第46話 病気 2

 表通りから少し入った路地裏は、人通りは少ないものの通りを過ぎ行く車の音が忙しなく聞こえてくる。おかげで、少しばかり声のトーンも大きくなるというもの。

「西崎さんだっけ?」

 ここに来てまた腕を組んだ橋本さんは、私の名前を確認するように訊いてきた。

 私は、「はいっ」と僅かに緊張をはらんだ声で返事をする。そんな私を橋本さんは、ものすっごく何か言いたそうな顔でじっと見つめてきた。

 ごくり。と自分にしか多分聞こえていないだろうけれど、私は音を立てて唾を飲み込む。

 車の音で騒がしいこの場所で、私は緊張に固唾を飲んでいた。橋本さんが私の前に現れて腕を組んでいる。しかも、会社の人が近づかないようなこの場所で、私と対で。

 こんな状況から予測できることといえば、一つしかない。篠田先輩とのことだろう。

 しかも、昨日の今日だ。あれほど近づくなと言われたにもかかわらず、先輩と飲みに行ったことがきっとばれているんだ。どこからどう漏れ聞いたか知らないけれど、昨日のできごとについてに決まっている。

 それだけならまだしも。もしかしたら、無理やり壁ドンで、キスされそうになったことさえ知っている気がした。だって、橋本さんの眼ってば、私はなんでもお見通しなのよっ! みたいな、とても攻撃的な光線をビビビッと発しているからだ。

 きっと今日。私は目の前にいるこの橋本さんに、以前受けた壁バン以上の攻撃を食らわされることになるのだろう。

 ボディーに一発だろうか。それとも、女らしく頬に平手? 平手なんて可愛いものじゃないかも。往復ビンタ? 何ならプロレス技だってかけられるかもしれない。

 エルボー? 四の字固め? まさかバックドロップなんてことはないはず……。コンクリートに頭めり込んじゃいます。

 想像する恐ろしい状況に、身体が震え上がる。

 さっき瀬戸君に早退しろと言われた時に、素直に帰るべきだった。そしたら、こんな風に呼び出されたりしなかったかもしれない。いや、待てよ。今日呼び出されなくても、翌日には呼び出されていたかもしれないよね。という事は、ただの先送り?

 なんか消費税増税みたいに、毎日ビクビクと暮らすみたいでイヤだな。とにかく、この場を何とか冷静に、安全に乗り越えたい。

 恐る恐るというように、「何の御用でしょうか?」と背を丸めて訊ねると。橋本さんは、組んでいた手をゆっくりと下ろした。

 く、来るっ?!

 体勢を立て直すような動きに、思わず身構えようとしたら。

「昨日は、篠田が悪いことをしたわね」

 当然何かしら痛い思いをするんだと思っていた私は、突然の謝罪に間抜けな顔をしてしまった。しかも、篠田がって。

「……へ?」

 お間抜け全開で橋本さんの顔を見ると、彼女は小さく息をついた。それから、何かを諦めたような息を吐いて話し始める。

「相手の子に釘を刺すことで、今までは何とか納まってきたんだけど。今回は、止められなかった。ホントごめん」

 橋本さんが僅かに頭を下げた。

 えっと、えっと。なにがどうなってんの?

 謝る橋本さんを間抜けな顔のままみていたら、説明が足りないよね。と小さく苦笑いをしてから彼女は続きを話す。

「悪い癖なの。ちょっと気に入った子を見つけると、すぐに近づいて甘い言葉をかけちゃうの。もう、病気としか言いようが無いわ」

 橋本さんはそう零すと、悲しげに笑った。

 悪い癖というのは、篠田先輩をさしているみたいだ。

 橋本さんの話によると、篠田先輩との付き合いは、既にもう五年も経つという。ただ、仕事に支障をきたさないため、周囲に公言するような事は一切してこなかったらしい。それをいいことに、というと口が悪いけれど。橋本さんという彼女がいながら、篠田先輩は度々プチ浮気を繰り返していたのだとか。

「相手の子には悪いけれど、今までずっと女の子に釘をさすっていう方法を使ってきたわ。私、こんなんでも一応焼きもち焼きだから、篠田から誘ったって解っても、やっぱり女の方が赦せないって思っちゃうのよ。で、釘を刺して相手から離れて行くように仕向けてきたんだけれど、今回はそれも効かなかったみたい」

 効かなかったって……。

「ご、ごめんなさいっ」

 思わず激しく謝って頭を下げる。

 だって、要するに釘を刺されたことも気にせず、篠田先輩の周りをウロチョロしていたのは私のほうだから。いくら、気がないとはいえ、病気の先輩にそれはないよね。

 って、病気って私。

「私たち、今年中に結婚する予定なの」

「ケッ、結婚!!」

 驚きの情報に、再び声が大きくなる。

「きっと、そんなこともあって、最後の浮気なんて、馬鹿なことを考えたのかもしれないわね」

 溜息交じりの橋本さんだけれど、不安そうな顔を見ているとなんだかとてつもなく心配になってくる。そんな浮気グセのある篠田先輩と、本気で結婚するつもりなのだろうか。病気っていうくらいだから、きっと結婚してもそれって治らないと思うし。そんな篠田先輩と、長い夫婦生活を過ごすことに耐えられるのだろうか?

「馬鹿だと思ってるでしょ」

「え……」

「いいの。解ってる。友達からも、馬鹿だってよく言われてるから。でもね。好きなんだよね。浮気されて、毎回そのたびに嫌な思いしてるのに、最終的には自分の元に帰ってくるものだから、諦めもつかなくて。ある意味、私も病気なんだろうね」

 橋本さんは、やっぱり悲しげに微笑んだ。そうして、自分に言い聞かせるように大きな声で宣言したんだ。

「私。病気と付き合って行く覚悟、決めてるの」

 それは余りにも清々しい言い方で、ほんのり浮かんだ笑みが決意の現れに感じた。彼女の強さみたいなのを感じたんだ。

 それから、橋本さんは深々と私に頭を下げた。

「私の監督不行き届きです。嫌な思いさせて、ごめんね」

 そんな橋本さんに、私は全力で首を横に振った。

 社へ戻る道すがら橋本さんからは、また篠田先輩が言い寄るようなことがあるかもしれないけれど、病気だと思ってきっぱり突き放してやって欲しいと頼まれた。了解しました。という私を橋本さんは笑って見ていた。


 その後、社に戻った私の前に、とってもすまなそうにシュンとした顔の篠田先輩が現れた。橋本さんに、相当こっぴどく叱られたようで、何度も私に頭を下げてくる。

 あんまり何度も謝られると、なんだかこっちの方が悪いことをした気分になってくるから不思議だ。先輩てば、偶然現れたタイちゃんに撃退されてしまって、痛い思いもしているのだから、もうそれくらいで。

 そんな先輩は、橋本さんが病気と言うのがよくわかるということを平気で言ってくる。

「今度さ。謝罪代わりに、一杯どう?」

 散々頭を下げたわりには、全く懲りていないみたい。困った先輩だ。

「ダメですよ。橋本さんのこと、悲しませないで下さい」

 ちょっと強めに言い返すと。

「そういうところがいいんだよなぁ、西崎さんは」

 と、ヘラヘラ。

 もう、全然解ってないんだから。

 橋本さん、頑張って。

 先が思いやられる、と思わず呆れた溜息をついたら苦笑いの先輩だった。

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