第52話 お祖母ちゃん 1

 週末になり、私はタイちゃんと一緒にとある病院を訪れていた。バスに乗って向かっている間のタイちゃんは静かなもので、時々喉渇いてない? と訊ねてくれたり。飴食べる? なんて言って、ポッケからりんごの飴をくれたりした。

 座っている膝の上にお花を抱えるタイちゃんの横で、私は通り過ぎる外の景色を眺める。タイちゃんが連れて行こうとしている病院で、私はどんな顔をすればいいのかをぼんやりと考えていたんだ。

 いくつもの自分を想像してはみても、どれもしっくりくるものがなくて、りんご飴の甘酸っぱさを口の中で右に左にやっていた。タイちゃんはいつもと変わらないようでいて、どこか落ち着かなさもあり、バスの中での私たちはいつもとは少し違うほんの少しの緊張を胸に目的地を目指す。

 辿り着いた病院は、小さくもなく大きくもなく。面会専用の入り口から入ると、薬品の匂いが鼻の奥をつんとさせた。私の周りではこの場所に長くお世話になるような人がいなかったから、清潔でいてどこかよそよそしい建物に入る事に躊躇いを感じずにはいられない。面会人用に置かれていたスリッパは、やけにツルツルとしていて。ペタンペタンと廊下を行くたびに、靴下から滑って脱げそうになってしまう。足元からスリッパが遠くへ逃げ出さないよう気にしながら歩いていたら、病室へ向かう廊下の途中で、タイちゃんがポツリポツリと言葉を零した。

「ずっと施設にいたんだけど。しばらく前から調子がよくなくて。食欲もなくなってきててさ」

 タイちゃんらしからぬ元気のない言葉が、リノリウムの廊下に零れ落ちる。スリッパは相変わらず、私の足元から滑りぬけていきそうだった。

 逃げ出さないで。逃げちゃダメ。

 まるで自分自身にでも言っているみたいに、私はスリッパに意識をやる。

 隣をいくタイちゃんは多くを説明しないけれど、私には誰のことを言ってるのかわかっていた。解っているだけに、やっぱりどんな顔をしたらいいのか逃げ出すスリッパに気をとられながらも考えていた。

「葵さんのおばちゃんには、ずっと長い間、本当に色々してもらってたんだ」

 タイちゃんは、お母さんのことを昔からと親しげに呼んでいた。何も知らなかった前の自分なら、何がおばちゃんよ、図々しい。くらいにブチブチ文句を言っていただろうけれど。今タイちゃんの口から漏れるという親しみを込めた呼称には温かみがあって、近しい人へと込めた愛が見えて。そんな風に呼んで貰えていることに嬉しくなるくらいだ。

「施設の方にも、顔出してくれてたし。家に、掃除もしにきくれてた」

 知らなかった。また、私、何も知らなかった……。

 いつになっても成長のない自分に呆れながらも、根掘り葉掘り訊くことが全てじゃないという考えもある。お母さんに訊けばきっと前みたいに教えてくれるだろうけど、それは違うんじゃないかなって思うんだ。タイちゃんがずっと私にだけ話さなかったことを思えば、タイちゃんのタイミングで、タイちゃんの話したいことをタイちゃんの口から訊くべきなんじゃないかって。だから、知らなかったことに落ち込み過ぎるのはやめておこう。

「親戚より、ずっとよくして貰ってて。ホント、いつか恩返ししなきゃって思ってる」

 お母さんのことを穏やかに話すタイちゃんの言葉を、私はただ黙って聞いていた。

 ペタペタと鳴るスリッパの音が、心臓の鼓動と重なる。その音をしばらく数えていたら、少ししてタイちゃんは立ち止まり、また廊下に小さく言葉を零した。

「病院の先生が、食欲がなくなってきてるから、覚悟はしてくださいって」

 ほんの少しだけ泣き出しそうに、声が震えている。タイちゃんの声に、私の心も震える。

 立ち止まった先のドアをタイちゃんがゆっくりと開けると、病室はとても静かだった。ベッドは六個もあるのに、そこからの気配は僅かで、それだけでも胸が苦しくなりそうだった。

「祖母ちゃん」

 一番奥のベッドで、タイちゃんのおばあちゃんは目を閉じていた。静かな呼吸音だけで、タイちゃんの言葉に少しの反応も示さない。小さな小さな痩せた体が、白い布団に埋もれている。

 タイちゃんは、近くにあったパイプ椅子を二つ用意して、その一つに私を促した。

「祖母ちゃん。葵さんを連れてきたよ」

 タイちゃんはパイプ椅子に腰掛けながら、おばあちゃんの手をさすり話しかける。

 いつもそうしているのだろう。穏やかに話しかける姿も声も、ずっと続けてきたのがよく解る、とても自然でやさしいものだった。

「丸一日目を開けないときが多いみたいで。だから、声をかけても聞こえてるかどうか……」

 どんな言葉も浮んでこなくて、私はただ椅子に座り、タイちゃんとおばあちゃんを見ていた。

「本当はさ、もう少し早く葵さんを祖母ちゃんに逢わせたかったんだけど。逢わせたいなって考え始めた頃には、もう症状が酷くってさ。俺のことも、どちらさん? なんて言っちゃうくらいで。そういうの、何気にしんどくてさ。そんな俺のしんどいところ、葵さんに見せる勇気がなくって……。けど、病院に入ることになったら、逆に焦りが出てきちゃって」

 おばあちゃんをさすっていた手を止め、タイちゃんが苦笑いを向ける。その表情が硬くて、色んな気持ちを我慢しているのがよく解った。

 タイちゃんは今まで、ずっとそうして色んなことを我慢し続けてきたんだろうな。

 突然両親がいなくなっても、おばあちゃんの具合が悪くなっても。食事を取れなくなっていくおばあちゃんのそばにいるときも。こうして入院してしまった今も。

 私の前にいるときのタイちゃんは、いつでも笑っていて。悲しい素振りも、辛い素振りも見せたことがなかった。

 タイちゃんは、一人で我慢することで、今を生きてきたんだ。

「おばちゃんから、葵さんへ話しちゃったって謝られた時。ああ、とうとう知られちゃったんだ。そう思った反面。やっと俺のこと、全部隠さずにいられるって、ほっともしたんだ。それに、話を聞いたはずの葵さんてば、何にも変わってなくて。今までと一緒で。それがスゲー嬉しくって。ああ、やっぱり俺の好きな葵さんだって、なんか嬉しくなった。ありがと」

 私は、ブンブンと首を横にふった。そのしぐさに、タイちゃんの表情が和らぐ。

「タイちゃん」

「ん?」

「おばあちゃんに挨拶してもいい?」

 椅子から立ち上がり、私はタイちゃんに訊ねる。

「ぜひ」

 タイちゃんが微笑む。

 私はタイちゃんと場所を交代して、おばあちゃんの痩せている手に、タイちゃんと同じようにして触れた。

「おばあちゃん。初めまして、葵です。西崎葵です。いつもタイちゃんがそばにいてくれて、私とっても心強いです。素敵なお孫さんですね」

 皺皺の手をさすりながら挨拶をしていたら、不意におばあちゃんの瞼がゆっくりと持ち上がった。

「祖母ちゃん?」

 タイちゃんが声をかけたけれど、話すまではできないみたいで、ただ瞳だけがタイちゃんを見つめている。

「祖母ちゃん。ずっと逢って欲しかった葵さんだよ。可愛いだろ? 俺、凄く大好きなんだ。祖母ちゃんとおんなじくらい、大好きなんだ」

 タイちゃんは、そう微笑みながらおばあちゃんに話しかける。

 私はただ手をさすり、おばあちゃんがタイちゃんの目を見つめるその表情を見ていた。

 あたたかな手の温もりが、タイちゃんの気持ちのあったかさと似ている気がして、私はずっとおばあちゃんの手を握りさすっていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る