第3話 常識

 休憩を終えて事務所に戻ってくると、机の上に山積みになっている伝票が目に入った。

 事務の仕事は急を要することが少ない。だから「お茶入れて」だの「コピー20部お願い」という雑用を任されやすい。

 新入社員の頃は文句を言っていたが、最近では言われる前に終わらせていることが多くなった。

 それだけ自分の出来る仕事の能力を認めたと言えば聞こえはいいが、何かに必死になることを、諦めたといった方がニュアンスは近いかもしれない。

 何も変わらないことに無心で立ち向かうような、無駄なエネルギーを使うことを止めたということだ。

 そう改めて思うと「年を取ったかも」と思う瞬間がある。

 やはり結婚は想像以上に、今の自分の情況を考えると棚からボタモチ以上の話のように怜には思える。


 それなのに煮え切れないのはどうしてなのだろう。

 直樹には全く不満はない。

 正幸の頃には数えきれないほどあった、嫌な部分が彼には全くないのだ。

 仕事で疲れていると無理に怜を連れ出すこともないし、体を求めることもない。会社で嫌なことがあって夜遅くに愚痴の電話をしても、彼は怜が喋り疲れるまで付き合ってくれる。

 一緒にテレビを見て「美味しそう」と何気なく口にすれば、次の週にはそのお店を調べて予約を取ってくれている。

 いつも怜が望む一歩も二歩も先を直樹は察してくれるのだ。

『怜が喜んでくれるなら、それで十分』

 お礼と言うと必ず返ってくる直樹の口癖。怜はそんな彼を見ていると、時々辛くなる。

 正幸と過ごしていた時の自分の姿と重なるからだ。


 怜より遅れて戻ってきた理佐子は、自分の机の上を見て肩の力を落とす。

「さっき片付けたばっかりなのに」

 彼女の言葉に同感しつつ席についた。

 事務という仕事は自分のペースで仕事を片付けることが出来る。営業や販売のように日々仕事が重なることや、時間帯でのピークというものがないので、日常の労働時間の流れは穏やかだ。

 けれど月末になると極端に仕事の量は増える。いや、増えるというより仕事の量に追いつかないというほうが正しい。

 あちらこちらへの請求書の処理、取引会社への支払いに入金。事務仕事が一気に押し寄せてくるのだ。はっきり言って月末に生理なんてきたら地獄である。

 午前中に片付けた仕事よりも、さらに増えたように見える書類が目の前に姿を見せる。

 怜は肩についている髪を束ねてパソコンのスイッチを入れた。

「西脇」

 離れた場所から声が聞こえて振り返った。

 怜の机より悲惨な状態の机の間から上司が手招きをしている。

 せっかく取りかかろうとしていた仕事を置いて怜は席を立った。

「なんでしょうか?」

 近付いた怜はそう尋ねた。

 彼は汚い机の上から一枚の紙を差し出す。

「これなんだが、受けてみないか」

 そういって差し出された書類は新しく立ち上げる部への異動希望者の推薦状だった。

 怜は目を丸くして覗き込んだ。

「君もそろそろ真面目に自分の将来について考えてみてはどうかと思って」

 目の前の部長は怜が入社した当初からの上司であり、あのゴタゴタした正幸とのやり取りも全て知っている人物だ。

 差し出された書類に手を伸ばしながら「もしかして心配なんかされてる?」という言葉が頭を過ぎった。


 三年前の当時も色々と彼に慰められた記憶がある。

『心配するな。本社といっても二時間かからない場所じゃないか』

 出世組だった正幸に本社への異動の辞令が出て、彼はそれを喜んで引き受けたという話を他の社員から聞いた時だった。

 その瞬間、怜は自分の描いていた未来が幻のように消えていくのが想像できた。

 それが壊れていくのを黙って見ていたくなくて、今にして思えばみっともない行動を起こした。つまり縋りついたというわけだ。よくもあんなことが出来たと思う。

 いや、そんなことがみっともないだの、カッコ悪いだの、恥ずかしいなどと感じないほど、怜は正幸をやはり好きだったのだ。

 けど彼はたったの一度の会話で終らせた。

『向こうに行くなら仕事辞めるわ』

『辞めてどうするんだよ』

『一緒について行くに決まってるでしょ?私がいたら迷惑? 一緒にいるのは駄目なの? また浮気でもするつもり?』

『いい加減にしろ、いつの話だよ。その話はケリがついたから続いているんだろう』

『ついてなんかないよ! 私が我慢しただけ。正幸は謝りもしなかったじゃない』

『だったら、なんであの時言わなかった』

『言ったら、もう一緒にはいられないって、そう思ったから。私はずっと正幸といたいの。それだけじゃ無理なの?』

『今はそんなこと考えられない』

『どうして? 好きだったら当たり前の』

『それは怜にとっての常識だろう』

 致命的な一言だった。

『じゃ、なんで私といるのよ?』

 その問いに彼はじっと怜を見て、それから視線を外すと小さく答えた。

 それは初めて言葉を交わした時には想像もつかないほど身勝手な表現で、だけど未来さえ描かないまま付き合った代償と言われれば反論は出来なかった。


 今でもあの時の正幸の表情と周りの風景、自分の横を通り過ぎた車の色や、彼の好みで伸ばしていた髪を揺らした風の冷たさまで鮮明に憶えている。

 正幸がその台詞に込めた想いは、そんなに深いものじゃなかったのかもしれない。

 だけど当時の怜には酷く重たく、もう明日への道をどう歩いていけばいいのかさえ分からなくなるほどの言葉だった。

『今、好きだから一緒にいる。だけどそれが一生とは、今の俺には約束は出来ないよ』

 正幸。そう思える人、見つかった?

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