第2話 浮気

怜が今の会社を選んだのは軽い気持ちからだ。当時の恋人がそこを受けると言ったから。

 なんて浅はかだと今なら思うけど、あの頃の怜にとっては素直な選択だった。

『怜がいいなら俺は反対しないけど』

 大学に入って2年目に付き合い始めた正幸は曖昧な口調で賛成した。

 正幸と付き合い始めてからすぐに、怜は将来この人と絶対に幸せになる、結婚すると確信していた。

 仕事はそれまでの時間つぶし。ならば正幸と同じ会社の方か色々と都合もいいし、何倍も楽しいだろうと思っていた。

 それが間違いだった。

『出張?』

『ああ、ほら昨日プレゼンで結構いい感触だったじゃん。だから部長に進めてみろって』

 正幸は大学では落ちこぼれ組だったが働き始めるとメキメキと才能を発揮し始めた。

 同じ職場にいたからこそ、それが手に取るように分かった。

 だからなおさら我儘は言えなかった。

 約束していたデートがドタキャンされても、仕事帰りに食事に行くことが1週間前から決まっていても「残業だから」「取引会社に誘われて」と決まり文句が続いた。

 仕方なく承諾すると「この埋め合わせは今度するから」と言って、してもらった記憶は怜にはほとんどない。

 たまに休みが合えばずっと二人で家にいて欲求不満を解消するかのようにベッドを共にする日々。怜はそんな生活に不満だった。

 だけど彼との未来が約束されていたからこそ、じっと我慢をしていたのだ。


 けれど全てはうまくはいかなかった。

 入社して2年目の春。怜たちは新入社員を迎えていた。事もあろうことか、正幸は自分の下についた女子社員と浮気をしたのだ。

『出来心だよ』

 正幸はすましてそう言った。怜は会社であることも忘れて彼の頬を力任せにぶった。

 怒りと情けなさが交互に押し寄せてきて、怜は自分を支えることが出来ず、その場に座り込んだ。

 学生の頃は優しかった正幸は、手を差し出すこともなく去っていった。


『西脇さんの愛情が重いんだって』

 その出来事からしばらくして怜は女子トイレで正幸の浮気相手が、同じ新入社員にそう話しているのを偶然聞いてしまった。

『確かにね。あなたしかいませんって感じするもん。武田さんも紗織に惹かれるはずだよ。けど会社で修羅場ってないよね~めっちゃ引く』

 彼女たちが立ち去ったあと怜は泣いていた。

 正幸の前で立っていられなくても流れなかった涙が、止めどなく零れ落ちた。



 怜はその話を聞いてから正幸と距離を置いた。彼は別に追いかけてもこなかった。

『だったらその程度の男だったってことよ。世の中には武田よりもっといい男いるって』

 怜と正幸の付き合いをずっと見てきた大学時代の親友である菜々の解答だった。

 怜は彼女の慰めに笑顔で返したが、心の中はポッカリ開いたままだった。

 菜々はそれに気づいていたらしく、何度もコンパや紹介を繰り返してくれた。直樹に会ったのはそんな出会いにも飽きてウンザリしていた頃だ。

『面白くないの?』

 4杯目のビールに手をかけた時、隣に座っていた直樹がそう声をかけてきた。

 酔っていた怜は率直な感想を語り続けた。

 その時のことがきっかけで怜は直樹と連絡のやり取りをするようになった。けれど二人の間に疾しいことは何一つなかった。


 正幸と紗織の関係は思っていた以上に続かず、何事もなかったように正幸は怜の携帯に電話をかけてきた。

『何? 結局許したの?』

 菜々には呆れられたが、怜はやっぱり正幸しか考えられなかった。

 それが馬鹿な女のすることだと十分わかっていながらも、彼を拒む理由にはならなかったのだ。

 正幸にとって仕事で疲れた体を癒せる場所になれるなら、それだけでよかった。

 昔のような情熱や優しさが薄れてしまっていても、ずっと彼が帰ってきてくれるなら怜には十分だった。


 けどそんな曖昧な関係は長くは続かない。必ず人は約束を求めるから。

 たとえそれが叶わなくてもよかったのかもしれない。

 今の怜ならそう思える。

 けれどあの頃の怜は、必ず叶う約束が何よりも欲しかった。


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