人魚姫を見つけたあとも大して変わらない朝

岡野めぐみ

人魚姫を見つけたあとも大して変わらない朝

 翔子の一日はジョギングから始まる。

 家と職場を往復するだけの毎日にメリハリをつけたくて始めたはずのジョギングも、五年たった今では形骸化された下らない儀式のよう。

 それでもこうして習慣になった何かをやめる勇気なんかないから、翔子は今日も走る。


 漁協に勤める両親と暮らす翔子の家は海に近い。

 夏になればポツポツと赤潮の被害なんていうのも聞こえてくるような水質の良くない内海だけれども、穏やかな海に浮かぶ島々が創り出すその風景は見事。

 もっとも、その風光を余すことなく眺められる海岸線を辿る小径をジョギングコースを設定している翔子にとっては、最早よほどのことがなければ心動かされることなどない。

 コースも同じならば、その道々出会う顔ぶれも同じ。

 狭くて閉鎖的な田舎だから、土日もほとんど仕事に借り出されて近所づきあいをしていない翔子でもいつかどこかで見たことのある人々ばかり。

 けれども、そのなかでただひとり、全く素性を知らない人がいた。

 その人は、いつも折り返し地点にしている防波堤の突端の灯台の前に立っている白髪の老女。

 こんな漁村では珍しく色白で、いつも品良く着物をまとっている。

 おそらく喜寿は過ぎているだろうけれども、どこか寂しげに明けの海を眺める様子は絵になるくらい綺麗で、毎日見ていても思わず溜息を吐きたくなる。

 田舎では浮いているだろうその人のことをそれとなく両親に訊ねてみたことがないわけではない。しかし、気さくで付き合いの広い両親も何度か見かけたことはあるけれど知らないという。

 何年か前に山手の方に出来たグループホームに暮らしているのではないかと母親は推測し、何なら直接訊いてみればいいじゃないかと父親は言った。

 かといって、まさか気になるからという程度でホームに問い合わせるわけにはいかないし、挨拶を交わす以上の関係を特に希望してるわけではないので「どこの方ですか?」と訊くのも気が引ける。

 そんなわけで、その謎の老女ともいまだ朝の挨拶を交わすだけ。


 空のご機嫌以外は何も変わらない朝の始まり。

 家を出ると緩やかな下り坂。

 帰りは心臓破りの坂になるけれども、今は考えない。

 杖をついて歩くお爺さんを挨拶とともに軽く追い越し、自転車で坂を必死に登ってくる近所のお寺のお手伝いさんに軽く会釈。

 しばらく下ったところにある、昔よく通っていた駄菓子屋さんの軒先では小父さんがぼんやりと空を眺めている。ここではちょっと立ち止まって今日の天気の話をして走り出す。

 その先の雑貨屋の前では二、三人の小母さんが何やら熱心に話し込んでいる。よほど深刻な内容なのか挨拶しても返ってくるのはほとんど会釈のみ。そして、今日も会釈のみ。

 ふたり並んで手押し車を押して歩くお婆さん達はいつも今日の日付を訊いてくるから、今日も家を出る前にカレンダーのチェックは忘れない。

 お婆さんたちを追い越すと、ボタン式信号のある交差点に出る。なかなか変わらないから軽く足踏みして待っていると、高校の同級生の車が前を通り過ぎていく。

 それに手を振って横断歩道を渡ると、家の前の酒屋の小母さんが犬の散歩をしているのに遭遇。犬はどうしても苦手だから手を振るだけに留めて一気に走り抜け、古いアパートの角を曲がると海を望む小径に出る。

 突然、と表現するのが相応しいほど急激に身体を包んでいく海の匂い。

 これが夏の夕時だと、散々太陽に照らされた後だからか物凄く磯臭いけれども、同じ夏でも朝ならばとても清々しい。

 特に今日みたいな梅雨明けを迎えたばかりで快晴の朝の匂いは翔子のお気に入りだ。

 胸いっぱいに空気を取り込んで、長い小径を走る。

 時折海に浮かぶ好みの形をした小島を見つつ、しかし、淡々と。

 そのうち折り返し地点である灯台のある防波堤が近づいてくる。


 今日も謎の老女は海を見つめ佇んでいた。

 まとった着物は海を映したような碧。

 とんとんとんっ、と翔子は数段のなだらかな階段を駆け上がり防波堤に入る。

 老女のいる灯台前までさほど距離はない。

 さっと駆け抜け、翔子は老女に声をかけた。

「おはようございます」

「あら、まあ、おはようございます」

 いつも通り、今初めて気付いたといった感じで老女は翔子の方に振り向く。

 そして──いつもならばそのまますぐに海に視線を戻すのだが、なぜか老女の視線は真っ直ぐ翔子に向いたまま。

 老女の横を通り過ぎて、赤い灯台にタッチして折り返そうにも、老女に見つめられて先に進めない。

「ごめんなさいね、驚かせるかもしれないわ」

 立ち止まり戸惑う翔子に、老女は言う。

「でも、気にしないで下さいね」

 何ですか、と、いつものマニュアルにはない、そんな短い言葉を発せようとしたその刹那、老女に大きな波の手が襲い掛かった。

 ──今日は風もない穏やかな凪の日。

 なのに、まるで老女だけを狙っていたかのように、ざばりと。

 すぐ傍に立っていた翔子には飛沫の一滴すらかからない。

 いつも切ない面持で海を見つめていた老女。しかし、波の向こうに揺らぐ顔はいつになく晴れ晴れとしていて、翔子の脳裏に刷り込まれる。

 見蕩れるような微笑を浮かべた老女は波に抱かれて海へと消えた。


 呆けたように立ち尽くしてた翔子は、次の瞬間、腹ばいになって海を覗き込んだ。

 いったい何をどうしたらそうなるのかわからないが、落ちたばかりのはずの老女の姿はなく、代わりに波間にあの碧の着物がひらりひらりと漂っていた。

 しかし、それも間もなく、翔子が大いに困惑している間に、海の底へと引きずり込まれるように消えていった。

 のろのろと翔子は立ち上がり──それから、どうやって家まで帰ったのか記憶にない。


 その日は流石に会社を休んだ。理由は風邪ということにして。

 両親にはバカ正直に話した。

 ここら辺には人魚の伝説があるからねぇ、と母親は感慨深げに言い、大方キツネにやられたなと父親は笑い飛ばした。

 真相は多分、海の底の闇の中。

 それから少し考えたものの、結局、翌日から翔子は再び何事もなかったように走り始めた。

 習慣になった何かをやめる勇気なんかなかったから。

 いつもの道、そして、道々で出会ういつもの人々。


 ただ、防波堤の老女をその後見かけることはなく、代わりに山手のグループホームの作成した尋ね人のポスターが防波堤近くの電柱に貼られている――


 (了)

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