかし冷静に考えれば、そうだろう。
そこまでして俺に礼が言いたかったのか。
しかし彼女ジャンヌは、部屋を出て行こうとしない。
この女性は、俺に何を求めている。【ダークメイジ】の俺に、何か頼もうというのか。いやいや、そんな厄介事に、俺を巻き込まないでほしい。俺はまだ――。
どたどたどた。
あぁ! 兵士がやってきた。
なんでだよぉ! さっき覚えたパッシブスキル『プレシーブセンス』で、姿が見えなくても、近づいてきた敵意とかがわかってしまうよ。
あいつら、完全に俺と、君を狙ってるよ。
俺関係ないじゃん……。
ちくしょう、ちくしょう!
俺は仕方なく布団を出、ジャンヌと共にもう一つの階段から一階に降りて、宿を出た。利口なパトラッシュは、すでに俺を待っていた。なんて頭の良い、察しの良い馬なんだ。それがもはや、恨めしいよ。お前も、こうなることが分かっていたというのか?
俺はもう仕方がなく、本当に仕方がなく、ジャンヌの後を追った。
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