第9話 アドレス
次の日の朝、直樹は怜を起こしてから仕事に出かけて行った。
寝ぼけた怜は食卓に用意されている朝食に手をつける気にはなれずにいた。
「直樹の奥さんは幸せだ」
そんな他人ごとのコメントが出る。
このままいけばそれは彼女自身なのだ。
だけど今の自分が見ている景色が、どうしても自分の未来とは重なってくれない。
「どうしてかな…」
テーブルに肘をついて頭を抱える。
最近、気付けばこんな仕草ばかりしている気がする。
上げた視線には目を開けていられないくらいの朝日が怜を照らしていた。
「嫌がらせのように快晴だわ」
バスルームに向かおうと椅子から立ち上がった時、直樹とともにしたベッドの横に置いていたスマホがなる。
取らなくても相手は想像ついていたが、無視できる相手でもない。
気だるい体を動かしてベッドに倒れこみながらそれに手を伸ばして出た。
「はい、西脇です」
【おはよう、佐伯だ。休暇届け出てないぞ】
「あの~ぶちょう、私」
【言いたいことは分かってる。だが、これは会社の決定だ。とにかく出て来い】
そこまで言われて、嫌とは言えなかった。
彼は怜の行動を責めることはなく、出勤を促す程度で切れた。
液晶画面を見つめながら仰向けになり電話帳を開く。
ボタンを押し続けるとそこには正幸の名前が表示された。
「いつまでも情けないよね、いい大人が…」
零れた台詞に思わず笑みが浮ぶ。
27にもなって過去の恋愛に縛られ、目の前の幸せを見失っている。
向こうは平然とメールを送ってくるほど割り切れているのに、自分は携帯の名前さえ消せずにいるのだ。
おまけに周りの人には余計な迷惑もかけて心配までさせている。
どこがいい大人なのだ。今時の中学生でもこんな未練がましい恋愛なんてしていない。
「逃げても、逃げ切れないか」
スマホをベッドの上に投げる。
怜は立ち上がって背伸びした。
「シャワーでも浴びてスッキリしよう!」
一人暮らしの男の部屋とは思えないほど、きれいな部屋の中をバスルームに向かって彼女は歩き出す。
肩につく髪をまとめようと手を挙げた時、棚の上に積んであった雑誌に当たって、バタバタと床に落ちてしまった。
あぁ~と発した後、しゃがみ込んで丁寧に重ねていた怜の手が止まる。
「…これ」
偶然開いた雑誌が一冊だけあり、怜の視線はそれに釘づけになる。
直樹との会話では極力避けた話題だ。
じっと見入っていた怜はハッと我に返る。
「なんで、ここで、この状況で、これを見つけなきゃなんないの。あぁ…気分悪!」
勢いよく雑誌を閉じ、髪をグチャグチャにしながらバスルームに急いだ。
無造作に重ねられた雑誌が風でパラパラと捲られ、さっきと同じページが姿を見せる。
そこには数年前の映画の特集記事が載っていた。
『アドレスって忘れないことがいいよね?』
『ああ、けど誕生日とかは駄目だからな』
『正幸はなんにしたの?』
『あ、お、お前と付き合い始めた日』
『本当? じゃ、私はその日二人で見た映画の題名にする。これなら絶対に忘れないもん』
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