母娘
土曜日の朝。
拓海が起きてくると、花絵と優が家を出るところだった。
優は、土曜にも関わらず、担当する作家との打ち合わせが入ったようだ。
「もー…土曜だってのに。大崎先生は、僕をイヌかネコだと思ってるんじゃないか?呼べばすぐ来る、みたいな」
「うん、そうかもよ?ペット的に大事にしてもらってるんじゃない?優くんかわいいから」
「嬉しくない。全然嬉しくない!」
「それをうまく利用するのよ。ペットのふりをして先生を思い通りに操る小悪魔くんになる、とかね?」
「……花絵さん、賢い…。その手があったか」
「あ、拓海、おはよう。今日は私と優くんふたりで飲んでくるから、夕食はいいからね?じゃ行ってきまーす」
そんなことを言いながら、ふたりは出勤して行った。
拓海は、ヒロの様子が気になっていた。
今日はほとんど部屋から出てきていない。昼近くにリビングでコーヒーを一杯啜ったきりだ。
視線を落としたまま、昨日母親と会った話も一切しようとしない。
夕方、拓海はビールを二本持参してヒロの部屋を訪れた。
ノックして、問いかける。
「ヒロさん、今大丈夫?」
ローテーブルで両手を組み、そこへ額を当てるようにして深く考え込んでいたヒロは、はっと我に返ってドアを開けた。
「うん、大丈夫よ…どうしたの?」
「それは俺がこれから言おうとしてる質問なんだけど?」
拓海はヒロにビールを一本渡しながら、おどけたように言う。
「……ここ最近、ずっと何か考えてるよね?
今日も、ほとんど部屋から出てこないし…」
ヒロは、誰にも言えずに抱えていた思いを、拓海に吐き出さずにはいられなくなった。
辛くて、これ以上はどうにも耐えきれない。
「母が…花絵との結婚を認めないって…
そんなはずないと思っていたのに…」
拓海は、ヒロの側に座って彼女の眼を見る。
「お母さんに、反対されたの…?」
「昨日母と会って——男性との結婚以外は認めないって、はっきり言われた。
それから——母にも、結婚する前に愛していた女性がいたって…初めて知ったの。
親から持ちかけられた結婚の話を断れずに、その人と別れたっていうことも——」
「…え?…」
拓海は一瞬眼を見開いた。
ヒロは、自分自身を落ち着けるようにしながら、拓海に話す。
「——もともと、母は私のことを理解してくれてはいなかった。
…母の様子が変わったのは、私が女性しか愛せないことを知ってからだったと思う。中学2年の時、私は自分から家族に言ったのよ。自分は女性を好きなんだ、って。
…その頃から、だんだん私をまっすぐ見ないようになった。
私は何でも自分の思い通りにやったわ。
母は冷たかったけれど…私のすることには何も言わなかった。だから、黙認されていると勝手に思っていたの」
ヒロの手が微かに震える。
「あんなふうに、激しい目ではっきりと否定されたのは、初めてだった…
女性同士で不安定な結婚をしても、辛いだけだって…」
拓海は、ビールをテーブルに置いて、暫くじっと考えていたが…ゆっくりと話し出した。
「…もしかしたら…
お母さんは、別れたその
「え……?」
ヒロは驚いて、拓海を見る。
「親の意向に逆らえなくて、その人とどうしても別れなければならなかったとしたら…
その人のことを、簡単に忘れられるはずがないよ」
拓海は視線を落として呟いた。
「俺も、実家で親に突き放された時は…優を諦めければならない場面を、何度も想像した。
だから、よくわかる。
愛するひとと別れて、違う人と結婚しなければならなくなったら…平気でいられる人なんていないよ。絶対にいない。
——お母さんは、その辛さを経験したんだ」
彼はそう静かに言う。
「だから…お母さんは今までずっと、ヒロさんが思い通りに行動して幸せそうにしている様子を、どうしても認められなかったのかもしれない。
反対こそしなかったけれど…ヒロさんを見ていると、好きだったひとを思い出して…辛かったのかもしれない」
「………」
ふとした瞬間、寂しそうな眼をする母。
いつしか、自分から目を逸らすようになった母。
抗えない事情で手放さなければならなかった、最愛の人。
そのひとが、ずっと心にいたのだとしたら——。
その思いを想像すると、例えようもなく苦しかった。
「お母さんが、ヒロさんと花絵の結婚に反対してるのは、自分自身のそんな経験が複雑に絡んでるからだよね。
ヒロさんのこれからを心配する思いと、自分が叶えられなかったことをしようとしているヒロさんへの抵抗感と…
きっと、お母さんも苦しいはずだよね…?
——だから、今度話す時には、敵対するのはやめて…『あなたの苦しさが理解できる』って、お母さんに伝えてみたらどうだろう?
ヒロさんから近づいてみるんだ。
今の状況を、何か変えたいと思うならね。
そして、お母さんがたとえ反対し続けても…ヒロさんには、花絵を幸せにしてほしい。俺はそう思ってる。
だって、ヒロさん以上に花絵を強く愛せるひとは、この世にいないから。
たとえ誰が反対したっていいじゃないか。——自分の幸せは、自分のものだよ」
——思えば、自分と母親は、これまでまともな接触をしてこなかった。
母を理解しようとも思わなかった。だから、敢えて喧嘩をしたりぶつかり合ったりすることもなかった。
こんなふうに母親と真正面から衝突することは、ヒロにとって初めての、底知れぬ恐ろしさを伴う経験だった。
だが——
自分に対して母が心の中を垣間見せた今、自分も母に対する何かを変えなければ……今後お互いが歩み寄る機会は、もうなくなってしまうかもしれない。
そうなってしまったら……これからずっと、そのことが花絵を酷く苦しめるだろう。
自分自身も、それを後悔し続けるに違いない。
拓海が教えてくれなかったら——自分はきっと、そのことに気づかなかった。
こんなに温かく誰かに何かを教えてもらったことは、今までなかったかもしれない。
ヒロの眼が思わず潤み、涙が溢れそうになる。
「あ…やだ……どうしよう…」
「ヒロさん、いつもがんばりすぎだよ。…ヒロさんはいつも完璧過ぎて、大丈夫なのかなって、実は思ってた。
たまには泣いたり、ひとに甘えたりしなくちゃ。
——ここ、くる?」
拓海は、自分の腕を広げてみせる。
「…優くんに、怒られるわ」
「優はそんなことじゃ怒らないよ。それに、ヒロさんが花絵一筋なのはみんなよく知ってる」
ヒロはおずおずと拓海に近づき、彼の肩で自分の瞳を塞いだ。
温かい肩に触れたとたん、涙が一気に溢れ出て、止まらない。
——今まで、こんなふうに自分の悲しみをひとに預けたことなんかなかった。……自分の家族にさえ。
こうしてみて初めて、それに気がついた。
「花絵は、ヒロさんが思うほどか弱い女性じゃないよ。
明るくて逞しくて…もしヒロさんが寄りかかっても、しっかり支える力を持ってるひとだ。
だから、ヒロさんが全部抱える必要なんてない。…2人で支え合っていけばいいんだ。
…だろ?」
嗚咽が漏れそうになるのを抑えながら、拓海に訊く。
ひとりで考えるのが怖くてたまらない、その問いを。
「私……花絵を諦めなくても……いいわよね?」
「それは、ヒロさんが決めることだよ。……君の中で一番大切にしたいものは何か、よく考えて決めればいい」
拓海の手が、ヒロの頭をぽんぽんと励ます。
ヒロは、少女のようにしゃくり上げながら激しく泣いた。
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