第16話 資格

 仕事帰り怜は直樹と食事の約束をしていた。

 彼はいつものように怜より早く来ていた。

「最後まで本当、完璧な人」

 小さく呟いて手を上げる。


 席についた怜は直樹から何か尋ねられる前にバッグから小さな箱を取り出した。

 その行動で一瞬にして彼の表情が変わる。

「怜、どういうつもり?」

 彼の問いに怜は今までにないほど真っ直ぐ相手を見つめた。

「これを貰う資格、私にはやっぱりないわ」

「資格って? 結婚にそんなものいるの?」

 直樹は取り乱すこともなく怜の視線をじっと受けとめて尋ねる。


 本当に信じられないことをしているのかもしれない。

 もう、どんなに生きてもこんな人には出会えないのかもしれない。


 だけど、だからこそ彼の人生を狂わせてはならないと怜は思っていた。

「きっといらないわ。けど私には必要なの。それがないと直樹の奥さんではいられない。いつか自分の選択を後悔してしまうときが来たとき、それを持っていないと私はあなたを不幸にする」

「怜の言っている意味が分からないよ」


 メニューを持ってきたウエートレスに紅茶を頼むと続けた。

「そうね。いつも肝心なこと直樹には言わなかった。…直樹も聞かなかった」

 彼はその台詞に初めて黙り込む。

「私が直樹と知り合った頃、結婚したくてしかたのない人がいたの。彼のためなら自分の人生なんていらなかった。だから仕事も適当に決めたし、新しいことを始める努力もしなかった。けど当時、彼は私が望んだものは与えてあげられないって言ったわ」

「じゃ、何? その彼が今度は怜の望んだもの与えてくれるとでも言ってくれた?」

 珍しいほど直樹の言葉は投げ遣りだった。


 その変化に怜は微笑んで頷く。

「ええ。そう言ってくれた、三年も遅れてね。けど少しも嬉しくなかった」

 唇を噛み締めていた直樹は顔をあげる。

「…怜の話は難しすぎて分からないよ」

 直樹は寂しげな表情を浮かべ首を傾ける。

 怜はメールの着信に気付いて携帯を取り出し、目を通す。

 それを読み終わってもう一度彼を見た。

「やっとこれから、私の人生が始まるの」

 直樹は何かに気付いた顔を見せる。


 そんな相手を前に怜は頭を下げた。

「ごめんなさい。私はこれからの人生を直樹と一緒には過ごしていけない。もしここで直樹に甘えたらいつか私は後悔するわ。その時の理由を私はどうしても見つけられない」

 人は自分の選んだ道を必ず一度は後悔する。

 なぜなら生きていく道は一本ではなく何度も別れ道がやってきて、その度に選択を強いられるものだからだ。


 それでもその先を進んでいくことが出来るのはその道を選んだ理由があるからこそだと、一つの選択が終わりをつげて怜はやっと知った。

「私は直樹と出会ったことを無意味にはしたくない。こんなに私のこと好きになってくれた人はあなただけだったから」

 一筋の涙が怜の頬をつたう。

 だけど泣き出すことだけはしなかった。


 微笑みかけた怜に直樹は今日初めて表情を和らげ、テーブルの上に置いた箱を掴んだ。

「怜は深く思い込みすぎなんだよ」

「そうね」

「その癖は直さないと幸せにはいつまで経ってもなれないよ」

 直樹は呆れた顔をしてそれをポケットに押し込んだ。

「オレは怜がただ傍にいてくれればよかった。それだけでよかったんだ。だから何も聞かなかった。それを聞けば怜がオレから遠ざかっていくような気がしていたから」

「直樹。こんなこと今さら言うのは卑怯だって思ってる。だけど私はこの二年間あなたのこと本当に」

「いいよ、分かってる。怜のことなら聞かなくても全部分かっているから」

 直樹はいつものように優しい目をして彼女に笑いかけた。


 自分が泣くのは卑怯だと十分わかっていたくせに怜の涙は止まることはない。

 上着を手にした直樹は立ち上がると手を差し出す。

「今日まで楽しかった。…ありがとう」

 鼻を啜って怜も立ち上がり手を伸ばす。


 けれどその瞬間、直樹は手を下ろした。

「やっぱり怜に触れるのはやめておくよ。未練が残りそうだから」

「直樹…」

 彼はニコッと笑って背を向けて歩き出す。


 その背中を見送っていた怜に直樹は何か思い出したように立ち止まり振り向いた。

「さっきの話の続きだけど」

「さっきの話?」

 怜は繰り返した。

「ああ。オレが怜に何も聞かなかったこと」

 怜は頷いて見せる。

「分かっていても怜には聞くべきだった。そうすればよかった」


 唇の辺りに左手を当て怜は声を押し殺し、届いたばかりのメールを微かに震える右手で消去しながら直樹の背中を見送る。

 メールと同じように【正幸】と記された登録を怜はゆっくりと削除した。




 怜が正幸からのプロポーズを断り、直樹と別れた日から一週間後理佐子は会社を辞めた。

 今度は怜の方が毎日彼女の携帯に電話しメールを送り続けた。

 返事が返ってきたのは理佐子が退職して二週間が過ぎた頃だった。

【先輩のことは憎んではいませんよ】

 電話越しの理佐子の声は思っていたよりも元気で安心した。

 それ以来連絡はとっていない。


 正幸は三ヶ月の支店での仕事を終了すると本社へと帰っていった。

 見送りに行った怜に『今度は俺が怜のこといつまでも待つから』と言って傍にいた部長の目を点にさせた。

『全くお前たちは本当にタイミングが合わないな』と大笑いされ、二人して真っ赤になってしまった。

 直樹は元々打診されていたアメリカへの転勤が正式に決定した、と菜々から怜に伝えられた。

 そして、怜自身は。

 ちゃんと自分の人生を歩き始めている。


 

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