第13話 決断
会社を無断で早退した次の日、怜は欠席した。
これはわざとではない。
「この時期に風邪だなんて、いつくになったと思ってるの? 少しは自己管理しなさい」
お粥を運んできた母親は昨晩から熱が下がらない怜にさらに頭の痛いことを言う。
「…いただきます」
ムッとしたが抵抗する気分にはなれない。黙って手を合わせてお粥を食べ始める。
「はぁ。早く片付いてくれないと、いつまでこんな面倒かけられることか」
母の嫌味は耳にタコが出来るほど聞いた。直樹と付き合い始めてからはさらに酷い。
親から見て、どう考えても結婚するはずだった娘が落胆した顔で帰ってきたのだから今度こそはという気持ちは分からなくもない。
心配しないで、と言うほうが無理かもしれない。
けれど正幸と別れたときはそんなことに気を使う余裕さえもなかった。
部屋を出て行こうとした母親は何かを思い出した様子で足を止めた。
「そうそう。朝、佐伯さんから携帯に電話があってたわよ。寝てたから代わりに出たけど、熱が下がったらちゃんと連絡しておきなさい」
「部長、何か言ってた?」
探りを入れるように尋ねる。
母はそれに気も止めずに答えた。
「無理はしないでゆっくり休むようにって。あんたは上司に恵まれて幸せね」
呆れた母の口調を聞きながら、それはごもっともだと痛感していた。
佐伯部長は部下からの人気が高い。特に女性社員からはナンバー1だ。
『怜のところは佐伯さんだもんね』
『本当。うちの岩井とは大違い』
同期で入社した他の所属の子からはそんな風に羨ましがられるほど。
確かに仕事は出来るし人望も厚い。さらに外見もさわやかで嫌な印象はない。
怜が正幸と結局別れて会社を無断で二日休んだ時も部長は責めなかった。
『気分転換に長期休暇でも取ってどこかに行って来るといい。時期的にもそんなに忙しくもないし、有休残っていただろう』
彼の提案に怜は甘え、結婚資金にと貯めておいたお金を全部使い切る勢いで日本を発った。
約一週間の旅行を終え帰ってきた怜はずいぶん気持ちがすっきりし、正幸がいなくなった日々を仕事で埋めた。
それ以降、何かとあると目をかけてくれる部長に怜は頭があがらない。
正幸が本社に異動になって一年経った頃、怜にも本社への異動の辞令が出たが、それを部長は怜の代わりに断ってくれていた。
その事情を他の部の子に教えてもらった時は感謝した。
『意図があるわけじゃない。君にはここで頑張ってもらうほうがいいと思ったんだ』
しばらくしてそう伝えられた。
それは怜への心遣いでもあったかもしれないが正幸に対する気遣いでもあったのかもしれないと、今にして思う。
部長は正幸の仕事ぶりを入社当時から買っていたからだ。
本社への異動も部長の強い後押しで決まったと正幸が嬉しそうに教えてくれたことがあった。
その時はどうしてこんなことをするんだ、と憎んだりもしたものだが、今となってはそれだけが原因ではきっとなかったと思っている。
怜と正幸は壊れるべきして壊れたのだ。
どこかで、そう冷静に思えている自分がいるにもかかわらず、どうして人の気持ちはこんなにも理不尽なものなのだろう。
色んなことを考えれば考えるだけ、さらに熱があがっていくように怜は感じた。
熱は三日ほど続いた。携帯には毎日理佐子から着信があった。
もちろんメールも何通も届いている。
だが怜は電話に出ることもメールを返すことも出来ずにいた。
「なんて大人げないこと」
何とかベッドから起き上がれるようになってから携帯のメールを開いて呟く。
彼女が悪いわけではない。けど、どう対処すればいいのか分からない。
いや、それは言い訳だ。
怜はやっぱり理佐子に嫉妬している。
「こんなこと誰にも言えないって」
ボソッと発した瞬間、部屋のドアが開く。
「何が誰にも言えないの?」
入ってきたのと同時に声が響いた。
怜は一番聞かれたくない相手が目の前にいることにかなりの動揺を見せる。
「な、菜々、何で? 何でいるの、何しに来たのよ」
思わず自分が病人であることを忘れて失礼な発言を口にしていた。
だがそんなことで怯む相手ではない。
「何しに来たってことはないでしょ、お見舞い、お見舞いよ! ほら差し入れもあるし」
菜々はデパ地下で有名な洋菓子店の箱を怜にあてつけるように見せた。
「ずいぶん長いこと風邪で寝込んでるって聞いたからね。それにしてもアンタの会社はこの不景気だっていうのに理解あるわね」
「どういう意味でしょう?」
ちゃっかり箱を受け取り、そう尋ねる。
菜々は勝手に椅子に座ると力説し始めた。
「主婦のパートだって三日も休んだら周りに冷た~い目で見られんのよ。それにこの前、洋子と食事に行ったけど、あの子契約社員で販売やってるじゃない。そこで足を怪我したらしくて休んだら再契約渋られたって。仕事で怪我したのによ。今の世の中、そういうもんだってことよ」
なぜか病人の怜がベッドから下り、母が気を利かせて持ってきた皿にお菓子をのせて菜々に差し出す。
「そうなんだ」
「そうよ。ところで誰にも言えないことって一体、何? 何かヤバイことでもしてるの」
母親を追い出した後で少しホッとしたが菜々には意地でも白状は出来ない。
三年前、正幸と別れた時に釘をさされていたからだ。
『今度やり直したいって言われても、もうモトサヤは絶対になしよ! どんなに忘れられなくても忘れるの。いい? もし戻ったら私はアンタと友達やめる』
別に菜々と友達をやめることだけが言えない理由ではなかった。
『また正幸? アンタ成長ないわねぇ』そう思われることが数倍嫌なのだ。
さっぱりしている性格の菜々ははっきりと思ったことを口にするから結構傷つく。
後味は悪くはないんだが、元々傷つきやすい怜には意外に堪えるのだ。
「ねぇ、何よ。教えなさいよ」
「別に何でもないし菜々には関係ないわ」
お皿を抱えて怜はベッドに座る。
彼女は椅子から立ち上がるとベッドの横に座り込み、断りもなく怜の携帯を手に取った。
「ちょ、ちょっと何してんのよ!」
「アンタの悩みなんて聞かなくても分かる」
菜々は勝手に携帯のボタンを押して画面に表示するとそれを怜に見せる。
液晶画面に映し出された名前はビンゴ!
「もう三年も経ってんのにまだ登録してあるってところが未練たらしいのよね~で?」
菜々は怜を見上げた。
「で? って何?」
「連絡でもあったわけ」
紅茶を口に運びながら無視を通す。
「まさか結婚式の招待状でも届いた?」
菜々の発言に怜は熱い紅茶を足に溢した。
その失態はあからさまに認めたようなもので、そのシーンを目の当たりにした菜々がもちろん見逃してはくれなかった。
「マジで当たり? ったくいるのよねぇ、そういう男。特に相手が結婚してないとさ『まだ俺のことを想ってくれているんだ』とか錯覚してるオメデタイ奴が」
菜々は楽しそうに話している。
怜には笑えない話だった。
「錯覚なら笑えるけどね」
小さく反論してみた怜に菜々は黙り込む。
固まった彼女から携帯を取り上げ、怜は待ち受け画面に戻した。
「怜、アンタ」
「笑ってよ。そんな態度取られるくらいなら笑われたほうが救われるじゃない」
携帯を握り締めて怜は膝を抱える。
「自分でも呆れている。頭じゃ分かってるんだけど。向こうは忘れちゃってるのに」
強がりを口にした怜に菜々は頭を下げた。
その行動に驚いてベッドから怜は落ちそうになる。
「ご、ごめん!」
「なに、急に。何で菜々が謝るの?」
怜は菜々の隣に座り、そう尋ねる。
「もしかしたら私、余計なことしたかも」
「余計なこと?」
菜々は頷くと怜が正幸と別れて直樹と付き合い始めたとき「邪魔はしないでほしい」と頼んだことを話してくれた。
「あの時はもう怜に武田のことで傷ついてほしくなかった。直樹さんはとてもいい人だし、何よりも怜のことを好きで大事にしたいって感じが伝わってきたし、武田のせいで壊れてほしくはなかったのよ」
菜々の告白に怜は怒ることは出来なかった。
なぜなら、それは彼女が怜のためにしてくれたことだから。
それに菜々が言ったことで会おうとしなかったのは誰でもない怜と正幸だった。
泣いて詫びる菜々に笑みを返す。
「菜々。泣くのはやめて」
「けどあの時の武田は違っていたような気がするの。やっと怜の想いに気付いたみたいな気がして…本当はずっと気になってた」
菜々の気遣いが嬉しかった。嘘だと分かっていても素直に嬉しかった。
「もういいのよ。彼は違う人を選んだ。私も彼とは違う人を選ぶ」
「怜? もしかして」
携帯を開いて新規のメールを作成する。
「直樹にプロポーズされているの」
「そ、そう。それはおめでとう! じゃなんで今になって武田のこと」
菜々の疑問に怜は一瞬、戸惑ったが正直に答えた。
「実は正幸、こっちに戻って来てるんだ」
「え? 会社に!」
作成したばかりのメールを読み直し送信を押して怜は頷く。
菜々は泣きはらした目を開いて驚く。
「正幸、エリートになってたよ」
怜は不思議なくらい落ち着いていた。
「じゃ、こっちで結婚でもするの?」
表情を曇らせて菜々は怜を見る。
彼女の問いに答える前に携帯が着信を知らせ、怜はいつもより元気よく出た。
「もしもし」
【先輩! もうどうしたんですか? ずっと電話も出ないしメールしても返事ないし。何か怒らせることでもしたのかと思ってましたよ。最近、様子も変だったから】
高い理佐子の声は携帯からずいぶんはなしてもよく響く。
「ゴメン、ゴメン! ずっと熱が高くてね」
【大丈夫ですか? 風邪流行っているみたいですから無理はしないで下さいよ】
切ないほど優しい言葉に怜は頷きながら微笑む。
「分かってる。だけどもう大丈夫だから。明日には出勤するわ」
不安げな菜々を横に怜は自分の机の引き出しを開け、奥になおしこんでいた小さな箱を取り出す。
それは女性なら誰でも欲している永遠への誓いの証。
それを菜々に手渡して電話に集中する。
【とにかくゆっくり休んでください。先輩の仕事は私がやっておきますから】
電話越しに聞こえる声に怜はさっきと同じように頷き、息を思いっきり吸い込んだ。
箱を開けた菜々が隣で怜を見守っている。
その視線に答えるように怜は落ち着いた声で理佐子に話しかけた。
「大丈夫よ、ちゃんと行くから。それとずっと相談聞けなかった話、明日聞くからね。まぁ聞かなくても分かるけど。私も決めたから結婚。理佐子も決めちゃったら? …武田正幸はいい奴よ。私が保証する」
笑った怜に菜々がしがみ付いて泣いていた。
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