暗雲
ヒロが母親と会った金曜、花絵は早番だった。
拓海と優も残業が立て込んでいるらしく、遅くなるとメッセージが入っていた。
花絵は職場近くのカフェで簡単な夕食を済ませて帰宅した。
花絵は、最近のヒロの自分への態度を、また思い出していた。
ヒロは、少し前から何かを考え込む顔をしばしば見せている。
「ヒロ……最近、何かあった?」
花絵の問いかけに、ヒロはいつも優しく微笑む。
「ん?何でもないわよ。ちょっと仕事忙しくて…疲れてるかも」
「……何かあるなら、話して?」
「だから大丈夫だって。花絵に気遣われるとますます疲れるからやめてよ」
ヒロは、そんなふうに冗談とも本気ともつかないことを言って笑った。
ヒロは、心に抱えている何かについて、一言も自分に打ち明けてくれない。
自分が立ち入ることを、許してくれない。
花絵は、そのことが自分の中でだんだんと大きくなることを感じていた。
今頃、ヒロは母親と会っているはずだ。
彼女はきっと、一層強く自分を立ち入らせない空気を纏って帰ってくる…そんな気がした。
リビングでそんな思考をぐるぐると追っていると、玄関のドアが開いた。
「あ……花絵、ただいま」
「おかえり、ヒロ。——何か飲む?コーヒー入れるわ」
「………ん」
花絵の予想通りだった。
ヒロは、花絵が差し出すカップを硬い表情で受け取った。
「——ありがとう」
「……ねえ、ヒロ」
「ん?」
「しようよ。これから」
「———」
ヒロは、花絵の瞳を黙って見つめた。
ヒロの瞳は、不安を湛えて揺れ動いた。
必死に何かを打ち消すように、強いキスが降ってくる。
力の入った指が、花絵の肌を強く掴む。
ヒロの苦しさが、そのまま花絵の身体に伝わる。
「————ヒロ。
隠さないで。ひとりで苦しんだりしないで」
花絵は、ヒロの耳に囁く。
「……花絵………」
ヒロの声が、一瞬潤んだように聞こえた。
「——ヒロ?」
「…………」
ヒロの言葉は、それきり途切れた。
何も言わないまま眠りに入ってしまったヒロの背中を見ながら——花絵は、自分の身体が急激に冷えていくことを止められなかった。
*
翌日、土曜の朝。
昨夜、自分のベッドに戻って泣きはらした眼を、誰にも見られたくなかった。
週末でまだ誰も起きていないことが、花絵にとって救いだった。
急いでメイクをし、いつも通り出勤の支度をする。
「あ、花絵さん、おはよー」
「あれ、優くん?今日土曜だよ?」
「うん…そのはずなんだけどね。なんか担当の大崎先生からさっき電話で呼び出されてさ…」
優は、眠そうな眼でむすっと答えた。
「眠そうだね」
寝起きの顔も可愛い。花絵は思わず微笑んだ。
「……ねえ、花絵さん。今日一緒に飲みにでも行かない?」
「え、いいわよ?でも、なんかめずらしいわね?」
「うん、たまにはいいでしょ?今日は僕のおごり」
「えーー?そんなのダメよ」
「いいからいいから、たまには僕にも威張らせてよ」
「……それなら、甘えるね」
優の申し出に、花絵は素直にそう答えた。
*
その夜、8時。
花絵のお気に入りの居酒屋で、優と待ち合わせた。
花絵の前に一杯めのビールが運ばれた頃、優が店に着いた。
「ごめん、花絵さん。ちょっと遅くなって」
「ギリギリセーフよ。まだ一杯め口つけてない」
そう言って花絵は笑った。
「いっつも優くんと拓海はラブラブよね全く。私と付き合ってた時よりよっぽど幸せそうな顔してる拓海が、たまにムカつく」
「えっ何言ってんの!ヒロさんの花絵愛の凄まじさは他の追随を許さない迫力だよ?うっかりするとヒロさんの回し蹴りが怖いしさ」
そんな冗談混じりの話で笑い合う。
「花絵さん…もしかしたら、今悩んでるでしょ?」
酒も入って気持ちが和らいだ頃、優が花絵に問いかけた。
「………なんか、気がついた?」
「そりゃ分かるよ。今朝だって、少し様子が違う気がしたし。
だから今日あたり、お酒でも飲んで何か話したいんじゃないかなと思ってさ」
…やっぱり、優は鋭い。
彼のさりげない優しさに、いつも救われる。
「———私、ヒロに必要とされていないのかもしれない」
「——え?」
優は、驚いた眼で花絵を見た。
ずっと心に押し殺していた言葉を口にした途端、涙まで一緒に溢れ出した。
「…………」
「…花絵さん……?」
「…私——ひとりになっちゃった気がするの。最近ずっと。
ヒロは、何か大きな悩みを抱えている。でも、それを決して私に打ち明けてくれない。
ヒロは、私に心配をさせたくなくて、何も言わないんだと思う。
でもそれは、私を心の中に入れてくれないのと同じことよ。
私も一緒に考えたり、悩んだりしたいのに——」
優は、涙に濡れる花絵の顔をじっと見つめた。
「……花絵さん。
もしも僕が花絵さんと同じ立場だったら…拓海が、自分の心の中のことを何も話してくれなかったら、僕もきっと悲しい。
でも、もし僕が悩みを抱えた方だったら…できるだけ拓海に心配をかけない解決方法を考えるだろう。
ヒロさんは、花絵さんがそれだけ大切だから…今抱えていることを、どうしても花絵さんに打ち明けられないのかもしれない。
無理をして心に立ち入っても、何もいい方向へ進まない気がするんだ。
だから…ヒロさんが花絵さんに何も言ってくれないとしても…花絵さんは、ただヒロさんに寄り添っていればいいのかもしれない。
僕だったら、拓海にそうしてほしい。
どうしても拓海の力が必要な時は、必ず彼に話そうと思ってるからさ」
「………」
優と拓海は、そんなふうにしっかりお互いを信頼し合えているのかもしれない。
自分も、もっとヒロの考えや行動を、ただ信じていれば…いいのだろうか。
「ヒロさんは、ああいう人だから…花絵さんを守りたくて、仕方ないんだよ。花絵さんだって、それは知ってるでしょ?」
優はそう微笑む。
「……うん」
肩から、ふっと緊張が抜けた。
同時に、急にふわふわと酔いが回ってきた。
「優くん…チューしていい?」
「ええええ!?」
優の身体がざざっと引いた。
「なっ、どうしたちゃったの花絵さん!?僕にはもう拓海っていう…」
「大袈裟だなー。ほっぺにちょっとだけよ。いいでしょ?それくらい」
「……んー…」
優はもじもじしながら考えている。
「じゃ…ほっぺにちょっとだよ?」
困ったようにちょっと笑い、優は許可した。
「んーー!!!」
「………満足した?」
「うん、満足!!一回したかったのー♪やっぱりスベスベで気持ちよかった!」
「花絵さん、飲みすぎだよ…」
「ありがとね、優くん」
「え?」
「話聞いてもらって…なんだかほっとした」
「…ならよかった」
安心したように頬を染めている花絵の表情を、優は嬉しそうに見つめた。
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