第14話 タイミング

 怜と連絡が取れた理佐子はずっと抱えていた悩みから解放されていた。

 久しぶりに電話越しで話をした彼女の声はいつもと同じでやはり自分が避けられていると感じたのは思い過ごしだったと安心した。

 違う部の子とお昼を約束していた理佐子は待ち合わせ場所に向かって歩き始めた。

 その途中、正幸が目の前を横切りっていく姿を見つける。

 さすがに会社なので声を出して呼び止めるのは抵抗があった。

 小走りに走って彼の後を追う。


 正幸が歩いていた廊下まで着くと彼の背中が第一会議室に入っていくのが見えた。

 わき目もふらずに歩いていた正幸の雰囲気が普段より厳しかったこともあり理佐子は何か大変なことでもあったのかと部屋の前まで近付いた。

 微かに開いていたドアから中に人がいること感じた理佐子は声をかけられる情況ではないことを察し去ろうとしたその時、二人の会話がふいに聞こえてきた。

「部長、行かせて下さい。怜が、いえ西脇くんが欠勤しているのはどう考えても俺が戻ってきたせいとしか」

 理佐子は自分の耳を疑った。

「ただの風邪だという連絡を受けている。お前が行ったところで何の解決にならないよ」

「ですが」

「それに自宅に伺うということは彼女のご両親にも会うことになるんだぞ」

 その場に凍りついて動けなくなった理佐子の耳に容赦なく会話は続いた。

「どういう面をさげて行くつもりだ? 私が親なら二度と見たくはない奴だよ、お前は。娘より仕事を選んだと思われてもしかたないじゃないか」

 佐伯はそう言って正幸の肩を静かに叩く。

 返す言葉を失った正幸はため息を溢した。

「しかし神様は残酷だな」

 部長は諦めた口調でそう呟く。

 正幸はそれに何の返答も返さない。

「お前が選んだのは西脇じゃなく藤井とは。全く世の中は不思議なもんだ」

 理佐子は自分の名前を呼ばれてドキッとし、心臓に手をおく。


 正幸は力が抜けたような声で言う。

「俺だって驚きましたよ。紹介して頂いた上司からは怜と、彼女と同じ所属だとかそういう話しは聞いていませんでしたし。せっかくのご好意ですから水を差すようなことは言えません」

「確かにそうだ。だが寄りにもよって」

「たとえ同じ所属であってもまさか先輩、後輩の関係だなんて。もし分かって」

 そこまで口にして正幸は黙り込んだ。

 理佐子はその後の言葉を息を潜めて待つ。

 だがその先は正幸ではなく佐伯が答えた。

「結婚なんてしようと思わなかったか?」

 彼の問いに正幸は肯定もしなければ否定もしなかった。


 部屋の外でその会話を聞いていた理佐子は口に手を当て声を押し殺す。

「佐伯部長だから正直に話しますけど実際、結婚なんてどうでもよかったんです。怜と別れて三年、仕事に没頭してきましたが俺も男ですから何人かの女性とは付き合いはありました。けど誰一人、この人だって思う人がいなかった」

 小さなため息を挟んで、正幸は続ける。

「一年ほどその繰り返しで面倒になって。仕事に支障が出てくれば恋愛する相手ではなく結婚する相手を探せばいいかなって。で、その時が来た。藤井さんはいい子です。上司が勧めるのも理解できました」

 微かに開いていたドアから感情を顕わにして話してる正幸の姿を理佐子は初めて目にした。

 彼女の前での正幸はいつも落ち着いていてどんな出来事にも冷静に判断し、対処する。

 そんな彼と目の前に映る正幸が重ならなかった。

「これからの自分の将来を考えれば申し分のない相手です。だから決めたんです。なのにこの脱力感というか不安定さは一体」

 正幸が言葉に詰まると佐伯は尋ねた。

「じゃどうして三年前、約束しなかった?」

 静かな、けれど無視できない質問だった。

「あの時はただ怜の感情が重たかった。長い付き合いだったから彼女が自分に求めているものが嫌なくらい分かってましたから。けど今にして思えば俺が思っていたよりずっと簡単なものだったのかもしれないって思います。認めたくないけど俺はアイツにどこか引け目みたいなものを感じていたんだと」

 苦笑いをした正幸に佐伯も表情を崩した。

「確かに。入社した時から妙にがむしゃらなお前におれも期待していたけど疑問だった。だが西脇と結婚を考えているって話を聞いた時、それに納得がいったよ。彼女の仕事ぶりを見てれば武田が必死な理由は明白だったからな」

 佐伯は正幸のほうに視線を動かした。

「怜は俺が出世なんてしなくても彼女の傍にいればよかったんです。けど俺は出世しないと彼女の隣にはいられなかった。そんな時異動があって俺はやっとその道を歩き始めた。だけど怜にはどうでもよかったんですね。俺が傍にさえいれば。そんなアイツの想いの重さに耐えられなくて俺は逃げた。そのくせ怜が他の男と結婚するって話を聞けば面白くない。自分だって結婚するくせにです。傲慢ですよ」

 正幸は手を頭にやった。


 その台詞に佐伯は反対に苦笑いを返す。

「男って生き物は大概、そういう生き物なんだよ。ただお前が西脇に嫉妬しているのは彼女がお前よりも好きな相手を見つけて結婚するのに、お前は結婚するために相手を探し、選んだからじゃないのか?」

 正幸は視線を一度部長に向けてから窓の外を見つめる。

「そうかもしれませんね」

 自分との結婚を決めた理由を認めた正幸の、その言葉は息を殺して聞いていた理佐子の胸に鋭く突き刺さった。

「まぁ、心配するな」

 佐伯は立ち上がると正幸に背を向け、彼が見つめていた窓の方に歩み寄る。

「決して西脇も好きってだけの感情で結婚を決めたわけじゃないっておれはそう思ってるよ」

「部長?」


 佐伯は海外旅行から帰ってきた時の彼女の姿を思い出していた。

『ご心配かけてすみませんでした』

『いい気分転換になったか?』

『はい、スッキリしました。けど私はこれからも彼のことを多分、ずっと好きでいると思います。それを失ったら私は私でない気がするんですよ』


 佐伯は堂々とした顔で自分に告げた怜の顔を思い出して小さく笑う。

「結婚なんてタイミングだよ、タイミング!お互いが同じ大きさで相手を思った瞬間を逃してはならないってことだ。片方が燃え上がって片方が冷めていたら、たとえ想いあっていても温度が違うだけですれ違ってしまう」

 三年前のお前たちのようにな、と佐伯は付け加えた。

 語り終えた佐伯は「その片棒担いじまったのは紛れもないおれだ」と言い残して部屋を出て行った。

 数分前までその部屋の前で立ち聞きしていた理佐子の姿はすでに消えていた。

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