第11話 過去

 菜々からの電話を終え、事務所を出た。

 廊下の突き当りを左に曲がるとちょっとしたレストスペースが設けられている。

 正幸はそこで煙草を口にしていた。

「お待たせ」

 そう声をかけ、振り返った正幸の顔があの頃とは面白いくらい重ならない。

 そのことを実感しながら、それは向こうも同じだろう、と気付いていた。


 この年令の3年は大きなものだ。

 特に彼のように開かれた未来を駆け上がっているような人間にとっては尚更である。

 学生時代の友人が今の彼を見て、一目で正幸だと気付ける人はいないだろう。

「いや。相変わらず仲いいんだな」

 彼は煙草の火を消しながら腰を上げた。

 事務所を出てくる時、外し忘れた眼鏡に手をかけて答える。

「主婦の愚痴よ。仕事って名目でかけてくるの」

 菜々からの電話は月にだいたい2回はある。

 月末以外は手が空いていることを知っていて、ストレスが溜まると、いつでもかけてくる。その電話がいかに仕事関係であるか装うのに怜はいつも必死である。

 普段は温厚な部長も、仕事が絡めば厳しい人だから知られるわけにはいかないのだ。

「そっか。アイツ結婚したんだったな」

 正幸は思い出したかのように口にする。


 2人を引き合わせたのは怜たちだった。

 大学の友人の中で、一番交友関係が広かったのに菜々は出会いに恵まれなかった。

 外見も可愛いし、性格だって悪くない。ちょっと女としてはさっぱりし過ぎている感じは受けるがいい子だ。

 どうして世の中の男はこんなにも見る目がないだろうと思っていたくらい。

 過去の失敗を分析した結果、年が離れているほうがいいと判明し、正幸の姉の友人を紹介することになった。

 そこにやってきたのが菜々の旦那である。

「あの菜々が奥さんか」

「そう。来年には二児の母。年をとるはずよ」

 怜は一歩前を歩きながら呟く。

 その言葉に正幸は小さな声でそうだな、と返答した。

「それより、今頃どうしてここに?」

 怜は話題を変えたくて尋ねる。

 それに正幸は表情を緩めた。

「長くはいないんだ。3ヶ月程度かな」

 その答えにピンとくる。

 つまり彼は本当に出世組としてこれからを期待されている人材なんだ。

「そう…。本格的にエリートコースなのね。本社で高いポストに就く前に支店でお勉強ってところかしら」

 怜の説明に彼は反論しなかった。

「せっかくだし、ここを希望したんだ」

「それはおめでとう。よかったじゃない」

 振り向いて祝いを告げた。

 そんな怜を彼はじっと見つめ、黙り込む。

「な、何か言ったら? 沈黙は苦手だって知ってるはずでしょ」

パッと背を向ける怜を、彼は笑う。

「そうだったな、怜は…いや、悪い」

 3年前の正幸だったら決して気付かないことを、彼は気にして謝る。

「私は変わらないけど、あなたは変わったのね。理由は分からないけど、何だが悔しい」

 

 強がりではなく本音だった。

 怜は別人のように変わってしまいたかった。

 正幸が隣を通り過ぎても気付かないくらい、怜も彼だと気付かないくらいに。

 けれど現実はそんな簡単なものじゃなく、怜は自分で認めざる得ないほど、何も変わってはいなかった。

「悔しいって…。それは俺だって。あの時の俺は全然余裕とかなくて、怜のこと支えて」

「その話はやめて。今さら聞いても仕方ないことだし。はっきりいって聞きたくないから」

 扉の開いたエレベーターに乗り込み、社食のある階のボタンを押す。

「そうかもしれないけど、部長が気を使ってくれたのは、そういう話をしろってことだろう」

 誰も乗っていなかったこともあり、正幸は話をやめようとはしない。

 怜は正幸の問いに答えなかった。

「逃げるのは、お互いなしにしようぜ」

 正幸の台詞に怜は振り返る。

 壁に背を預けたまま、両手をポケットに押し込み正幸はこっちを見ていた。

「お互いって言葉は意味違うでしょ? あのとき逃げたのはあなたの方じゃない」


 正幸が本社に異動になってからというもの、怜の方から連絡しない限り、自然消滅といえるような関係だった。

 電話は毎日正幸の帰宅時間を逆算してかけ、休みの日には怜から出向く。

 そんな繰り返しを3ヶ月続けた。

 おしかける怜に、正幸は何一つ文句を言わなかった。

 だから、それでいいんだと思っていた。けれど違った。

『いい加減にしてくれ! こうも毎日電話や休みの度に来られたんじゃ息が詰まる』

 そう言われて、自分が彼の重荷になっていることに怜は初めて気付いた。

 正幸にそう告げられてから、それまで普通にしていたことが全て出来なくなった。

 今、電話すればまた嫌がられるかも。今度の連休に遊びに行きたいって言ったらまた怒鳴られるかも。

 そんな不安が怜の中に広がって一切の自分からの連絡を断った。


 そんな日々は死ぬほど淋しかった。

 だけど彼に嫌われるくらいなら我慢できた。

 もう会いたくないと言われるより、怜は会えないことで出来てしまう溝を、自然と選んでいたことを随分と時間が流れて気付くことになった。

 半年ぶりの彼からの誘いに喜んで出かけた。

 付き合い始めてからこんなにも長い時間会わなかったことがなかったから正幸から「こっちに出てこれないか」という言葉を聞いた時は夢のような気分だった。

 まるで初めてデートした時のような嬉しさと戸惑いが交差しながら、怜は新幹線に飛び乗った。

 だがその時はすでに何もかもが遅かった。

『もうやめにしないか?』

 半年ぶりに会った正幸からの別れの言葉。

 怜は自分の表情が二度と笑えないんじゃないかと思えるほど、凍りついたような感触を覚えた。

『…どういう意味?』

『言葉の通りだよ。離れていて感じたんだ。俺らは一緒に居すぎた。怜を駄目にしたのは俺だ。たとえこれから先、怜が望む未来を約束出来たとしても、俺は怜の望むように一緒には居てあげられない』

 正幸は勝手に答えを用意していた。

 怜の気持ちなんて聞き入れようともせず、彼は別れを口にしたのだ。

『なによ、それ…。私には意味わかんない! どうしてそういうことになるの?』

 問いただしても正幸はそれ以上、何も言わなかった。

 別れを受け入れなかった怜は正幸の部屋に居座った。

 彼は「帰れ」と言うことはなかったが、別れ話を撤回するとも言わなかった。


 1週間ほど滞在したが新しい女の影も見当たらず、怜は途方にくれていた。

 一度家に帰ることを決め、怜は彼の会社に出向いたとき、偶然出かける正幸を見かけた。

 気付いてほしくて車道を挟んだ歩道から大きく手を振った。

 正幸はそんな怜の姿に気付きもせず、彼の後を追って出てきた同僚の女性に笑いかけ、楽しそうに会話を交わしていた。

 その表情は久しぶりに見た笑顔だった。

 あげた手を怜は下ろし、そのまま駅に向かい、気付けば彼と過ごした町に戻っていた。

 不思議と涙は浮んではこなかった。


 正幸からその後、連絡はなかった。

 そんな別れ方をしたのだ。

 お互いという単語だけは使ってほしくない。あのとき逃げたのは正幸の方なのだから。

「もうよしましょう、昔の話は」

 正面を向いた怜に彼は続ける。

「昔の話だからちゃんと終わらせたいんだよ。そうしないとお互い先には進めないじゃないか。それくらい怜との関係は長かったし、深かったって俺は思ってるんだ」

 正幸の手が肩に触れる。

 それを怜は払い除けて怒鳴った。

「だったらメールなんて、簡単に送ってこないでよ! 正幸はいつもそうよ、何もかも勝手に自分で考えて、答え出して」

「それは…」

「自分だけが楽な方法をとって。それを受け取る私の気持ち、少しは考えたの?」


 忘れたくて忘れたくて仕方のなかった相手から送られてきたメールを前に、怜は自分の中の矛盾に苛まれていた。

 そしてそのメールを開いた瞬間の残酷さを、誰が分かってくれるというのだろう。

「3年も経って今さら何を話すっていうの? ただあなたが楽になって新しい未来を歩きたいだけの自己満足じゃない。お願いだから、これ以上、私にあなたを絶望させないで」

 エレベーターが止まり怜は先に下りた。

「ここのつきあたりが社食です。じゃ」

 正幸が下りたのを確かめてエレベーターに戻るために彼の傍を横切る。

 彼女の行動に振り返った正幸のポケットからスマホが落ち、それを怜が拾った。

「立派になっても癖は直らないのね」

 手渡しながら、怜は初めて笑みを浮かべる。


 正幸は学生の頃からよく物を無くした。

 何度注意してもそれは直ることはなく、彼のバイト代の半分近くは無くした物を購入するのに消えていたほどだ。

 そんなエピソードが凍りついていた心の中にふんわりとした温かい風を運んでくる。

 そのとき自分の中で、もう大丈夫だという気持ちが心を満たし、やっと直樹の元へ行けると思った瞬間だった。

 自分の手から正幸の手に渡るスマホに怜の目は捕らわれる。

「ああ。もう何台目か分からないくらいなんだ。・・・?」

 黙り込んだ怜に、彼はどうかしたのか、と尋ねる。

 ハッと我に返って慌てて首を振り、怜は待たせていたエレベーターに乗り込む。

「…趣味、変わったの?」

「え?」

「そのケース」

 そう言い終えたのと同時に、扉が閉まった。

 怜の目が捕らえたものは見覚えがある。消えていくはずの想いがまた震えていた。

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