第8話 現実逃避

 怜はメールを見てからすぐに会社を出た。

『先輩、ちょっとどうしたんですか?』

『ゴメン。今日から一週間休暇取るから』

『え? はい?』

『そう部長に伝えておいて、じゃ!』

『ちょ、ちょっと先輩!』

 戸惑っている理佐子を置いて怜は取るものも取らずに社を後にした。


 冗談じゃなかった。

 なんで今さら、しかもまた会社で再会などしなくてはいけないのだ。

 そんな思いが怜の中で駆け巡り、気付けば逃げ出していた。

 あのままあそこにいたら、あいたくない自分に再会することが目に見えている。

 それを実感する前に怜は飛び出したのだ。

 荒い息を整え、怜は振り返って会社を見上げる。この中にアイツがいるかと思うだけで胸の奥底が締め付けられていく。本当に冗談じゃない。

 そんな中でまともに仕事が出来るほど自分は強い女ではない。


 少し歩いてベンチに座り、そびえ立つ会社を見つめたまま深いため息をついた。

「なんであんなメール、送ってくるのよ」

 両手を膝の上に置いて頭を抱える。

 会社のパソコンは一台ずつ割り当てられていてパスワードやアドレスは個人的に決めていいことになっている。

 怜のパソコンのアドレスは入社した当時から変わっていない。

「こんなことなら変えておけばよかった」

 そんなこと絶対に出来ないくせに、そう呟く自分がひどく惨めに感じる。


 自己嫌悪で落ち込んでいると携帯が着信を報せた。

 画面に直樹の名前が表示されている。

 怜は言葉では表現できない微妙な罪悪感を押し殺し、通話を押した。

【あ、怜? オレ】

「うん、どうしたの?」

【いや今日急に休みになったからさ、仕事が終わったら食事でもって思ったんだけど】

 耳元から聞こえてくる聞き慣れた声に涙が浮んで、言葉が続かない。

【怜? 何かあったのか?】

「ううん、なんでもないよ。分かったわ、じゃ6時に家に行く」

【えっ? 手料理作ってくれるの?】

 弾んだ声に優しく返す。

「うん。何がいい?」

 直樹と会話を交わしているのに、自分の心が目の前のビルの中にいるたった一人の男に支配されていることを感じる。

 このままじゃ自分は壊れてしまう。

 それを察していたから怜は珍しく自分から直樹の家に行くことを口にした。

 彼の腕に抱かれれば、正幸のことなど忘れられると思った自分が酷く嫌な女に思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る