第12話 キーボルダー

 正幸は会社を出ると待ち合わせしていたレストランにそのまま向かった。

「武田さん」

 ギャルソンに案内されて店内を歩いている彼を呼ぶ声に気づくと正幸は笑みを浮かべた。

 近付いてくる正幸に声を出した彼女は幸せいっぱいの表情を見せ椅子に座りなおす。

「遅くなって悪かった」

「いえ、武田さんが忙しい方だってことは本社の間に認識済みなので大丈夫です」

「そう言ってもらえると気が楽になるよ。これからはもっと忙しくなるから」

 メニューを見て正幸は適当に注文すると、先に置かれているワインに手を伸ばし相手のグラスに注ぐ。

 そんな一通りの流れが意識などせずにこなせるようになった自分が正幸はおかしかった。

 怜と付き合っていた頃、こんな場所で食事なんてすることなど一回もあっただろうか。

 お金がなかった時代もあったが、お金が出来た頃には時間がなかった。

 いや、違った。

 そんな時間をあえて作らなくても彼女はいつも自分の傍にいたのだ。

「でも今日は驚きました。まさか武田さんが西脇さんと同期で、しかもうちの所属だったなんて」

 その問いに正幸は苦笑いを浮かべる。驚いたのはむしろ正幸のほうだった。

 三ヶ月前の研修でやってきた理佐子を、正幸は所属している部の上司に紹介された。

 嫌いなタイプではなかったし、何度か食事して交際を申し込み、つい最近結婚も考えて欲しいと言ったばかりだ。      

 その急な展開に彼女は特に驚くこともなく、すんなりと承諾してくれた。

 そんな彼女が怜と同じ部だと知ったのはこっちに異動になり、出社してからだ。

「同じ大学卒だったから共通の友人もいて、仕事以外にも何かと連絡することがあったし」

「そうだったんですか。じゃ私も個人的なことは相談しないほうがいいですね」

 注がれたワインを口に運び彼女は微笑む。

 その言葉に正幸は何? と尋ねた。

「その、結婚のことですよ。先輩も今付き合っている人からプロポーズされたらしくて。その話を聞かされた時はまさか自分もそうなるって思ってもいなかったから。いざ当事者になってみると先輩が悩んでいたこととか少し分かる気がして。でもお知り合いならやめておきます」

 正幸は自分のことは棚にあげ、動揺していることに少し焦った。

 別れて三年。しかも自分の方から約束は出来ないと言っておきながら勝手な話だ。

「そうか、アイツが。けど何を悩んで?」

 理佐子は何の疑いもなく答える。

「仕事です。先輩、仕事続けたいみたいで」

 正幸は飲みかけていたワインをもう少しで吹き出しそうになった。

「先輩の彼氏、直樹さんって方なんですけど凄くいい人なんですよ。私も何度かお会いしたことあるんですけど背も高くてカッコよくて。気が利くし仕事も一流会社の商社マンなんです」

 話に夢中の理佐子のおかげで失態の寸前を見られることはなかった。

 あの怜が仕事のために結婚を悩んでいる、という話が正幸には信じられない。



『正幸、どこの会社受けるの?』

『なんで?』

『同じところ受けようと思ってるから』

 卒業前、正幸の部屋に入り浸っていた怜の答えだった。

 大学時代、怜は成績優秀で二浪して入った正幸とは違い、遊びまわっていてもトップの成績をキープしていた。大学はもっといい会社を勧めたが怜は断固拒否を貫いた。

 そんな彼女の重圧がなかったと言えば嘘になる。

 社会に出れば自分の方が先に出世するんだと、どこかで思っていた。

 些細な嫉妬が正幸にプレッシャーを与え、それが二人の関係を壊していくことになった。

 一度の過ち後、正幸は仕事に没頭する日々を送った。

 そして走り続けた結果、本来の理由であったものは消えていたのだ。

 今からでも遅くはないのではないか、と何度も思った。

 けれどどんな顔をして彼女を迎えに行けばいいのか分からなかった。

 怜の親友である菜々から別れて半年後。

「怜、いい人がいるの。だから、よりを戻そうなんてことは言わないであげて」と釘をさされたことが意外に大きな壁だった。


 正幸は付き合っている時には重たかった怜の愛情がどれほど自分を支えていたのかを、もう会えない別れをした後に気付いたのだ。

 それからというもの、今度はその淋しさを埋めるためだけに仕事に熱中した。

 そして成果は現われた。

『来年に本社で大々的に立ち上げる企画の責任者を任せたいと思っているんだが』

 上司からそう告げられたとき正幸は素直に嬉しかった。

 それは前代未聞のスピード出世。さらに成功すれば将来高いポストも約束されるほどの大きな仕事である。

『ところでそろそろ身を固めないか』

 出世する人間には必ずついてくる問題だ。

 正幸はその言葉に逆らう理由はなかった。

『ええ、考えてはいるんですが相手が』

 苦笑いをして答えたが相手など誰でもよかった。

 上司が気に入ってくれる女性で自分の仕事を理解してくれるのなら誰でも。

 その相手が怜ではない以上、正幸には希望も願望もなかった。

 その成り行きで紹介されたのが理佐子だ。

 正幸は自分がいいところの出ではないので役員などのご令嬢とはつりあわないと事前に希望していたこともあり、上司はその旨を理解し、自分の部下の知り合いである理佐子をわざわざ本社に出向させた。

 そういう形をとることで正幸が気に入らなかった場合断れる配慮をしてくれたのだ。

『どうかな。中々いい子だろう。育ちだって悪くないし何より仕事に理解がある』

『ええ、とてもいい子です』

 その言葉に嘘はなかった。

 だから交際を申し込んだ。

 会社でここまで認められ、こんなにも気を使ってもらったうえに好きな女性と結婚したいなどは我儘な話だ。

 割り切ればたいしたことではない。

 これから仕事がさらに忙しくなることを考えると彼女の仕事への理解は十分すぎるほど魅力的だった。



 ボーとしている正幸に気付いて理佐子は彼の名を呼ぶ。

「武田さん?」

「え? な、なに?」

 我に返った正幸は目の前に運ばれてきた料理に気付く。

 理佐子はクスクス笑っていた。

「ちゃんと聞いてます? それとも私の話面白くないですか」

「いや、ただ、れ…西脇が結婚とは」

「そうですか? 先輩ってどちらかと言えば結婚して尽くすタイプだと思うんですけど。だから仕事を辞めないって聞いたときは本当に驚いたんですよ」

 彼女はまだそこには納得出来ないようだ。

 正幸はワインを口に運び「怜」と口走りそうになったことに挙動不審になる。

「二年も付き合っていて、なんで今までしなかったんだろうって思うくらいですよ。あんなに想われていて。他に誰か気になる人でもいるのかな?」

 上目遣いで彼女は考えている。

 正幸はその言葉が妙に引っかかった。

「他に付き合っている人がいるってこと?」

「いいえ。先輩、行動範囲狭いんで出会いはないと思うんですよ。多分…昔の恋人かな」

 思わず正幸は口に含んでいたワインをゴクンと飲み込む。

 理佐子は何も気付かずに彼に尋ねる。

「武田さんは心当たりとかないですか?」

「え? う~ん、ないねぇ…。あまりプライベートのことは知らないからな」

 つい嘘をついてしまった。

 だからといって本当のことを話すわけにはもちろんいかない。

「先輩たち見てるとこっちが恥ずかしくなっちゃうんです。直樹さん、すっごく先輩のこと愛してるって目で見つめているから。なのに先輩はやけに冷静で少し腹が立つときもありますよ。あ、これは先輩には内緒にしててくださいね」

 理佐子は人差し指を唇の上におく。

 その約束に正幸は頷いてナイフとフォークを手に取った。

 理佐子の台詞が頭の中を駆け巡る。


『アンタと怜を見てると羨ましくなる時もあるけど腹が立つ時もあるわ』

『なんで?』

『あんなに相手を愛してるって目で私は誰か見つめること出来ないし、その視線を受け止めてる正幸が妙に冷静で腹が立つ。けど怜はそれでもアンタがいいって心底思ってる。私には一生、そんな恋愛は無理だと思うわ』

 大学時代に菜々に言われた言葉だ。

 正幸はその時、初めて気付いた。怜がそこまで想ってくれていることを正幸は第三者に言われて知ったのだ。

 それほど怜が傍にいることが自然で、そういう目で見つめられていることが当然に感じていた自分がかなり恥ずかしかったことを思い出す。


 そんなときスマホが着信を教える。

「ごめん、ちょっと席を外すよ」

 開いた携帯には取引している会社の名前が映し出されていた。

 理佐子は嫌な顔一つせずに頷く。

「はい、武田です。何かありましたか?」

 数分のやり取りを終えた正幸は少し離れた場所で待っている理佐子の姿を見ながら頭をかいた。

「悪いんだけどさ」

「もしかして仕事ですか?」

「ああ。本社の仕事で任せていたことなんだけどトラブル起こしたみたいで。俺じゃないと処理出来ないらしくてさ。急遽戻ることになったんだ。本当に悪いんだけど」

 落ち着かない表情を浮かべて早口になりながら正幸は数枚の万札をテーブルに置く。

「しかたないですよ。それより大丈夫ですか。今からで間にあいます?」

「何とか最終の新幹線には間にあいそうだからこのまま駅に向かうよ」

「じゃ私も一緒に出ます」

 理佐子は立ち上がって微笑み返す。

「いや、一人にして申し訳ないけど最後まで食べて行って。これのお礼だから」

 正幸はそう言って部屋のカギを取り出す。それには理佐子が研修を終えて本社を去る日、交際の返事と一緒にくれたペアのキーボルダーがついている。

「あ、ちゃんと使ってくれてるんですね!」

 理佐子は嬉しいです、と幸せそうに微笑む。

 正幸はそんな表情を見せる理佐子の姿が妙に切なかった。

「だから最後まで楽しんで」

「はい、ありがとうございます。気を付けて」

「ああ。ありがとう」

 自分に嫌な顔一つせず見送る理佐子の視線を背に受け、正幸は複雑な心境だった。

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