第四章 進む少女

第四章-1

 第四章 進む少女


 翌日の放課後。

 綾香は胸中に満ちる不安の澱をため込んだまま、上の空で今日の授業を受けていた。そして、普段通りであればこの後は学校にサヨナラを告げるだけだったが、今日はそう言う訳にはいかず、このまま生徒会室へと赴かなければならなかった。

 正直な気持ちでは行きたくない。

 身体を蝕んでいた肉体の疲弊は、一晩経てば嘘のように消え去ったが、心に蓄積された疲労は消えるどころか、時が経つにつれてより強く精神を傷つける。

 胸の中から消えてくれない不快な感情の所為で、綾香は椅子に座ったまま動きたくなかったが、そんな綾香を生徒会室へと同伴させるために、愛美が迎えに来た。

 昨晩は同じ屋根の下で過ごした二人。

 気分が晴れないのは同様だが、愛美は自身の役割を果たすためにも綾香を生徒会室へと連れて行かなければならなかった。

「行こうか、あやちん」

 どこか物悲しい表情で愛美は促す。

「うん」

 それに応じて、綾香は重たい腰を浮かす。

 そして、教室から生徒会室へと向かう道中、綾香はあったかもしれない、もしもの出来事を空想した。

『もし、平穏な日常の延長線上として昨夜を迎えられていたら、きっと悠莉も交えてパジャマパーティーなどとふざけ合っていたのかな。それで夜通し語りあって、三人とも目元に隈なんか作っちゃって。それで、私と悠莉は眠気に耐えながらもどうにか授業を受けるのだけど、マナは寝ちゃって先生に怒られたりしたんだろうな。そんな平和で平凡だけれど、充実した一日を迎えられただろうな』

 そんな普通だと思っていた日々が夢のように眩しく、異常だと認識していた事象が綾香の現実へと介入してくる。

 いつもであれば会話の途切れることのない二人、しかし今は沈黙が流れる。それは昨夜、学校から帰って来た頃から続いていた。

 愛美の家へと帰った二人は、碌に会話を交わすこともなく、そのまますぐに床に就き今に至っていた。

 とてもではないが浮ついた会話なんてできなかった。

 偽りで日常を覆い、装い、演じるのに抵抗があった。

 もし、今を日常と認めてしまったら、本来あるべき場所にあるべき人がいない現実を認めてしまいそうだから。だから、このらしくない関係を不承不承ながらも受け止めている。

 綾香は自分の少し先を歩く愛美を見て思った。

『マナも辛い思いをしているのに、こうして私を生徒会室に連れて行こうとしている』

 その姿はとても強いと綾香は思った。

 怪異と戦う者としての指名がそうさせているのか、それとも友達を失う苦しみの方が辛いから、蛇の道と知っていても突き進むだけの決意を持っているのか。そのどちらであろうと、これ以外であろうと、苦しみに向かって歩みを進められる愛美を綾香は尊敬した。

 それでももう厭だった。逃げ出したかった。それが綾香の素直な気持ちだった。

 きっとその思いに根差しているのは〝万屋〟という得体の知れない存在だろう。

 綾香にとって愛美は信頼できるが、他の二人に至っては何を考えているのか皆目見当がつかず、近寄りがたかった。それに加えて、刹が時折滲ませる全身を縛り付けるような、心の底を鷲掴みにするような、得も言えない恐怖感に忌避していた。

 できればもう関わりたくない。だから今日で最後にしよう。綾香はそう決心し、拒む両足を動かす。


 †


 生徒会室前へと辿り着いた。着いてしまった。目の前に重く立ち塞がる扉を見て、綾香はただただ気が重たくなるばかりで、自ら扉を開けようという気力は湧き上がらない。

「行くよ、あやちん」

 そんな綾香の様子を見かねて、愛美は綾香の手を取り歩み出す。

「……うん」

 手に伝わる人肌の温もり。

 この大切な温もりを取り戻すためにも頑張らなくては、そう綾香は自らを鼓舞し、今日と言う日を乗り越える為の糧とする。

 扉を開け放った先にあるのは、学校内の施設としては分不相応な程に豪華な姿の生徒会室だ。そして、その部屋の最奥に鎮座する大きな木製の机に両肘をついて、刹が二人の到着を待ち受けていた。

「いらっしゃい、待っていたよ」

 昨日となんら変化のない、微笑みを張り付けただけの空虚な表情。

「篠宮さん」

「……はい?」

 部屋に入るなり呼び止められ、何か良くない知らせを受けるのではないか、と綾香は身構えた。

「体調の方はもう大丈夫かい?」

「……え? あ、はい大丈夫です」

 だが実際に掛けられた言葉は身構えていた物とは全く異なり、綾香は困惑しつつも返した。

「そうか、ならいいんだ。昨日は悲惨な目に巻き込まれてしまったからね、心配していたんだよ」

 社交辞令としての言葉なのか、心の底から身を案じての発言なのかは綾香には判断が付かなかったが、心なしか刹の微笑みはいつもより浮かないような気がした。

「ある程度の安全は確保できたと判断した上で同行してもらったのだけれど、まさかあそこまで交戦的なモノが出てくるとは思わなかったんだ。巻き込んでしまい申し訳ない」

 頭を下げる刹からは、常の飄々として捉え様のない雰囲気が消失しており、示している態度の通りに思っているようだ。

「昨日出てきたアレみたいなモノは言ってしまえば天災みたいなものでね、地震の予測みたいに大雑把な予想は建てられるのだけれど、正確にいつ現れるのかまでは把握ができていないんだ。それを言い訳に使うつもりはないけれど、参事に巻き込んでしまって申し訳ない。本当はもっと安全に事を進めるつもりだったのだけれど、予定が狂ってしまったんだ」

 その時、綾香は直感的になにかよからぬことを言われるような気がした。

「そこで、だ。僕から一つ提案があるんだ」

 次に刹から発せられる言葉、その一言が今後の運命を大きく左右する。そんな予感から綾香は息を飲んだ。

「僕たち〝万屋〟の仲間にならないかい?」

 綾香は黙って言葉の続きを待つ。

「これは強制ではないから、篠宮さんがどうしても厭であれば拒んでもらっても構わない。けれど、逢坂さんの為にも、その後の篠宮さんの為にも僕たちの仲間になって欲しいんだ」

「……どうして私じゃないと駄目なんですか?」

 綾香は自分が〝万屋〟に必要とされる理由など思い当たらなかった。

「その理由は一つだけだよ」

 刹は呼吸一つ分間を開けてから続ける。

「篠宮さんに素質があるからだ」

「私に……ですか?」

 この身に〝万屋〟の面々のような特殊な才能があるとは思えず、綾香は首を傾げる。

「ああ、そうだよ。直ぐには信じられないだろうけれど、篠宮さんの中に眠っているモノはこの中にいる誰よりも可能性を秘めているんだ。その可能性を護る為にも、僕たちの手の届く範囲に居て貰って、自分で自分の身を護るだけの術も教えようと思うんだ」

「…………」

 刹が言っていることはきっと客観的に見た事実なのだろうが、綾香にはどうしてもその言葉を飲み込めなかった。

 昔から霊感なんて不可思議なモノを感じ取ったことは一度もなく、今回のような怪異に巻き込まれるのも昨日が初めてだった。そんな自分にどのような可能性があるのか、綾香はさっぱり理解できないでいる。

 静かに思考を巡らせている綾香に向けて、刹はまた語る。

「それにこれはさっき言った通りなのだけれど、篠宮さんの為でもあるんだ」

「私の為……ですか?」

 綾香はその言葉に伏せていた顔を思わず持ち上げた。

「そう、篠宮さんの為でもあるんだ。昨日僕たちは普通であれば起きえないような事象に出会ってしまったね。あれこそが僕たちが戦っている敵なんだ。昨日のは強さから見て〝虚影〟ではなく、その欠片の〝霊〟の様だけれど」

 あれ程に恐ろしく狂気に満ちたモノだったと言うのに、それが〝虚影〟の下位の存在であるただの〝霊〟なのかと思うと、〝虚影〟は一体どれ程の存在なのか、想像するだけでも恐ろしかった。

「昨日は結果的に何事もなく帰って来られたけれど、普通の人間だったら〝霊〟と邂逅してしまっただけでもかなり危険な代物なんだ。あの水の槍みたいに身体へ直接危害を加えるのは勿論だけれど、奴らの攻撃で厄介な点は精神を蝕んでくることなんだ。僕たちみたいな人間はソレには元々ある程度の耐性を持っているし、喰らってしまっても抗えるように鍛錬をしている。けれど、一般人がアレに出会って、水飛沫一つにでも触れてしまえばそれだけでも気絶し兼ねないんだ。あんな場で意識を失ってしまえばどうなるかは、現場を見た篠宮さんにはよくわかるよね」

 想像する必要もない。有無をも言わさずにすべてが終わってしまう情景が脳裏に浮かんだ。

「けれど、篠宮さんは自身の足であの場を去ることができたね。あんな状況で水飛沫に一つも触れないなんてどう足掻いたって無理だ。それでも目の前の状況を見守り続け、立ち続けていられたのは、篠宮さんにも僕たち同様に生まれつき耐性があるからなんだ」

 言われてみればあの時に幾らか水滴を被っていたが、そんな些細な物に気を止めていられるような状況でもなかった。

「それでもまだ免疫が付いていから少し疲弊しているようだけれど、初めてで体調を崩していないのだから、かなりの素質があるよ。僕なんて初めて怪異に触れた時は一週間程寝込んでしまったからね」

 高く自分を買ってくれている。だが、素直に喜べるような内容でもなく綾香はこの評価をどう受け止めればいいのか困惑している。

「いきなりこんなことを告げられたって戸惑ってしまうのはもっともだ。でも、これは高い評価でなければその逆でもない。率直に篠宮さんを評価した結果なんだ。こんなに魅力のある人材を放っておくなんて勿体ないことはしたくないんだ。だから、僕たちの仲間となって欲しいんだ。それに、また繰り返すことになるけれど、これは篠宮さんの為でもあるんだ」

「……」

 どう受け止めればいいのかわからず、綾香は無言のまま刹を見つめる。

「一度何等かの形で怪異に巻き込まれてしまった人間と言うのはどうしても怪異、つまりは〝霊〟若しくは運が悪ければ〝虚影〟を引き付けてしまうんだ。不幸は連鎖するなんて上手くこの状況を表しているけれど、正しくその通りなんだ。だから、篠宮さんは僕たちとの関わりを断ったとしても、今後間違いなく怪異に巻き込まれてしまう。そうなった時に対処できるように、身を護れる術を教える為にも僕たちと一緒に居て欲しいんだ」

 自らの身を案じての提案に綾香は更に懊悩する。

 確かに昨日のようなモノに一人で出くわしてしまったら、自分だけでは抗う暇すらなく、易々と蹂躙されてしまうだろう。保身の為にも仲間となった方がいいのはわかっている。だが、今の協力者という部外者の立場から、仲間という内側の関係になるのにはどうしても躊躇ってしまう。

 刹の言葉通り不幸が連鎖するのであれば、その不幸のただなかへと飛び込む〝万屋〟に入ってしまえば更なる不幸の深みへと続く、終わりなき螺旋階段を下るのではないか?

 入らなかったとしても、いつ眼前に現れるとも知れない不幸に怯えながら日々を過ごし、一人で怪異と出くわしてしまえば一貫の終わりだ。

 どちらも選びたくない両天秤。

「難しい問題だから直ぐに答えを求めたりはしないよ。答えるのはこの一件が無事片付いてからでも構わない。けれど、これだけは伝えておきたいんだ」

 刹は一呼吸間を開けてから、綾香を見据え告げる。


「僕の命に代えても篠宮さんを護り抜くよ」


 綾香は唖然としていた。

 そこまでして護って貰えるような関係でもないのに、刹のその言葉からは確たる決意が滲み出ており、本当に言った通りのことを実行するように思えた。

「僕はこれでも〝万屋〟のリーダーを務めているんだ。リーダーが仲間を護るなんて当然のことだよね。それに、大切な仲間に大怪我を負わせてしまったなんてなると、歴代の〝万屋〟の方々にも顔向けができないからね。意外に思われるのだけれど、僕はこれでも仲間思いで、時には熱血漫画の主人公並みに熱くなったりもするんだよ。だからね、僕のこの命を賭けて、矜持を貫き通す為にも仲間は絶対に護るよ」

 刹の表情は普段通りの薄気味悪い微笑みだというのに、何故だか不思議と安心できた。いつもは畏れしか抱けない表情なのに、この時ばかりは後退る気持ちもなかった。

「最後にもう一度だけ言わせてもらうね。篠宮さん、僕たち〝万屋〟の仲間になって貰えないかな?」

 是か非か、決めるなら今だった。

「……悠里を助けてくれるんですか?」

「ああ、最大限に力を貸すよ」

「護ってくれるんですか?」

「この命に代えても」

 全ての感情を覆い隠す微笑みの仮面の下に潜む、刹の本心に少し触れたような気がして、綾香の気持ちは大きく揺らいでいた。刹の本心は未だによくわからない。けれど、自分の言葉を歪めない為に行動する刹の意思は信用できそうだった。

 思い返してみれば、刹は綾香の身の事を随分と思いやっていた。

 危険な場所だからこそ、事前の下調べをして安全を確保していた。

 疲弊していた姿を見て、話すべき事があるはずなのに後回しにした。

 不安は拭い切れない、それでも刹の言葉に込められた思いを信じてみようと思った。その決意に賭けてみようと思った。

 悪意に打ち勝つ意思を見たいと思った。

 だから――


「私、入ります」


 〝霊〟やまだ見ぬ〝虚影〟に怯えて日々を過ごすなんてまっぴらごめんだった。それよりも何よりも、綾香は自身の手で悠里を救い出したい。

 だからこそ、

「私を〝万屋〟に入れてください」

 部屋の最奥で微笑み続ける刹に向けて腰を折った。

 今までの日常にサヨナラを告げて、これから先へと進むために綾香は強くなろうと決意する。

「ああ、もちろん歓迎するよ」

 綾香は深々と下げた頭をあげ、再び刹の表情を見た時、それは本当に嬉しさから微笑んでいるように見えた。


 †

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怪異にまつわる物語 337 @337

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